吉田拓郎がファンクサウンド&ドゥーワップ風コーラスでカバーした「骨まで愛して」は1966年に城卓矢が歌唱した〝ド演歌〟のミリオンセラーだった
「ラジオが青春だった」という吉田拓郎が、Newコンセプトミニアルバム「ラジオの夢」を今年2月1日にリリースした。その全5曲のなかに、「骨まで愛して」を歌唱していることに少なからず驚かされた。「ラジオと吉田拓郎」は確かに長い歴史がある。はじめてラジオのパーソナリティを務めたのは、TBSラジオの「パックインミュージック」(1972年4月から9月まで)。同時期に「バイタリス・フォーク・ビレッジ」(ニッポン放送)、数年後には「セイ!ヤング」(文化放送)、そして「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)は、1970年代から2020年代まで各年代に亘っていて、長い間パーソナリティを務めている。深夜に聴く彼の漫談のようなフリートーク(MC)は人気があったし、当初はテレビの露出がほとんどなかった吉田拓郎の人気はラジオという媒体を通して高まっていった。
ところで、北山修(ザ・フォーク・クルセダーズ)や泉谷しげる、吉田拓郎、南こうせつ、中島みゆき、谷村新司ら人気を集めたミュージシャン・パーソナリティが出現する以前の深夜放送では、〈ディスク・ジョッキー〉という呼び方でいわゆる〝局アナ〟が務めていたが、フォーク・ソング系のミュージシャンを起用することになって〈パーソナリティ〉と呼ぶようになった。放送作家もいなかった彼らは、自らの内面をさらけ出すことで若いリスナーたちとの濃密な関係を築いていったのだ。
昨年9月13日、「オールナイトニッポンGOLD」に出演し近況を伝えながら、「ラジオの夢」の制作を報告した吉田は、「振り返ると子供の頃からラジオがそばにいてくれたお蔭で音楽に芽生え、その後もいろんなシーンで僕を救ってくれた。リスナーからもらったメールやハガキが作詞する上で参考になったこともあった、ありがとう」と語りかけた。「僕にとってラジオはホント、宝物なわけ」と言い、あの頃の想いをもう一度と〝ラジオと青春〟をコンセプトにした79歳の吉田拓郎の最新アルバムが「ラジオの夢」に結実した。全5曲は、今作のために書き下ろした「Address Unknown」、加藤和彦との共作曲「五月の風」を新たな楽曲に書き直した「五月の風partⅡ」、「骨まで愛して」、かつての〈バイタリス・フォーク・ビレッジ〉番組内のテーマ曲に新たな歌詞を加えたリメイクカバー「真夜中のレター」、そして書き下ろし曲「主役」が収められた。
この中で、「骨まで愛して」をカバー曲として選曲していたのはなぜか。時系列ではパーソナリティとしての〝想い〟というより、1966年といえばリスナーとしての彼が二十歳だった頃の大ヒット曲である。当時、彼がどんな想いで、「骨まで愛して」を聴いていたのか興味深いが、〝愛〟をテーマにラジオという媒体でリスナーに寄り添った時、最もふさわしい表現の楽曲だったと感じていたとしか言いようがない。ところが、あの〝ド演歌〟の「骨まで愛して」を、60年近くを経て彼の手をかけたとき、フォーク・ロックというより、ファンクサウンドとして生まれ変わらせたのは、吉田拓郎らしい男の〝照れ〟なのではないだろうか、と思ってしまう。フォークか歌謡曲かの議論も生まれた、森進一に提供した「襟裳岬」(1974年)は日本レコード大賞を受賞したが、彼との歌唱の違いが明らかだったように吉田拓郎スタイルは崩そうとしていない。同時に演歌を懐かしむようになって行くわれら老人へのレジスタンスなのか、俺が歌えばこうなるんだ!と開き直っているかのようだ。
さて、前回の本欄で川内康範作詞の「月光仮面は誰でしょう」を取り上げたが、「骨まで愛して」は同じ川内の作詞である。題名からしてちょっと奇を衒ったアナーキーな雰囲気が気持ち悪かったが、さすが昭和のミリオンセラーは、われら団塊の世代には鮮明に残っている。骨まで~骨まで~骨まで愛してほしいのよ、と街角で子供たちがふざけ半分で愛唱していると、大人は眼を剥いて睨んでいた。
歌い手の城卓矢(じょう たくや)は裏声と地声を交互にするヨーデルの歌唱が得意のカントリー&ウエスタンの歌手で、城卓矢と改名する以前は、菊地正夫(本名・正基)。歌唱力は十分あったし、風貌も美男子だった。〈NHKのど自慢〉に出場してハンク・ウイリアムズの「ロング・ゴーン・ロンサム・ブルース(Long Gone Lonesome Blues)」を歌い満点を獲得。ウイリー沖山らのブルー・レンジャーズというバンドの目に留まってヴォーカルとしてスカウトされるが、バンドは間もなく解散。菊地正夫として「日劇ウエスタンカーニバル」のキャラバンメンバーになっている。1960年、テイチク・レコードと専属契約し、「ひとりぽっちで」でシングルデビューした時は25歳。B面の「スタコイ東京」という民謡ロックが話題になったが、鳴かず飛ばずだった。1963年に東芝レコードに移籍して「アホカイ節」等をリリースしたがパッとせず、叔父の(叔母の元夫)川内康範が乗り出した。すでに作詞家、作家、脚本家として押しも押されもしない川内がプロデューサーとなって城卓矢と改名して再デビューを図ったのである。その最初の曲が1966年1月にリリースされた「骨まで愛して」だった。作詞名は妻の〈川内和子〉とし、城の兄の北原じゅん(本名・菊地正巳)が〈文れいじ〉と表記して作曲している。ヨーデル歌唱も民謡ロックも、これまでの菊地正夫をすべて捨てる、という意気込みの心機一転だったのである。
因みに作曲家・北原じゅんは、西郷輝彦「君だけを」、北島三郎「兄弟仁義」、瀬川瑛子「命くれない」など、それぞれ代表作ともいえるヒット曲を提供している。解せないのは、1966年2月4日に起きた全日空羽田沖墜落事故の現場に川内康範は駆けつけて、目撃した体験から制作されたという経緯が未だに語り継がれていることである。リリースされたのは、同年1月であり、時系列では間尺に合わない。「骨まで」という激しい表現と航空事故による恋人の変わり果てた悲惨さが生んだ架空のエピソードだったのか。それほど「骨まで~」は、衝撃的な強烈な表現だったといえる。川内は楽曲のヒットを見込んで、急ぎ脚本を書き上げて日活で映画化し、同名で公開したのが7月。監督・斎藤武市、主演・渡哲也、松原智恵子、浅丘ルリ子らが共演し、城卓矢は本人役で出演し主題歌として歌唱もしている。ヤクザの足を洗おうとする渡が、撃ち合いの流れ弾に当たって死んだ愛する浅丘の〝遺骨〟を抱いて港を離れる姿に「骨まで愛して」が重なる歌謡ドラマだった。
そして城卓矢は、この年の第17回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。川内康範の思惑通り、累計167万枚の超ミリオンセラーとなった。振り返ればボクも、ラジオから流れる城卓矢の低音から高音の豊かな音域の歌唱力を耳にしながら、青春の一時期を送っていたに違いない。曲名からして怪しい歌だな、といぶかしげに思いながら、骨まで、骨まで、骨まで~と彼女に迫っていたのかも…。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