五輪史上最も悪名高い、前回大会メダリストによる不正事件 1976年モントリオール大会【オリンピック珍事件】
フェンシングの剣に細工施したオニシェンコ
1976年7月、カナダのモントリオールで開催された第21回オリンピック夏季大会。この大会は、様々な記録や感動的な瞬間を生み出した一方で、オリンピック史上最も悪名高い不正事件が起こった大会としても記憶されることとなった。その主役は、ソ連(現ロシア)の近代五種選手、ボリス・オニシェンコである。
近代五種は、射撃、フェンシング、水泳、乗馬、ランニングの5種目で構成される競技だ。オニシェンコは1972年のミュンヘン五輪では男子個人で銀メダルを獲得しており、モントリオール大会では金メダル候補の一人として注目されていた。
大会2日目に行われたフェンシング競技で、オニシェンコは驚異的な成績を残す。しかし、その異常な強さに疑問を抱いた選手がいた。イギリス代表のジム・フォックスとエイドリアン・パーカーだ。彼らは、オニシェンコの剣が相手に触れていないのに得点が入る場面を何度も目撃したのである。
フォックスとパーカーは審判に抗議。オニシェンコの剣が検査のため没収された。そして検査の結果、剣の内部に細工が施されていることが発覚。通常、フェンシングの剣は選手が相手に触れると電気信号が流れ、得点が記録される仕組みになっている。だが、オニシェンコの剣には隠しスイッチが取り付けられており、剣が相手に触れていなくても、スイッチを押すことで得点を記録できるようになっていたのだ。
メダリストを不正へと駆り立てた東西冷戦下における過剰な重圧
この不正発覚により、オニシェンコは失格処分に。彼の行為はオリンピックの精神を根底から覆すものとして、世界中に衝撃を与えた。ソ連チームは大会からの即時撤退を余儀なくされ、オニシェンコ個人も永久追放処分を受けることとなった。
この事件は、単なる一選手の不正というだけでなく、当時の東西冷戦を背景とした政治的な側面も持っていた。ソ連にとってオリンピックでの成功は、国家の威信をかけた重要事項だった。そのプレッシャーがオニシェンコを不正へと駆り立てた一因とも考えられている。
事件後、オニシェンコは故郷のウクライナに戻り、以後公の場に姿を現すことはなかった。この事件を受け、国際オリンピック委員会(IOC)とフェンシング連盟は、競技の公平性を保つためのセキュリティ強化に乗り出した。剣の検査手順が厳格化され、不正を防ぐための新たな技術も導入された。
オニシェンコの事件は、スポーツにおける誠実さの重要性を改めて世界に知らしめることとなった。勝利への執着がどれほど人間の判断を狂わせ、取り返しのつかない結果をもたらすかを如実に示したのである。
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記事:SPAIA編集部