白洲次郎・正子夫妻が移り住み、生涯愛した『武相荘』。“無駄のある住まい”の美学とは?
白洲次郎・正子が終の棲家に選んだ幕末期の養蚕農家
東京都町田市。小田急線『鶴川』駅から15分ほど歩いた閑静な集落に『武相荘(ぶあいそう)』と呼ばれる古民家が残されている。築年数は定かではないが「約150年は経っている」というからおそらく幕末期の建物。苔むした重厚な萱葺き屋根の母屋は、当時この一帯に多く存在していた養蚕農家の面影そのままの姿で存在している。
この『武相荘』こそ、かの白洲次郎・正子夫妻が「終の棲家」に選んだという2人の美学がふんだんに詰まった住まいだ。「武蔵の国と相模の国の境であること」と「無愛想」をかけ、次郎独特のユーモアから名づけられたという『武相荘』の今を取材した。
『武相荘』公開に踏み切ったのは「この建物を残したい」というロマンから
約2000坪の広大な敷地が広がる『武相荘』は2001年から一般公開されている。今回案内してくださったのは、白洲次郎・正子夫妻の娘婿にあたる『武相荘』館長の牧山圭男さん(80)だ。
「白洲家のなかで、僕が一番最初に出会ったのは次郎でした。当時まだ僕が高校生の頃で、うちの親が軽井沢のゴルフクラブに入っていたものだから、たまたまそこで次郎に出会ったんですね。
次郎はうちのオヤジとも知り合いでしたから、自然に会話を交わすようになり、“ちょっと怖いけど、カッコイイ人だな”と密かに憧れていました。そしたら、大学生になって娘と付き合うようになり、結婚することが決まってしまった(笑)。次郎にしてみれば“軽井沢でチョロチョロしていたあのガキと結婚するのか!”と、ビックリしたんじゃないかな?」(以下、「」内は牧山さん談)
もともと白洲家のダイニングだったという現『レストラン&カフェ武相荘』で当時を振り返りながらお話してくださった牧山さん。「実はこの『武相荘』を資料館として公開する前、うちの家内である(白洲家の長女)桂子は“次郎と正子の生活を売りにするつもりはない”と話していたんです。ただ、自分が生まれ育ったこの建物や周辺の環境を“何とか維持して残したい”というロマンから公開に踏み切ったようなものなんですね。
でも、白洲家の外の人間である僕からしてみれば、白洲次郎と正子にはやはりバリューがあるし、彼らが実際に暮らしていた空間が建物も庭も含めて現代まで存続しているということが何よりも貴重なこと。しかも、訪れた多くの方たちが“そういえば、うちのおじいさん、おばあさんも昔こんな家に住んでたわ。懐かしい!”と喜んでくださる。そういう反響をいただいている以上は、できるかぎり公開を続けていきたいという思いがあります」
戦火から家族を守るために「郊外の古い農家」を選んだ次郎・正子夫妻
昭和初期の社交界の花形ともいえる存在だった白洲次郎・正子夫妻が都会を離れ、東京府南多摩郡鶴川(現町田市能ヶ谷)の農家へと移り住んだのは1943(昭和18)年のこと。1937(昭和12)年第二次世界大戦の開戦がウワサされるなか、次郎・正子夫妻は「家族を守るための場所」を探しはじめ、この地を選んだという。
2人が買い取った当初の『武相荘』は、萱葺き屋根から雨漏りがするほど荒れ放題の農家だったそうだが、土間に床を張ってリビングに変え、北の薄暗い六畳間に書斎をつくり、新婚旅行で訪れた『鈴鹿峠(東海道の難所と呼ばれる峠)』の風景を敷地内の竹薮の中に再現し、大好きな椿を植えるなど、2人の“こだわり”をどんどん形にしていく過程で築150年超の古い農家が息を吹き返した。
「古びた農家に独特の美学を見出した点は、2人のこれまでの経験が大きく影響しているのでしょうね。次郎はイギリス留学の際に英国貴族たちの田舎暮らしの様子を見てきたし、正子は伯爵令嬢として御殿場あたりの10万坪の別荘地で暮らしていたこともある。もちろん、戦争になれば都会では食料が手に入らなくなるという不安も大きかったとは思いますが、2人とも“郊外生活は貴族趣味的なもの”と捉え、農家暮らしをはじめることへの抵抗感はなかったのでしょう」
高温多湿・エアコンに頼る現代の気候では「萱葺き屋根」の維持は難しい
