何度でも立ち上がる!諦めない将軍・第15代足利義昭の生涯
お互いに助け合った義昭と信長の関係
1573(元亀4/天正元)年7月2日、室町幕府第15代将軍・足利義昭は、京都郊外・宇治の槇島城にいた。
同城は、幕府奉公衆・真木島昭光の居城で、巨大な巨椋池に浮かぶ島である槇島に築かれた堅城であった。
義昭はここ槇島城において、織田信長に対し挙兵、反旗を翻したのだった。
周知の通り、義昭は信長の協力なくしては将軍になれなかった人物だ。
彼は、1568(永禄11)年に上洛を果たし将軍職に就くと、しばらくは信長と蜜月な関係にあった。
1570(元亀元)年、信長は、若狭・越前方面に侵攻した。だが、朝倉攻めの真っ最中に、義弟の浅井長政に裏切られて死地に陥った。
危うく岐阜に帰国した信長は、その反撃戦である姉川の戦いで、朝倉・浅井連合軍を撃破したが、織田方も甚大な損害を受けたため、義昭を京都に残し、岐阜に撤退した。
この時、織田軍の留守をついて三好三人衆が摂津方面から京都を伺った。だが、義昭は手勢を動員してこれをよく防いだたために、三人衆はついに京都への侵攻を果たせなった
この義昭の働きにより、義昭・信長連合は諸将の支持を得て、その軍勢は6万に膨れ上がったとされる。
その後、反信長派である本願寺・延暦寺・朝倉・浅井・三好三人衆らは結束して、義昭・信長に対し一斉に蜂起。いわゆる「信長包囲網」を形成したが、年末に入り信長の巧みな外交戦略により、個別に和平交渉に引き込まれ、それぞれに和議が成立した。
こうして信長は、危機を逃れたわけだが、そこには義昭の働きが大きかった。義昭は、信長不在の京都をしっかりと守りながら、将軍の権威を最大限に使い、信長が敵対者と和睦する契機を提供したのである。
義昭は、将軍として信長を守り、信長は軍事・警察力を義昭に提供し、相互に弱点を補完し合う関係を構築したのだ。
信玄の西上で、ついに信長と袂を分かつ
しかし、そんな二人の関係が破綻する時が来た。甲斐の国主・武田信玄が、元亀3(1572)10月に大軍を率いて甲府を出陣、西上作戦を開始したのだ。
この信玄の西上作戦のきっかけは様々な説がある。
ただこの時期、織田と武田は友好的関係を維持していることに注目したい。事実、信長嫡男の信忠と、信玄の娘である松姫の婚約が成立している。
では、そうした友好的関係を齟齬にしてまで、なぜ信玄は信長に牙をむいたのか。
それはやはり、元亀2年(1571年)の信長による「比叡山焼き討ち」が大きな影響を与えたのではないだろうか。信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難した。また、天台座主の覚恕法親王が甲斐へ亡命のうえ、比叡山再興を信玄に懇願した。
これに、織田と同盟を組む徳川家康との三河・遠江をめぐる対立が絡み、再び信長との間に戦いが始まった朝倉・浅井・本願寺などの、反信長派の要請を受けた可能性が高いと思われる。
信玄はこの西上作戦において、明らかに信長との友好関係に終止符をうち、反信長派として信長包囲網の要となったのだ。それ故に、この時点では義昭による信長追討令は、まだ発せられていなかったと考えるのが自然であろう。
信玄は、三方ヶ原で家康を一蹴した。この勝利は、反信長派の諸大名を大いに勢いづかせたが、義昭は驚愕したに違いない。
そして、義昭は信長を見限った。
よく「義昭は信長の傀儡で、その掌の上で踊らされていた」と言われるが、それは真実ではない。両者は、あくまで相互補完し合う関係であった。従って、片方から必要なしと見なされた際はその関係は崩れるのだ。
こうして、義昭は反信長派と手を結び、諸大名に信長討伐を命じた。これに対し信長は、義昭のもとに急使を送り翻意を促した。その内容は「義昭の言い分を全て聞く」というものであった。それだけ、この当時の信長は窮地に追い込まれていたのだ。
一方で、信長は義昭の行状を糾弾する「十七条の異見書」を公表。
これは、「いかに自分が義昭のために忠誠を尽くし、道理を説いてきたか。それなのに義昭は品行を改めようとしなかった」ということを宣伝したのである。
いわば、今回の義昭の離反により、いかなることになっても自分は逆臣ではない、ということを主張したのだ。
信長に屈し京都を去るも、将軍は辞さず
信長に反旗を翻した義昭は、越前国主の朝倉義景に支援を要請した。
信玄が三河を蹂躙し、尾張・美濃に侵入するまで、京都を支えるためにはどうしても朝倉勢の力が必要だったのだ。
しかし、義景は本国の防衛を理由にして一乗谷から動かない。そのうえ、最も頼みとした武田勢の動きが止まった。
信玄は、元亀4(1573)2月10日に三河に侵入し、野田城を落としたものの、この直後から病が悪化した。そして4月12日、軍を甲斐に引き返す途上で死去したのである。
これを知った信長は、京都に軍を進め義昭に迫った。義昭は、二条御所を出て籠城に有利な槇島城に入ったが、信長の大軍の猛攻の前に屈した。
義昭は、2歳になる男子(後の義尋)を人質に差し出すことで許され、京都を退去した。
時に、1573(天正元)年7月19日のことであった。
この時を室町幕府の終焉とするのが一般的である。しかし、義昭は将軍を解官されたわけではなかった。
