【奴隷から皇帝の正妻へ】オスマン帝国を操った悪女?一夫多妻制を廃止したロクセラーナ
16世紀のオスマン帝国において、奴隷として連行されながらも皇后にまで上り詰め、「一夫多妻制」が主流だった時代に「一夫一婦制」を実現させた稀有な女性がいた。
彼女の名は、ロクセラーナ(ヨーロッパ名)。正式にはヒュッレム・スルタン(スルタンは「皇帝」、ヒュッレムは「陽気な人」)。
彼女は、当時世界でもっとも強大な国の一つとして君臨していたオスマン帝国の皇帝、スレイマン1世の妻となり、その地位を確立した。
その生涯は波乱に満ち、帝国内の勢力争いを制し、皇位継承にも関与するなど、歴史に名を残す存在となったのである。
奴隷として買われ皇帝のハレムへ
ロクセラーナは1504年頃、ルテニア(現在のウクライナ西部)に生まれた。
正教会司祭の娘であり、アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカと名付けられた。
しかし、彼女の運命は少女時代に大きく変わる。
15歳頃、東ヨーロッパの村落や都市を襲撃していたクリミア・タタール人に捕らえられ、奴隷としてオスマン帝国の首都イスタンブールへ連行されたのである。
当時のオスマン帝国では、奴隷市場で若い女性が売買されることは珍しくなかった。
なかでも美しく聡明な女性は、宮廷に仕えるハレムの一員として選ばれることがあり、ロクセラーナもその一人となったのだった。
彼女は、スレイマン1世の側近イブラヒム・パシャに買われた後、皇帝であるスレイマン1世に献上され、ハレムでの生活を始めることになったのである。
ハレムでの台頭
オスマン帝国のハレムは、単なる後宮ではなく、皇帝の家族や側近が暮らし、政治的にも重要な役割を担う場であった。
女性たちは「キャディン(側室)」や「カルファ(侍女)」として教育を受け、宮廷の礼儀作法やコーランの朗誦、音楽、詩、裁縫などを学ぶことが求められていた。
ロクセラーナも同様に教育や教養を身につけ、とくに詩を詠むことに長けていたという。
一方で、ハレム内部では厳しい規律が敷かれ、皇帝から寵愛を受ける女性たちのあいだで熾烈な競争が繰り広げられていた。
当時、皇帝であるスレイマン1世にはすでに、第一夫人マヒデヴランとの間に皇子ムスタファがいた。
ムスタファは次期皇帝の有力候補とされ、その母であるマヒデヴランもまた、ハレム内で確固たる地位を築いていた。
そんな環境の中で頭角を現したのがロクセラーナである。
彼女は絶世の美女というわけではなかったが、聡明で機知に富み、陽気な性格を持っていたことから、「ヒュッレム(陽気な人)」と呼ばれるようになった。
スレイマン1世は、ロクセラーナの知性と明るい笑顔に魅了され、やがて深い寵愛を注ぐようになる。
1521年、ロクセラーナは最初の皇子メフメトを出産。
その後、ほぼ毎年のように、皇女ミフリマー、皇子アブドゥラー、皇子セリム2世、皇子バヤズィト、皇子ジハンギルの五男一女をもうけた。
当時のオスマン帝国では、皇子を産んだ側室は、その子が成人するまで共に地方の属州へ赴き、統治経験を積ませながら後継者として育てるのが一般的であった。
しかし、ロクセラーナはこの慣習を破り、皇帝であるスレイマン1世のそばに留まり続けたのである。
ライバルの嫉妬を利用したロクセラーナ
ロクセラーナが皇子を出産し、スレイマン1世の寵愛を一身に集めるようになると、それまで唯一の皇子を産んだ母としてハレムで確固たる地位を誇っていたマヒデヴランは、後継争いを意識せざるを得なくなった。
ある日、ハレム内での口論がきっかけとなり、マヒデヴランがロクセラーナに手を上げ、彼女の顔に傷を負わせるという事件が起こる。
この衝撃的な出来事はまたたく間にハレム内に広まり、ロクセラーナは涙を流しながらスレイマン1世のもとへ向かった。
彼女はマヒデヴランに傷つけられたことを訴え、自らが不当な扱いを受けた被害者であることを強調した。
スレイマン1世は、最愛の側室であるロクセラーナが暴行を受けたことに激怒し、マヒデヴランに強い不快感を抱くようになる。
これにより、マヒデヴランのハレム内での立場は大きく失墜した。
