令和の北陸大返し【中編】~越前府中城から余呉湖、姉川、関ケ原へ、日本史の要所を歩く!~
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。儂が治め築いた地、金沢から、我が生まれの地、尾張へと250kmの距離を五日間で歩き抜く「令和の北陸大返し」。中編となる此度は越前から美濃を目指し進軍して参るぞ!改め、いざ出陣である。
〈令和の大返し三日目〉越前府中城跡~近江・椿坂トンネル越え
二日目は越前国鯖江にて宿を取った儂であったが、三日目は日輪が昇るよりも早くに出立致した。
一時間程歩きやって参ったのは三日目一番の目玉である。
ここは越前府中城跡。
儂が信長様からこの地を賜り築いた城である。
信長様が勢力を拡大される中、儂も長く過ごした荒子(あらこ)を離れ初めて得た領地じゃ!
現世において儂が戦国大名となった契機の城としても語られておるようじゃな。
前田家としては荒子の国衆あがりから、三万石を治める織田家臣団の一員となった節目の城ともいえよう。
故に誠に思い入れの深い場所だでな、此度の旅で必ず立ち寄ろうと考えておった。
儂が築いた府中城は二重の堀を持つ平城で、儂が能登を与えられた折には代わって我が嫡男・利長が入り治め、賤ヶ岳の戦いの折には前田家がこの城に籠り、敗走する北陸勢の要の城であった。
江戸時代に入ると越前を治めた結城秀康殿の家老・本多富正(とみまさ)殿が入り改修され、今残る石垣はその頃のものとされておる。
現世においては越前市の市役所として、この辺りに住む者には馴染(なじ)み深い場所であろうが、旅行で北陸に来る者も時があったら立ち寄ってくれたらうれしい限りじゃな! 最寄りの武生(たけふ)駅から歩いて5分ほどであるぞ!
府中城から歩いて二時間、やって参ったのは今庄宿。
北陸道の重要な宿場町で今もその名残を見ることが叶う。
さて、ここからはいよいよこの旅最大の難所へと進んで参る!
越前から近江へと抜ける山道は栃ノ木峠と申して中々の勾配である。
我が令和の北陸大返し、皆が気軽に足を運べるようにと、基本的には電車や新幹線なるものの側を歩むのじゃが、この三日目だけは例外である。
沿線を進むとなれば今庄から西に進み敦賀に立ち寄ることとなり、随分と遠回りすることになるでな、此度は栃ノ木峠を進むこととなったのじゃ。
因みに、古くから今庄から南へ進む折は敦賀を経由する木ノ芽峠を使うのが主であったのじゃが、戦国時代後期に栃ノ木峠を進む道が整備された。
この整備を行ったのが柴田勝家様であり、命じたのは無論、織田信長様じゃ!
栃ノ木峠の整備によって北陸と安土の距離はぐっと縮まり、我ら北陸方面軍は大いに動きやすくなったのじゃ。
今庄から一時間ほど進みて見えて参ったのは板取宿。
江戸時代に福井藩が関所を設けた北国街道の重要な宿場町である。
写絵にもあるが、ここは江戸時代からの民家が残っておる!
民家は武家屋敷に比べ維持が難しいでな、誠に貴重な史跡であるといえよう。
板取よりさらに一時間ほど進めば遂に近江へと入る!
登りはここまででこれよりは山下りとなるぞ!
かつて栃ノ木峠越えの休憩地であった中河内(なかごうち)砦や、
2kmに及ぶ椿坂トンネルを越えると山越えは終い。
今庄を出ておおよそ八時間で無事峠越えである!
まだ夕刻故にもう少し足を進めようかと思うたが、余呉(よご)湖に着いたところで驟雨に襲われたで、この日は余呉にて宿を取ることとなった。
〈令和の大返し四日目〉余呉湖、小谷城、そして関ケ原
旅も後半となる四日目。
なんと我が名古屋おもてなし武将隊の足軽、踊舞(とうま)が援軍に参ったぞ!
此度宿を取った余呉湖はかつて賤ヶ岳の戦いが起こった地。
賤ヶ岳は苦き思いのある場所ではあるけれども、立ち寄らねばなるまいと思うておった。
無論まさかここで宿を取ることとなるとは思わなんだがな!
この湖はその美しさから人気が高く「日本のウユニ塩湖」の異名を持つそうじゃ!
我らは行くこと叶わなかったが、ロープウェイにて賤ヶ岳に登ることも叶う。
上から余呉湖を見下ろす景色は誠に絶景であると聞いておるぞ!
