被災者に寄り添い、ケアのあり方を模索した記録──宮地尚子さんと読む、安克昌『心の傷を癒すということ』【NHK100分de名著】
受け入れ、もがき、新しい自分と折り合いをつけていく──安克昌『心の傷を癒すということ』を、宮地尚子さんが解説
2025年1月のNHK『100分de名著』では、若き精神科医が被災者の心の傷に寄り添い、ケアのあり方を模索した記録『心の傷を癒すということ』を、一橋大学大学院教授・宮地尚子さんが紹介します。
「心のケア」という概念が普及していなかった1995年、阪神・淡路大震災に遭った安克昌さんは、神戸大学病院の精神科医として避難所を訪問し被災者の声に耳を傾けるとともに、心をケアするネットワークの立ち上げの一翼を担いました。みずから被災した当事者として、内側からの視線で被災者の心のありようを描いた著作が『心の傷を癒すということ』です。
柄本佑さん主演でNHKドラマ化・映画化されたことでも知られる『心の傷を癒すということ』。今回、本書を読み解く番組テキストから、宮地さんによるイントロダクションを公開します。
生きづらさを感じている、すべての人に
一九九五年一月十七日未明、阪神・淡路一帯を大地震が襲いました。当時、京都に住んでいた私も大きく突き上げるような揺れに目を覚まし、生まれ育った神戸の街が破壊されていく様子を、テレビの前で呆然と眺めていたことを覚えています。
明くる年の四月、一冊の本が出版されました。みずからも被災しながら、心に傷を負った人々のケアに奔走した若き精神科医、安克昌さんの『心の傷を癒すということ』です。
私が最初にこの本を読んだのは、出版から半年ほど経ったころだったと思います。その二年後、直接お会いする機会を得ました。安さんが主宰する「デルタ」という、トラウマや解離性障害の臨床家たちのメーリング・リストに参加させてもらうことになった縁で、そのころ私が神戸大学医学部でおこなっていた客員教員としての授業に安さんが足を運んでくださったのです。
安さんの論文や著作は以前から読んでいましたし、安さんも私の書いたものを読んでくださっていたようでした。以来、共通の関心事である「文化による心の問題の捉え方の違い」などについて意見を交わしたり、参考になる文献を互いにシェアしたりしてきました。
臨床の現場で安さんとご一緒したことはありません。しかし、精神医療に対する基本的な考え方は一致していたように思います。精神医療にできることは限られているということ。心の傷は、社会のなかで生活を豊かにしていくことによって、少しずつ楽な付き合い方を見つけ、癒していくことが大事だということ。『心の傷を癒すということ』も、そうした生活支援を重視した内容になっています。
『心の傷を癒すということ』は、心の傷とケアをめぐる被災地の状況を、その渦中にいた安さんが、文字通り身を削りながら記録したルポルタージュです。大変な読書家であった安さんの文章は、とても読みやすく、素直で、みずみずしい。しかしあとがきには、「書くことはつらいことだった」と綴られています。外側からの震災報道に違和感を持ち、「被災地内部から」誰かが書く必要があると強く思いつつも、被災地のことを文章にするのは不謹慎なのではないかと躊躇していたのです。しかも、医師としての本業が多忙を極め、執筆するのは深夜。体力的にも限界を超えていたと言います。
それでも被災地の本当の姿を、被災地の外にいる人たちに知ってほしい。本書を読むと、その思いがまっすぐに伝わってきます。無理を押して書き続けることで、おそらく安さん自身も混乱した自分の気持ちを整理していったのではないでしょうか。
残念ながら、安さんは二〇〇〇年十二月に病気で亡くなりました。震災時の過労や心労がその遠因にあったことは間違いないでしょう。まだ三十九歳。最愛のパートナーと幼い子どもたちを遺して逝くのは、本当に無念だったと思います。
安さん亡きあとも、この本は何度もよみがえり、多くの人に読み継がれてきました。亡くなった翌年に出版された文庫版を、お守りのように持ち歩いていた人もいたと聞きます。
二〇一一年に東日本大震災が起きたときも、直後からメディアで紹介されました。ところが、初版も文庫版も品切れ状態。被災された方や、被災しながら現地で支援活動をおこなっている方々、そして何より、外から被災地に赴く支援者の方々にぜひ読んでほしいと、私は出版社に直接連絡をとりました。
担当の編集者である内田眞人さん(私は安さんのお通夜で初めてお会いし、その後、安さんの訳書『多重人格者の心の内側の世界│154人の当事者の手記』を一緒に作りました)が動いてくれたことで、ときを置かず増補改訂版の出版がかないました。そこには『心の傷を癒すということ』の刊行後に書かれた災害精神医学に関する安さんの文章や、安さんをよく知る人たちの寄稿文も収載されました。さらに、この増補改訂版を読んだNHKのディレクター京田光広さんと演出家の安達もじりさんによって二〇二〇年にドラマ化もされ、そのなかでは柄本佑さんの名演で安さんがよみがえりました。このドラマ化のプロセスや、安さんの弟である安成洋さんの手記なども加わった新増補版も出版されました。
安さんという人間の深みと広さに接した人々や、この本を通じて安さんと出会った人たちが、心のなかの財産として安さんを生き返らせているのだと思います。それぞれが、安さんから渡されたバトンを大事に受け継ぎ、次につなげていこうとしている。今回の「100分de名著」も、その延長線上にあると言えるでしょう。
今も日本の各地で似たような災害が起きています。二〇一一年の東日本大震災、二〇一六年の熊本地震、そして二〇二四年の能登半島地震。台風や豪雨による激甚災害も年々増えています。
大きな災害は、これからも起きるでしょう。いつ、どこで、どのような災害に遭遇するか、誰にもわからない。支援者、あるいはボランティアとして現地に赴くことになるかもしれません。さまざまな意味で、誰もが無関係ではないのです。
『心の傷を癒すということ』は、そうしたときに、とても助けになる名著です。被災地のなかから見た心の傷つきや、それが時間とともにどのように変化していくのか。どのように癒され、あるいは傷を抱えつつ生きていくのか。周囲の人が、どう関わるとよいかということについても書かれています。
現代社会は、傷つきが起きやすい状況にあります。災害以外の原因で心に傷を負う人も大勢います。傷ついているという自覚がなくても、生きづらさを感じている人は増えている。みなさんのなかにも、周囲にも、きっとたくさんいると思います。そういう人たちと接するかもしれないし、ひょっとしたら、今だって接しているかもしれない。自分だって傷つきを抱えているかもしれない。そういうことを感じつつ、読んでいただけたらと願っています。
NHK「100分de名著」テキストでは、「そのとき何が起こったか」「さまざまな『心の傷』を見つめる」「心のケアが目指すもの」「心の傷を耕す」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著として『エランベルジェ著作集(全三巻)』を紹介し、心のケアについて考えていきます。
講師
宮地尚子(みやじ・なおこ)
精神科医、一橋大学大学院教授
兵庫県生まれ。一九八六年京都府立医科大学卒業、二〇〇一年より一橋大学大学院社会学研究科助教授、二〇〇六年より現職。専門は文化精神医学・医療人類学・トラウマとジェンダー。著書に『トラウマ』(岩波新書)、『震災トラウマと復興ストレス』(岩波ブックレット)、『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房)、『ははがうまれる』(福音館書店)、『傷を愛せるか(増補新版)』(ちくま文庫)、『傷つきのこころ学』(NHK出版)などがある。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 心の傷を癒すということ 2025年1月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における引用は『新増補版 心の傷を癒すということ─大災害と心のケア』(安克昌、作品社、2020年)によります。