それどころか、安国寺恵瓊の書簡を収めた『吉川家文書』によると、信長は義昭のもとに和解と帰京を願う使者として、羽柴秀吉を派遣した。しかし、和解交渉で、義昭が自身の身の安全を保障するために信長に人質を要求したため、交渉は決別したという。
義昭の申し出に激怒した秀吉が「公方様は行方不明になったと報告するので、どちらへでもお行きになるがよい」という捨て台詞を浴びせて、交渉の席を蹴って退出してしまったと同書は記す。
このことは信長にとって、まだ義昭に利用価値があること。また、彼を放置することは危険だと考えていたことを示しているといえるだろう。
事実、信長のこの心配は、2年半後に現実となるのである。
中国の雄・毛利輝元のもとで幕府を存続
京都を追われた義昭は、紀州由良の興国寺に移った。
ここを拠点に、全国の大名たちに信長追討の御教書を送って挙兵を促したものの、これに応じた者はいなかった。
一方、信長は義昭を京都から追放すると、すぐさま北へ軍勢を動かし、宿敵であった朝倉義景・浅井長政を討滅した。そして、1575(天正3)年5月には、信玄の後を継いだ武田勝頼を長篠の戦いにおいて撃破する。
こうして信長は、東海をはじめ畿内のほぼ全域を支配。北陸の上杉謙信・中部の武田勝頼・中国の毛利輝元などの領国にも迫る勢力を築き、まさに天下布武へと直走っていった。
ところが、ここで突然、義昭が信長の前に立ちはだかった。
彼は密かに紀州を出て、備後の鞆に入ると、中国地方最大の戦国大名・毛利輝元に信長追討を命じたのだ。
当時、毛利は信長と同盟を結んでいたがこれを破棄し、輝元は義昭の信長打倒に応えた。
これは毛利にとって、信長が脅威となっていたからに他ならない。畿内を制圧した信長は、西方へ矛先を向けるのが当然で、やがて毛利の勢力圏に侵入してくるのは避けられないと考えたのだ。
義昭は、鞆の高台にある鞆城を拠点として幕府の継続を図った。
そして輝元を副将軍に任じると、毛利と同様に信長に危機感をもつ諸大名に織田討伐を訴えた。
これに、越後の上杉謙信が応じた。
謙信も信長と同盟関係を破棄したが、やはり織田の勢力が北陸から北に延びつつあることに警戒心を抱いたのだ。毛利と上杉が立つと、甲斐の武田勝頼・大坂の本願寺も加わり、全国的な「信長包囲網」が形成された。
こうして義昭は京都を追われて僅か2年半で、またしても反信長勢力の旗頭となったのである。
毛利勢は1576(天正4)年7月、織田軍に包囲された石山本願寺を救うため、大坂に水軍を送り、木津川河口に陣を敷く織田水軍を撃破し、兵糧搬入に成功した。
一方、上杉勢は1577(天正5)年9月に、柴田勝家を主将とする織田勢3万余が手取川を越えて加賀北部へ侵入すると、謙信自ら8千余の軍勢を率いてこれを撃破した。
ただ、緒戦における反信長派の勝利は、そう長くは続かなかった。
その最大の原因は、中枢をなす大名たちの領土が離れすぎていることにあった。それ故に、彼らは団結して信長と戦うことができなかったのである。
こうした状況の中、今や戦国大名としては驚異的な版図を築いた信長は、その圧倒的な軍事力で個々に反信長勢を破っていった。
画像 : 1578頃の勢力図 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログより
そして、1578(天正6)年3月に謙信が急死すると、大坂本願寺が1580(天正8)年4月に信長に降った。
1582(天正10)年3月には、信長の嫡男・信忠を主将とする甲州征伐で、甲斐の武田勝頼が滅ぼされた。
さらに、義昭を奉じた毛利輝元も、信長の大軍の前に敗色濃厚という状況に追い詰められた。
1582(天正10)年4月、羽柴秀吉を司令官とする織田勢は、備中に侵攻を開始する。これに対し毛利は、軍事動員能力の低下が著しく援軍もままならない中、備中諸城は落城・調略により次々と織田方に降伏した。
さらに、翌月には信長自らが毛利征伐の陣頭指揮に立つことが決まり、毛利はもちろん義昭も、滅亡の危機に瀕することになったのである。
義昭の死去により幕を閉じた室町幕府
ところが、ここで誰もが予期できないことが起こった。
1582(天正10)年6月2日早朝、京都本能寺にて、明智光秀の謀反により信長が命を落としたのだ。
義昭はこの後、山崎の戦いに勝利し天下人となった秀吉の計らいで、15年ぶりに京都の地を踏むことができた。
時に1587(天正15)年末のことだった。
その後、義昭は大坂に参上して、秀吉から1万石を与えられ臣下となった。
秀吉は、従一位・関白・太政大臣。一方、義昭は、従三位・権大納言。武家としても、秀吉が遥かに義昭を凌いでいたのである。
天正16年(1588年)1月13日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上した。この時、秀吉の奏請によって皇后などに次ぐ准三宮の称号を受け、諸大名中最高の格式を得た。
義昭には子として義尋がいたが、彼は僧籍にあった。もし、義昭が義尋に将軍職を譲るのであれば、彼を還俗させる必要があったが、そうした動きは行っていない。
それから9年後の1597(慶長2)年8月28日に、義昭は腫物が原因で大坂で死去した。享年61であった。
こうして、1336(建武3)年以来続いた室町幕府は、名実ともに滅亡。約250年でその終焉を迎えたのである。
※参考 :
山田康弘著 足利将軍家たちの戦国乱世 中央新書 2023.9
文/高野晃彰