これはまさにロクセラーナが狙っていた状況であり、彼女はマヒデヴランの暴行を巧みに利用し、自らの優位性を高めたのである。
やがて、スレイマン1世の命令により、マヒデヴランは息子ムスタファとともに地方へ移され、ハレム内での影響力を完全に失ったのだった。
後年になって、「ロクセラーナは自ら顔に傷をつけ、それをマヒデヴランの仕業に見せかけた」とする自作自演説を唱える研究家も出てきている。
皇后となり、「一夫多妻制」から「一夫一婦制」へ
1534年、スレイマン1世の母ハフサが死去すると、ハレムにおける権力構造は大きく変化した。
ハフサはそれまでオスマン帝国の後宮の最高権力者であり、宮廷政治にも影響を及ぼしていた。
しかし、彼女の死によって、その権力はロクセラーナへと移行することとなる。
これにより、ロクセラーナのハレム内での支配力は一層強まり、スレイマン1世の絶大な信頼を得ることに成功した。
さらに、この年、スレイマン1世はロクセラーナと正式な婚姻関係を結び、彼女を「ハセキ・スルタン(皇帝の正妃・皇后)」とした。
従来、オスマン帝国の皇帝は複数の側室を持つことが通例であり、正式な結婚をすることはなかったのである。
しかし、スレイマン1世はこの慣習を破り、ロクセラーナを帝国でもっとも権力を持つ女性の座に据えたのだった。
ロクセラーナが奴隷から皇后にまで上り詰めたことは、ハーレム内のライバルたちだけでなく、帝国の一般大衆からも嫉妬と嫌悪を集めたという。
同時に、「スレイマン1世は自主性を失い、妻に支配されコントロールされている。」という噂が広まったのだった。
「一夫多妻制」を廃止したスレイマン1世の功績
スレイマン1世がロクセラーナと正式に結婚し、他の側室を持たなくなったことで、オスマン帝国の皇帝における一夫多妻制の伝統は、事実上廃止された。
以降の皇帝たちは、ロクセラーナの例にならい「ハセキ・スルタン(皇帝の正妃・皇后)」制度を確立し、特定の一人の女性を正妃とする傾向が強まっていった。
また、ロクセラーナ自身も、皇帝が複数の側室を持つことに否定的であった。
彼女はスレイマン1世の愛情を独占し、後宮の女性たちの影響を排除することで、自身とその息子たちの立場を強固なものにしたかったのである。
それまでのオスマン帝国では、皇帝の死後、皇子たちによる後継者争いが激化し、兄弟殺しが頻繁に行われていた。
しかし、ロクセラーナが唯一の正妃となったことで、彼女の息子たちが有利な立場を確保し、皇位継承の安定化が図られた。
この変化は、スレイマン1世が望んだ「帝国の安定」にもつながることとなった。
スレイマン1世がロクセラーナと正式に結婚し、一夫多妻制を事実上廃止したのは、単なる愛情の問題ではなく、宮廷内の権力闘争を整理し、皇位継承の安定を図るための戦略的決定だったのである。
「スレイマン1世の父」と自称した大宰相を処刑
皇后となり、絶対的な権力を手に入れたロクセラーナだったが、彼女の野望は膨れ上がるばかりであった。
自らの息子を次期皇帝にするため、彼女はあらゆる障害を排除する覚悟を持っていた。
その中には、若かりし頃、奴隷だった自分を買い、ハレムに入れた大宰相、イブラヒム・パシャの存在も含まれていた。
イブラヒムはスレイマン1世のもっとも優れた側近であり、1523年に大宰相に任命された人物である。
軍事・外交・行政のすべてを統括し、スレイマン1世から絶対的な信頼を得ていた。
しかし、彼の権力は次第に強大になり、スレイマン1世に匹敵するほどの影響力を持つようになっていったのである。
自らを「新たなセリム1世(スレイマン1世の父)」と称し、フランスとの外交交渉でも独断的に振る舞ったことで、スレイマン1世の不興を買い、忠誠心を疑われるようになってしまう。
ロクセラーナはスレイマン1世に対し、イブラヒムの権力が危険であると繰り返し忠告し、彼の失脚を促していた。
1536年3月15日、スレイマン1世はイブラヒムを宮廷の宴に招く。
イブラヒムは皇帝の信頼をまだ完全には失っていないと考えていたが、その夜、逮捕され、翌朝には処刑されたのだった。
