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近鉄とオリックス合併から20年…元猛牛戦士が振り返る札幌の夜と忘れられない梨田監督の涙

SPAIA

吉川勝成氏,本人提供

1999年ドラフト9位、背番号99のサイドスロー・吉川勝成氏

2004年6月13日に何があったか覚えている方は相当コアな野球ファンだろう。今から20年前の今日、日本経済新聞の1面に大スクープが掲載された。

近鉄球団、オリックスに譲渡交渉――。

プロ野球の歴史上で球団の身売りは何度もあったが、合併は長らくなかった。しかし、その日のうちに近鉄の親会社が会見を開いて合併交渉を認めた。ホリエモンの出現、球界初のスト突入…。半年間にわたって日本中を揺るがせた「合併騒動」はあの日から始まったのだ。

1999年ドラフト9位で近鉄に入団し、背番号99をつけて右のサイドスローとして活躍した吉川勝成氏(47)に当時の心境を聞いた。

ホリエモン出現、署名活動など激動の日々

2004年6月13日は日曜日で、本拠地の大阪ドームで試合が予定されていた。

「球場に行ったら、先輩に合併するらしいぞと言われました。最初は“冗談やろ”みたいな感覚でしたけど、ロッカーはその話題で持ち切りでしたね。でも、まだその頃は“どうにかなるやろ”くらいに思っていたので現実味がなかったです」

ほどなくして、ライブドアの堀江貴文社長(当時)が近鉄球団の買収に名乗りを挙げたが、当時のパ・リーグ各球団は経営悪化に苦しんでいたこともあり、巨人戦の高額な放映権料を見込んで1リーグ制に突き進んでいた。堀江氏は大阪ドームを訪れるなど風雲児として注目を集めながらも、近鉄がオリックスとの合併交渉を止めることなかった。

やがて、ダイエーとロッテの合併案が報道されるなど10球団1リーグ制が現実味を帯びていく。当事者である近鉄の選手たちがユニフォーム姿で試合前の球場で署名活動を始めると、親会社の論理で一方的に進む事態への反感が強まり、日本全体に「合併反対」「2リーグ制維持」の声が噴出していった。

「オリックスとの合併をどう受け止めればいいのか戸惑いがありました。チームメイトとも離れ離れにならなくて済むなら、吸収合併されるよりはどこかが手を挙げてくれたらいいなと話してましたね。署名には僕の地元の人も協力してくれました」

吉川氏が振り返る通り、対等合併ではなく、近鉄はオリックスに吸収されるという心理的な不安もあった。プレーする場は維持されるのか、チームメイトや首脳陣、裏方のスタッフはどうなるのか、誰にも分からなかった。

キャリアハイの50試合登板「風向きを変えていこうや」

署名活動は他球団にも広がり「合併反対」の世論が高まる一方、8月には近鉄とオリックスの両球団が基本合意書に調印。プロ野球選手会の古田敦也選手会長は日本労働組合総連合会の笹森清会長と面談して協力を取り付け、スト権を確立する。

深まる労使の溝。それでもシーズンは通常通り進行していた。プロ5年目だった吉川氏は前年まで未勝利だったが、同年は開幕一軍入りを果たして中継ぎとして50試合に登板。4勝4敗、防御率2.82の成績を残した。結果的には2008年に引退するまで、この年に挙げた4つの白星がプロで記録した全勝利だった。

「毎日必死でプレーしてたんで、自分のことで精いっぱいというのが強かったです。でも、近鉄というチームが大好きだったんで、なんとか近鉄の一員として成績を残して、みんなで勝って風向きを変えていこうやという雰囲気もありました」

合併への不安や危機感とキャリアハイの成績を関連付けるのは安直かもしれない。ただ、グラウンド外で心理的な負担を抱えながらのプレーが大変だったことは容易に想像がつく。

球場には「合併反対」の横断幕があちこちに掲げられ、選手とファンが一体となって声を上げ続けた。しかし、大企業のトップ同士の合意事項が覆ることはなかった。

本人提供

ホーム最終戦、試合前の食堂で…

9月のオーナー会議で合併は承認され、直後の団体交渉は決裂。プロ野球選手会は同月18、19日にストライキを決行する。近鉄ナインは札幌ドームでの日本ハム戦のため北海道に乗り込んでいた。

「最後のあがきという思いでストライキに突入しました。あの時は報道陣がたくさんいるから部屋から出ないでくれと通達があったので、ずっとホテルの部屋にいました。テレビをつけたら合併のニュースを放送していて、自分がその当事者という変な感覚だったのを覚えています。異様な雰囲気でしたね。あの頃から球団がなくなるんやなと実感を強く持ちました」

近鉄とオリックス以外も含めて全球団が2日間のストライキを決行し、12試合が中止。日本列島から球音が消えた。長いプロ野球の歴史上でも初めての出来事だった。

ストも効果なく、翌週には選手会が要求を一部取り下げて合併阻止を断念。9月24日、近鉄は大阪ドームに西武を迎えてホーム最終戦に臨んだ。

試合前、選手食堂に全選手や首脳陣、スタッフが集められた。近鉄最後の指揮官となった梨田昌孝監督は涙をこぼしながら声を絞り出した。

「お前たちがつけている背番号はすべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

常ににこやかな笑顔を絶やさず、紳士的な振る舞いで人気だった名将が、珍しく感情を剥き出しにした。悔しさ、寂しさ、様々な感情が生んだ名言だった。

「あの時のことは鮮明に覚えています。梨田監督は普段、感情を出す方ではないので余計に胸に刺さりました」と吉川氏は振り返る。

4万8000人のファンで埋まったホームラストゲームは延長11回の大熱戦。1死二塁から星野おさむのサヨナラ打で劇的なフィナーレを飾った。

「近鉄らしい試合でホーム最終戦を締めくくれました。優勝したかのような盛り上がりがあったし、あの一瞬だけは合併のことが頭から飛んでいたと思います。全員でつかんだ勝利でした」

「バファローズはいつまでも残してほしい」

11月、楽天の新規参入が決まり、12球団2リーグ制は維持された。同じく経営危機だったダイエーはソフトバンクが買収。翌年からセ・パ交流戦が始まり、パ・リーグ各球団が経営的にも立て直して人気上昇したのは合併騒動の副産物と言える。

オフに行われた分配ドラフトで吉川氏は新生オリックス・バファローズに移籍した。オリックスでは4年間プレーし、2008年限りでユニフォームを脱いでからは実業家として活躍している。

「僕らは選手なんで、どの球団でも自分のパフォーマンスを出すだけでした。わだかまりもないし、プレーへの支障もなかったです」と述懐する。さらにこう続けた。

「近鉄にはドラフトで取っていただいて5年間、練習はきつかったけど楽しかったです。オリックスも受け入れる側として大変だったと思うし、面倒を見てもらって感謝しています。あれから20年とは、時が経つのは本当に早いですね。近鉄がなくなってもバファローズという名前はいつまでも残してほしいです」

あれから20年。コロナ禍で一度は落ち込んだプロ野球の観客動員は再び右肩上がりに増えている。2004年、グラウンドに落ちた悔し涙があったからこそ今の繁栄があることを決して忘れてはならない。

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記事:SPAIA編集部 請川公一

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