世界が恐れ嫌悪した禁書『ソドム百二十日』とは ~サディズムの語源となったサド侯爵
『ソドム百二十日』とは、貴族であり作家のマルキ・ド・サドが、1785年に著した処女作である。
マルキ・ド・サドは「サディズム」の語源となった人物だ。
貴族の家系に生まれ、侯爵の爵位を持っていたサドは、物乞いの未亡人や娼婦にはたらいた暴行や蛮行の咎で捕らえられて死刑判決を受け、収監されたバスティーユ牢獄で過ごす日々の中で、小説の執筆に目覚めた。
そして最初に著されたのが、今回紹介する『ソドム百二十日』(原題:『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』フランス語: Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage)である。
人間のあらゆる性癖やフェティシズム、加虐嗜好の徹底的なカテゴリ化が実践された、小説というよりも草稿に近いこの作品は、世界中で禁書として扱われながらも、人類を分析する上で科学的な重要さを持つ作品とも評された。
そして当局の目を盗んで人々の手を渡り歩いた『ソドム百二十日』の草稿は2017年にフランス国宝に指定されて、今はフランス国立図書館のアルセナル図書館に所蔵されている。
今回は、未完でありながらサド文学の代表作ともいわれる問題作でありながら、その草稿がフランス国宝となった『ソドム百二十日』について触れていきたい。
『ソドム百二十日』のあらすじ
ルイ14世の治世の終わり頃、汚職や殺人という卑劣な手段で莫大な財産を築いたブランジ公爵と、その仲間であり同類の3人の男が、真冬に「黒い森(シュヴァルツヴァルド)」にある人里離れた古城に集まった。
彼らはフランス中から誘拐されてきた美しい少年少女たちと4人の妻(娘)、4人の取り持ち女(娼婦と客を仲介する女性)、8人の屈強な男たちや召使らと共に、その古城で120日間閉じこもる。
城の中では4人の取り持ち女が、1ヶ月交代で「語り部」となり、1人150話、合計600話の倒錯的な物語を語り、ブランジ公爵ら4人の主人と8人の男たちは、その場で物語の内容を実行に移していく。
犠牲者となってしまう妻と少年少女たちは、男たちからありとあらゆる狂気的な性的虐待と拷問を加えられて、その大半が命を落としてしまうのだ。
様々な性的倒錯、暴力、背徳、無神論をテーマとして物語は描かれていくのだが、全4部構成のこの作品は第1部が小説として完成したのみで、第2部以降は未完のまま、草稿がサドの手から離れてしまったのである。
サドが『ソドム百二十日』を書くに至った経緯
作者のマルキ・ド・サドという名は通称で、正式な名は「ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド」という。
「マルキ」とはフランス語で侯爵を意味しており、マルキ・ド・サドを直訳すれば「サド侯爵」となる。
その名の通り、サドはフランスで代々続く貴族の家系に生まれた人物で、七年戦争では騎兵連隊の大佐として従軍している。
1763年、サドは戦争から帰還して裕福な治安判事の娘と結婚し、妻との間に2男1女をもうけた。それから3年後の1766年にはプロヴァンスにあった自身の持ち物である城に私用の劇場を建設するなど、優雅で贅沢な生活を送っていた。
1767年に父であるサド伯爵が亡くなり、サド家は伯爵から侯爵になった。
1778年、サドは復活祭の日に物乞いの未亡人を暴行した罪と、娼婦に危険な媚薬を飲ませて背徳的な行為を行った罪で、死刑判決を受けてシャトー・ド・ヴァンセンヌに収監され、その6年後の1784年にはバスティーユ監獄に移された。
サドは獄中で小説の構想と執筆を始めた。
そして1785年10月22日には、『ソドム百二十日』の清書を書き始めた。
サドは作品の押収を避けるために、幅12cmの小さな羊皮紙片を糊付けして作った長さ12.1mの巻紙の両面に、小さな字をぎっしりと詰め込みながら清書を行い、1ヶ月以上の時間をかけて同年11月28日に完成させた。
しかしフランス革命勃発の12日前、1789年7月2日にサドはブリキ管で作った即席のメガホンで「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、群衆の扇動しようとしたことにより、翌々日の夜中に裸のままシャラントン精神病院に連れ去られてしまう。