イブラヒムの死後、財産は没収され、彼の影響力は完全に消滅した。
これにより、ロクセラーナとその息子たちは、宮廷内の最大の障害を取り除くことに成功したのである。
第一皇子ムスタファも反逆罪で処刑
大宰相イブラヒムの処刑後も、皇位継承を巡る争いは続いていた。
スレイマン1世の長男である皇子ムスタファは、オスマン帝国の軍隊、とくにイェニチェリ(親衛隊)のあいだで圧倒的な支持を得ており、次期皇帝の有力候補とみなされていた。
そこで、ロクセラーナとその支持者たちは、「ムスタファが反逆を企んでいる」との疑惑をスレイマン1世に植えつける工作を行うことにした。
1553年、スレイマン1世はペルシャ遠征の途上でムスタファの影響力が強まっていることを耳にする。
宮廷内では、「ムスタファが軍の支持を受けて反乱を起こすのではないか」という噂が広まり、スレイマン1世は次第に息子に対する疑念を深めていった。
そして同年、スレイマン1世はムスタファを呼び寄せた。
何も知らずに父のもとへ向かったムスタファは、到着するとすぐに拘束され、スレイマン1世の命令により反逆罪で処刑されたのだった。
この処刑は、軍部に大きな不満と混乱を生じさせ、オスマン帝国の歴史においてもとくに衝撃的な事件として知られることになる。
しかし、この出来事により、ロクセラーナの息子たちの皇位継承が決定的となったのである。
政治的手腕を発揮したロクセラーナ
ロクセラーナは、単なる皇后の地位にとどまらず、スレイマン1世の政治顧問としても活躍した。
彼女はスレイマン1世の遠征中、帝国内の情報を提供し、外交にも関与した。
とくに、ポーランド王国の王妃との書簡のやり取りなど、非公式な外交活動も行っていた。
また、慈善活動にも積極的であった。
イスタンブール、エディルネ、メッカ、エルサレムなど各地に学校や病院、貧困層支援施設を建設し、多くの人々を支えた。
これらの施設は、彼女の宗教的信仰と社会貢献の意識を示すものであった。
しかし、1558年、ロクセラーナは病に倒れ、息子の次期皇帝即位を見ることなく死去した。
享年には諸説あるが、おそらく54歳前後と考えられている。
スレイマン1世は、ロクセラーナの闘病中、彼女の平穏を乱さないように、宮廷の楽器をすべて燃やすよう命じたと言われている。
また、彼は、ロクセラーナが亡くなる最期の瞬間まで、彼女の枕元から離れなかったという。
ロクセラーナの遺体は、スレイマニエ・モスクの内庭に埋葬され、後世になってその上に建設された霊廟の棺に納められた。
ロクセラーナの遺産
冷静で計算高く、策略家であったロクセラーナは、奴隷から皇后へと上り詰め、一夫多妻制のオスマン帝国の慣習を終わらせ、一夫一婦制に変えさせることに成功した。
その影響力はスレイマン1世の治世にとどまらず、後のオスマン帝国にも深く刻まれることになった。
1566年、スレイマン1世の死後、ロクセラーナの四男であるセリム2世が皇帝に即位した。
しかし、セリム2世は軍事や政治には積極的に関与せず、宮廷での享楽を好んだため、統治の多くを宰相や後宮の女性たちに委ねるようになる。
この傾向は彼の死後も続き、後宮の女性、とくに皇太后が政治の中枢に関与する体制が確立されたのだった。
こうして、セリム2世の即位は、女性たちが実権を握る「女人統治時代(カドゥンラー・スルタナトゥ)」の先駆けとなったのである。
また、ロクセラーナが築いた宮廷文化や慈善活動、社会福祉の制度は、その後のオスマン帝国にも引き継がれた。
オスマン帝国の歴史に新たな変革をもたらしたロクセラーナは、常に逆境に立ち向かい、自らの運命を切り開き続けた。
権力と愛情、そして人間の可能性を示す象徴的な存在となり、歴史にその名を刻むことになった。
彼女が眠るイスタンブールのスレイマニエ・モスクの敷地内にある「ヒュッレム・スルタン霊廟」には、現代においても多くの人々が訪れている。
その影響力は今もなお、オスマン帝国の歴史のなかで色褪せることなく生き続けている。
参考 :
『寵妃ロクセラーナ』澁澤 幸子 (著)
『スレイマン大帝とその時代』 アンドレ・クロー (著) 浜田正美(著)
文 / 藤城奈々 校正 / 草の実堂編集部