「老い」を直視できない人々──ソコロワ山下聖美さんと読む、有吉佐和子『恍惚の人』【NHK100分de名著】
心理描写から展開まで、すべてがケタ外れに面白い! 有吉佐和子『恍惚の人』を、ソコロワ山下聖美さんが解説
2024年12月のNHK『100分de名著』では、昭和を代表する女性作家・有吉佐和子の特集として、彼女の『華岡青洲の妻』『恍惚の人』『青い壺』の3作品を、日本大学芸術学部教授・ソコロワ山下聖美さんが紹介します。
家族とは、老いとは、そして人の幸せとは──。幅広いテーマに関心を寄せ、文壇的評価とは無縁でありながら、圧倒的人気を博した有吉佐和子とその作品の魅力に迫る番組テキストより、それぞれの作品へのイントロダクションを公開します。
第2回は、社会の関心が高まり始めていた老人の認知症問題と、それに振り回される家族の姿を描き、大ベストセラーとなった『恍惚の人』についてです。
家庭を持ちながら外で働く主人公・立花昭子と、商社で働く夫の信利、息子の敏、同じ敷地の離れに住む信利の父・茂造との生活が、ある日を境に大きく変わっていきます。
(全3回中の第2回)
混乱の日々の始まり
平凡ながらもアッパーミドルクラスの暮らしを謳歌してきた昭子を突然襲った、舅・茂造の認知症問題。こうして、介護を中心とした昭子の生活が始まります。
昭子は、西銀座に位置する法律事務所で邦文タイピストとして働いていました。すでに勤続二十年のベテランです。小さな事務所のため職員は少なく、電話の取り次ぎから来客へのお茶出し、雑用の類まで昭子がカバーせねばならず、事務所内での存在は決して小さなものではありませんでした。加えてフルタイム勤務なので、ここに茂造の介護が加われば、これまでと同じような生活はできなくなるかもしれません。
姑の初七日を迎えるまでは、遠方に住む信利の妹・京子をはじめ、親戚やご近所さんが家に出入りしていたので安心でしたが、問題はそれ以降、日常が戻ってきてから本格化していきます。
昭子と信利は仕事、敏は学校があるため、日中は家を空けざるを得ません。つまり、茂造は誰かが帰宅するまで離れで一人で過ごさねばならないのです。しかし、茂造を放っておくことには大きな不安がありました。なぜなら、京子が滞在しているときに、すでに「ひとり歩き」の問題が発生していたからです。
その日、昭子の留守中に番をしていた京子は、外に出かけようとしている茂造を発見します。どこに行くのかと問うと、その答えは「婆さんを迎えに行きます」。どこに迎えに行くのかと問えば「東京です」。もちろん、茂造たちが住んでいるのは東京なので、この答えは奇妙なものです。その後、茂造は冬の寒空の下、またしても外套も着ないで出かけてしまいます。次の言葉は、それを追いかけていった京子の回想です。
「(前略)お父さんの歩き方の早いこと、早いこと、年寄りの足とは思えないのよ(後略)」
「(前略)私は何度も後ろから飛びかかって、お父さん何処へ行くんですか、帰りましょう、帰りましょうって言ってきかしたんだけど駄目。その度に馬鹿力ではね飛ばされてね。もの凄い力なのよ(後略)」
「(前略)どんどん歩くけど信号なんて見ないでしょ。一度も立止らないのよ、一度も。私は怕(こわ)くてねえ(後略)」
「死にもの狂いで追いついて、しがみついて、お父さん帰りましょう、昭子さんも心配しますよって大声でね。そうしたら狐が落ちたみたいに私を見て、足をとめたじゃないの。昭子さんが、って私をまじまじ見て、昭子さんがどうしましたって訊くのよ」
茂造は、すでに娘である京子のことも、息子である信利のことも誰なのかわからなくなっていました。しかし幸か不幸か、その代わりに昭子のことだけは認識しているのでした。茂造が認知症を発症する以前、彼と昭子が特別に親しかったわけではありません。むしろ、茂造はことあるごとに昭子をいびっていたくらいです。しかし、今では「昭子さん、昭子さん」と完全におんぶに抱っこ状態です。この関係性を、息子の敏は「動物と飼い主」と分析してみせます。
「犬だって猫だって飼い主はすぐ覚えるし忘れないんだから。自分に一番必要な相手だけは本能的に知っているんじゃないかな」
昭子はこの言葉に複雑な気持ちになり、黙り込んでしまうのでした。
NHK「100分de名著」テキストでは、「独特のブラックユーモア」「ジェンダー問題から見る『恍惚の人』」といった内容で、『恍惚の人』に響き渡る女性たちの声や、それぞれのキャラクターが描き出すテーマについて、読み解いていきます。テキストでは『恍惚の人』、嫁姑の心理戦を描く『華岡青洲の妻』、人の幸せをテーマとした『青い壺』に加え、「もう一冊の名著」コーナーで『女二人のニューギニア』を紹介し、希代のストーリーテラー・有吉佐和子の作品の魅力に迫ります。
講師
ソコロワ山下聖美(そころわやました・きよみ)
日本大学芸術学部教授
一九七二年埼玉県生まれ。文芸研究家。日本女子大学文学部を卒業後、日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。二〇一五年より現職。専門は宮沢賢治や、林芙美子など女性作家を中心とした日本近現代文学、日露文化交流を中心とした異文化交流。著書に『女脳文学特講』(三省堂)、『林芙美子とインドネシア 作品と研究』(編著、鳥影社)、『新書で入門 宮沢賢治のちから』(新潮新書)、『わたしの宮沢賢治 豊穣の人』(ソレイユ出版)、『別冊NHK100分de名著 集中講義 宮沢賢治 ほんとうの幸いを生きる』(NHK出版)などがある。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 「有吉佐和子スペシャル」2024年12月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における有吉佐和子の著作からの引用は、以下の書籍に拠ります。第1回:『華岡青洲の妻』(新潮文庫、1970 年、2010 年改版)、第2 回・第3 回:『恍惚の人』(新潮文庫、1982年、2003年改版)、第4回:『青い壺』(文春文庫、2011年)
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