【相模原市緑区】鳥屋地震峠 関東大震災 5秒で明暗 被災の手記見つかる
鳥屋の地震峠を守る会の小島信彦会長の自宅から関東大震災の手記を綴った書がこのほど発見された。鳥屋では地震による土砂災害(山津波)で16人が亡くなっており、その時の様子の一部が記載されている。小島会長は「聞いてきた話と違うことも書いてあった。このことを多くの人に知ってもらえたら」と話す。
発見された書は、小島会長の叔母・邦子さんが1989年に発表した自作の詩集『くさ笛』に掲載されていた。今年7月に小島会長が自宅の本棚を整理していたところ、封筒に入った詩集が見つかったという。その中の『地震の覚』というページが目に留まり、読み進めると関東大震災の様子が記載されていた。
この『地震の覚』は、小島会長の祖父・壽夫さんが書いたもの。書によると「関東大震災から67年、父の没後33年目」の年に発見したメモ書きを邦子さんが『くさ笛』に掲載した。手記は「半紙を二つ折にした二枚に筆でびっしり走り書きされています」とくさ笛に記載されている。
天地一度に覆へらむ
書によると、地震発生時に壽夫さんは自宅の庭にいた。地震の様子は「天地一度に覆へらむかと愕かれたり」「山岳鳴動し岩は崩れ、大木は根抜きとなり、見る見るうちに石も、岩も、木も、土も団子になりて押寄する」と表現されている。
当時、母屋には壽夫さんの妻・ハツさんと次男の信幸さん(2歳/小島会長の父)がおり、ハツさんが信幸さんを抱え、外に出た。さらに、南側の道を挟んだ隠居家には壽夫さんの父・久太郎さん(同曽祖父)と母・イトさん(同曽祖母)、長男の寛さん(5歳/同伯父)がいた。壽夫さんが避難を呼び掛けるも隠居家の裏に位置する南山が崩れるのを確認すると、壽夫さんと我が子を抱えたハツさんは急いで西側の竹やぶに逃げた。しかし、その約5秒後に押し寄せた山津波に久太郎さん、イトさん、寛さんは流されてしまう。久太郎さんは体の半分が土砂に埋まるも自力で脱出。残る二人はその後、イトさんが寛さんを抱いた姿で土砂の中から見つかったという。イトさんと寛さんの名は、現在も地震峠の標柱に刻まれている。
教訓を忘れずに
小島会長はこの文章を初めて読んだ時、「びっくりした。すごいものを見つけたと思った」と振り返る。数日後に会員と共有したという。
この書で明らかになったのは避難について。「家の北側に川があり、南山が崩れて山津波が起きた。避難は東か西の二択だった。竹やぶがあったことで3人は西へ逃げて助かっている。まさに一瞬の判断だったと思う」と想像する。「昔は地震が起きたら竹やぶへ逃げろと言われた。竹は根を張るので崩れにくいと教わった」という。
ここから得た教訓は「避難は数秒を争う。助かるためには即時に正しい判断をしなくてはならない」ということ。「西ではなく東に逃げていたら私もここに居なかったかもしれない」と息を飲む。そして、「日本では昔から地震が繰り返し起きている。先輩の教えや過去の歴史を正しく知り、その教訓を忘れてはいけない。まずは私たちが若い人たちにこの事を伝えていかねばならない」と話した。