武田勝頼は愚将ではなかった? 信長・家康・謙信からの評価とは
天正10年(1582年)3月11日、甲斐天目山にて武田勝頼主従が自刃。ここに戦国大名としての武田家は滅亡しました。
武田勝頼と言えば、偉大なる父・武田信玄を超えようと躍起になった結果、重臣たちの信望を失った愚将として語られがちです。
古来「負けに不思議の負けなし」と言う通り、敗れ去ったからには相応の理由があり、勝頼に多少なりとも欠点があったのは間違いありません。
しかし、父親の人気と武田家滅亡という結果が相まって、過剰にネガティブな評価がなされてはいないでしょうか。
果たして実際の勝頼はどんな人物だったのでしょうか。同時代の人物たちによる評価を見てみたいと思います。
織田信長による勝頼評
「甲州の信玄が病死した。その後は続くまい(意訳)」
※山家素行『武家事紀』より
かつて「甲斐の虎」と恐れられた信玄さえいなくなれば、勝頼など恐るに足らぬ。当初はそのように軽んじていたようです。
しかし思ったより抵抗が激しく、決して侮れない存在と評価を改めます。
天正3年(1575年)の長篠合戦で壊滅的打撃を与えた後は、もはや脅威ではないと内外に豪語するようになったものの、最後の最後まで警戒を怠りませんでした。
その証拠として、天正10年(1582年)の甲州征伐に際してはこのような動きを見せています。
一、嫡男の織田信忠に対し、反撃を警戒して過度の進撃を戒めました。
一、越中国で「自分が勝頼に敗れて討死した」とデマを流して一揆を誘発、これを鎮圧させています。
二つ目は越中の人々が、勝頼が信長を倒し得る実力を持っていると認識していたことの証拠と言えるでしょう。
そして勝頼の首級と対面した信長は、こう感嘆しました。
「日本に隠れなき弓取(武士)であったが、運が尽きてしまったのだろう(意訳)」
※大久保彦左衛門『三河物語』より
十分な実力を備えながら、家中と不和と外交の失敗が命運を尽きさせてしまったことを惜しんだようです。
徳川家康による勝頼評
「先例にとらわれない決断力は、勇気と智恵に裏づけられている(意訳)」
※身延山久遠寺の書状より。
これは、天正9年(1581年)に駿河国で北山本門寺と西山本門寺が争いを起こした際、家康が勝頼が下した裁許について評したものです。
先例よりも合理性を重視すると言うのは簡単ですが、実際には利権やしがらみがあるため、その決断は勇気と智恵無くして実現できるものではありません。
父・信玄を超えたい(自分が新たな権威を打ち立てたい)という思いが最大の動機であった可能性もあり得るものの、実力がなければもみ消されてしまったでしょう。
こうしたことからも、勝頼には相応の勇気と智恵が備わっていたことがうかがえます。
上杉謙信による勝頼評
武田信玄のライバルとして知られる「越後の龍」こと上杉謙信も、勝頼を軽んじてはいませんでした。
「勝頼は片手間であしらえる相手ではない。軽く見ていると、由々しき事態を招くであろう(意訳)」
※信長にあてた謙信の書状より。
これは純粋に心配しているのか、あるいは自身の戦略上信長を惑わすためか分かりませんが(だからこそ謀略たりえるのですが)、いずれにしても勝頼を警戒していたのは確かでしょう。
また、上杉家文書に「四郎(勝頼)は若輩者といえども、亡き信玄の掟を守る表裏者である(意訳)」という評価も伝わっています。
表裏者とはウラオモテのある人物、すなわち裏切り者とか嘘つきを指しますが、ここでは謀略を駆使する老獪な武将と見るのが妥当でしょう。
つまり謙信は、勝頼を信玄の薫陶を受けた謀略家として、油断ならない存在と見ていたのです。
武田家臣たちによる勝頼評
「雄弁で堂々たる態度であり、態度智恵も武勇もすぐれている。しかし強気すぎるゆえ、このままでは国を滅ぼしてしまうであろう(意訳)」
※高坂弾正『甲陽軍鑑』より。
「勝頼はおべっか使いばかり取り立て、親族や重臣らを遠ざけたために破滅した(意訳)」
※甲州征伐の際に徳川家康へ降伏した穴山梅雪の証言より。
滅亡してしまった武田家臣たちは、勝頼に対して概ね否定的だったようです。
勝頼は優秀であったけれど、高い能力と亡き父を超える気概が災いし、家臣団の分裂を招いてしまいます。
そして外交の失策も相まって、とうとう滅亡してしまったのでした。
もし勝頼が凡庸むしろ愚将だったとして、その現実を受け入れた上で家臣団の結束に努めていたら、結果はもう少し違っていたかも知れません。
終わりに
今回は武田家滅亡の主人公となってしまった武田勝頼について、同時代を生きた人々の評価をまとめてみました。
武田家の最高責任者として、滅亡の責任はすべて勝頼が負うべきものではあります。しかし責任があることと能力は必ずしもイコールではありません。むしろ信長の評した通り運が尽きたためとも言えるでしょう。
もちろん運は日ごろの積み重ねが招く面も大きいため、やはり勝頼の責任は免れませんが……。
今も評価の大きく分かれる勝頼ですが、その能力に関する再評価は着々と進んでいるようです。
※参考文献:
・笹本正治『武田勝頼 日本にかくれなき弓取』ミネルヴァ書房、2011年2月
・平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』吉川弘文館、2014年1月
・丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の器量』平凡社、2017年9月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部