このため、サドは『ソドム百二十日』の草稿を含む一切の私物を、バスティーユに置き去りにするしかなかった。
その後、バスティーユ監獄は陥落してしまい、略奪と破壊の末にサドの草稿も行方がわからなくなってしまった。サドは1790年に精神病院から解放されたが、草稿が彼の手に戻ることはなかった。
その後、サドはナポレオンの命によって捕らえられ、投獄を経て再びシャラントン精神病院に収監され、1814年に満74歳で没している。
好事家の手を渡り歩いた『ソドム百二十日』の草稿
一時は行方不明となっていた『ソドム百二十日』の草稿だが、サドの死後にバスティーユ監獄のサドが使用していた独房から、サドが書いた「巻紙」が発見された。
その「巻紙」は愛書家の貴族ヴィルヌーヴ=トラン家で3代にわたって所有し、その後19世紀後半にベルリンの精神科医イヴァン・ブロッホへと売却される。
ブロッホの死後、草稿はシャルル・ド・ノアイユ子爵の委託を受けたモーリス・エーヌの手に渡り、『ソドム百二十日』を「愛書家の購読者」限定で1931年から1935年にかけて出版した。
1985年になると、草稿は子爵の子孫によって売りに出されて、ジュネーブの稀覯書蒐集家ジェラルド・ノルトマンの手に渡った。そして2004年に初めて、ジュネーブ近郊のマーチン・ボードマー基金で公開された。
その後『ソドム百二十日』の草稿はフランスの投資会社が所有することとなったが、2015年にその会社が倒産し、草稿は競売に出される。2017年12月にはフランス文化省が競売の取り下げを命じて、草稿はフランスの国宝に指定される。
そして2021年7月9日、『ソドム百二十日』の草稿はフランス政府に約6億円で買い上げられ、今後はアルセナル図書館に所蔵されることとなったのだ。
禁書から国宝となった『ソドム百二十日』
『ソドム百二十日』はフランス当局に破壊を企てられながらも生き残り、20世紀になってから訪れたシュールレアリスムの台頭によってその価値が見直され、今やその草稿が芸術の都を擁する国の国宝になるという数奇な運命をたどった作品だ。
サドの作品や破滅的な生き様は、澁澤龍彦や三島由紀夫など日本の有名作家にも影響を与えている。
人類はサドの小説を読むことが大罪となる時勢においても、この世界からその存在を消滅させることはなかった。サドの著作は人々に衝撃と嫌悪感を与えるだけではなく、表立っては話せないような感銘と共感を生む作品でもあったのだ。
『ソドム百二十日』においても、読む人の多くが心と頭を痛め、思わず目を逸らしたくなるような描写を用いながら、法律や道徳に縛られない原始的な快楽の追及が行われている。
この作品の読者になると、真っ当な人間として生きていくために普段は自分でも気付かないようにしている残虐性や加虐心を、まざまざと見せつけられたような気持ちになる。
サドの作品は他人に気軽に勧められる作品とは決して言えないが、人間という生き物が権力のもとに同族殺しを行う残虐な生き物で、生まれながらに善性をそなえているわけではないという、人間の本質を知るためには必読の作品ともいえる。
ちなみにサドは、晩年には自身が行った犯罪やスキャンダルを恥じ入り、遺言状に「墓穴を再び土で覆ったら、その上にドングリをまき、以前のごとく墓穴の場所が雑木に覆われて、自分の墓跡が地面から隠れるようにしてもらいたい。人々の心から私の記憶が完全に消し去られることを私は望んでいる。」と記している。
稀代の好色家、もしくは悪趣味の代名詞として後世まで語り継がれるサドだが、年老いてから自分自身の過去を恥じ後悔する心を持った、普通の人々と何ら変わりのない人間だったのである。
参考 :
ジョエル・ウォーナー (著), ナショナル ジオグラフィック (編集), 金原瑞人 (翻訳), 中西史子 (翻訳)
『サド侯爵の呪い 伝説の手稿『ソドムの百二十日』がたどった数奇な運命』
マルキ・ド・サド (著), 大場正史 (翻訳)
『ソドムの百二十日』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部