この『武相荘』の母屋は、関東地方の典型的な“田の字型間取り”の農家で、玄関や濡れ縁は明るい真南を向いている。「僕が高校生の頃、白洲家へ遊びに来ると、こんな農家がまわりにいくつも残っていましたよ」と当時を振り返る牧山さん。しかし、時代は戦後の高度経済成長期から平成・令和へと移り変わり「昔ながらの農家の建物を維持するのが難しくなってしまった」と牧山さんは嘆く。
「昔は、農村のそこらじゅうに萱が茂り、麦わらや稲わらなどを集めて置いておく“萱場”と呼ばれる場所があって、屋根の葺き替えは農閑期に集落の共同作業として地域の皆でやっていました。でも、農家が1つ消え、2つ消え、集落が消えて時代が移り変わると、萱を取ることも萱場をつくることも難しくなりました。『武相荘』でも、前回2006年に屋根の葺き替えを行いましたが、そのときも萱は滋賀や東北のほうから取り寄せ、京都美山からはるばる職人さんに来てもらってようやく作業が完了しました。何とかコストを抑えようとしても数千万円はかかってしまいますから、維持していくのは大変なことです」
加えて、ここ数十年で日本の気候が大きく変わったことも大きい。一般的に萱葺き屋根は「一度葺きかえれば30年はもつ」と言われてきたそうだが、今の気候では30年もたせることは難しい。『武相荘』でも建物公開後にエアコンを設置したため、夏は窓を閉めきるようになった。すると、その湿気のせいで屋根に虫がつくようになったという。
「ひと昔前の農家は囲炉裏を使って屋根を燻煙したことで、それが殺虫効果につながり湿気防止も兼ねていましたが、そういう昔ながらの営みを放棄してしまったから、家の傷みが早くなったんですね。『武相荘』の萱葺き屋根は一見苔むして美しく見えますが、実は苔が生えるということは湿気があるから。カブトムシの幼虫などが萱の中で育つようになり、それを鳥たちがついばんでさらに傷んでいきます。
屋根だけでなく、庭の手入れや障子・畳の補修など課題は山積ですよ。うちの息子は「費用を持ち出ししてまで続けなくても良いんじゃないの?」なんて言ってますけど、ここまで『武相荘』が有名になってしまったので、なかなか“もうやめます”とは言いにくいですね(笑)」
人が暮らす集落や住まいというのは、本来「不揃い」なものであるはず
「昔の農家の人たちは、広々とした野っ原の中に、自由に家を建てることができました。
“このへんは日当たりが良いから”と明るい南向きに家を建て、“目の前に川が流れているから”と田んぼをつくる。みんなが自然発生的に住む場所を選んできたから、村づくりというのは本来“不揃いなもの”だったはずなんです。
でも、最近は都市化が進んで街がモダナイズされて、設計士やデザイナーが頭の中で考えた画一的な都市計画をつくるようになってしまった。都市計画のために、わざわざ山や坂を削って出来上がった街というのはどこか人工的で、暮らしていても飽きますよね。
なぜ多くの人たちが、この『武相荘』を飽きずに訪れてくださるかと言うと、ちゃんと“生活”が感じられるから。長年の営みがしみついた建物があり、庭へ出れば四季折々の花が咲き、鳥がさえずり、虫たちやタケノコも出てくる。昔の日本の集落に普通にあった風景や生活の跡がそのまま残っているから、皆さんが共感してくださるんでしょう。白洲次郎と正子が住んだ家というよりも、“当時の暮らしのリアルさ”が今の時代にそのまま残されていることに『武相荘』の存在意義があると私は考えています」
『田の字に作ってある農家は都合がいい。
いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。
ひと口にいえば、自然の野山のように“無駄が多い”のである』
これは正子氏が著書の中で残した言葉だ。効率重視の現代社会では「無駄なこと」や「不揃いなこと」の多くが排除されてしまうが、白洲夫妻はそこに美学を見出した。皆さんも一度『武相荘』を訪れ、約150年前の“無駄の多い住まい”の美しさを体感してみてはいかがだろうか?
■取材協力/旧白洲邸『武相荘』
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