余呉から南に進むと織田家の本拠、木ノ本や長浜を通る。
ところで皆は山内一豊の内助の功の逸話は知っておるかのう。
貧しかった一豊殿が馬を買えず困っておったところ、妻の千代殿が金十両をポンと出して、一番の名馬を買うことができた。
その馬が信長様の目に留まって一豊殿は大出世。
苦しい暮らしの中、蓄財を怠らなかった千代殿の内助の功によって山内家は後に土佐二十万石の大名となった!
……という話じゃな!
儂とまつと並ぶおしどり夫婦としても名が知られる二人であるな!
そんな一豊殿が信長様の目に留まった馬を買ったのが、
この木ノ本牛馬市である!
北国街道を歩いておったら偶然見つけてな、予期せぬ出会いも旅の醍醐味である。
現世の旅では見落としておったやもしれん、歩きならではの発見と言えるのではないか?
そんなことを話しておったら続いての見所、小谷(おだに)城である。
信長様の義兄弟・浅井長政様の居城で、堅城として名高い城である!
日本100名城にも選ばれておって、
一部石垣が残るほか土塁や縄張りの跡を見ることが叶うぞ!
此度は麓で足を休めるに留めたが、健脚な者は山の上の本丸跡にも足を運ぶが良いぞ!(夏場は避けることを勧めるがな)。
小谷城から一時間ほど進めば人気の道の駅『浅井三姉妹の郷』。
さらに進めば姉川である!
姉川の戦いは浅井・朝倉連合軍と徳川家を従えた織田軍のぶつかった大戦であるわな!
現世においては教科書なるものにも記されるかなり知名度の高い戦で、この戦いに織田軍が勝利したことで織田軍が一気に勢力を拡大することとなった。
と、現世では語られることが多いけれども、実はこの戦は織田対浅井・朝倉の始めの頃の一戦に過ぎず、この後も浅井・朝倉連合軍は信長様を苦しめ続けることとなるのじゃ。
姉川を渡りて足を進め、信長様が整備された米原の町を越えるといよいよ美濃国である!
ここから一時間ほど進めば四日目一番の目玉の地へと参る。
察しの良い者はもう気づいておるのではないか?
四日目一番の目玉の地とは、
関ケ原古戦場じゃ!
日ノ本の歴史随一の知名度を誇る正に天下分け目の戦いが起きたこの地には、充実した展示館や整備された各大名の陣跡など、歴史好きにはたまらぬ名所となっておる。
儂もいつぞや訪れて探訪記を記したわな!
じゃが、儂は古戦場があるからと意図してこの地を訪れたわけではない。
西国から東国へ進むとき必ず通らねばならんのがこの関ケ原なのじゃ!
通らざるを得なかったというといささか大袈裟やもしれんが、東西を行き来する者は必然的にこの地に参ることとなる。
故に関ケ原の戦いはこの地で起きておるのじゃ。
関ケ原の戦いだけにあらずこの地では壬申の乱、承久の乱と天下分け目の戦いが三度も起こっておる。
これはこの地が東西の交通の要であり、この地を抑えた者が一気に有利が取れる。よって両軍がこの地を取られまいとして大戦が起こった次第である。
無論現世では幾千幾万の道が整備されておるで関ケ原を避けて進むことも叶うのやもしれんが、新幹線や電車なるものでもこの地を通っておるし、高速道路も近くを走っておるわな。
故に皆もきっと意図せずこの地を通っておるであろうな!
さて、四日目も随分歩いたで関ケ原にて甘味休憩と参ろう。
古戦場にある『伊吹庵』殿では関ケ原の戦いに関わった各武将にまつわる飯や甘味がいく種類もあって、老若男女楽しめる食堂となっておる!
儂と踊舞は笹尾山ぱふぇなるものと桃配山ぱふぇなるものを食したぞ!
儂がどちらを食うたかを示すと、いろいろややこしい事になりそうだでな……ここでは明らかにせぬこととするが、実に美味であったとだけ申しておこうかのう。
この地にて踊舞が帰陣。
再びここから一人旅となる。
関ケ原から一時間ほど進めば垂井宿である。
中山道随一の宿場町で現世においてもその趣が残っておる。
竹中半兵衛の居城があったことでも知られておるわな。
垂井宿から二時間ほど足を延ばして安八(あんぱち)と呼ばれし街で宿をとり、四日目も終いとなった!
これまでの旅もそうであったが、三日目、四日目と我ら武士が築き改修した道を主に進んで参った。
次はいよいよ大返し最終章。
美濃国から名古屋城までの旅を記して参るで楽しみにしておるが良い。
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)
前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。