【ジョルジュ・ブラック】ピカソとの「キュビズム」の“発明”や共同作業を解説
美術史や画家に詳しくはないけれど、ピカソやレオナルド・ダ・ヴィンチなら知っている!という方は多くいらっしゃると思います。 ピカソの絵が好きな方であれば、一緒に知って欲しいのが今回ご紹介するジョルジュ・ブラックです。 ジョルジュ・ブラックは、ピカソと共に「キュビスム」といわれる画風を生み出し、20世紀初頭の芸術界に革命をもたらしました。 この記事ではジョルジュ・ブラックとピカソのキュビズムの発展を中心に、彼の人生や代表作を紹介します。
静物画(バンデリャス2本), ジョルジュ・ブラック, 1911年 フランス 分析的キュビズムStill Life with a Pair of Banderillas, Georges Braque, 1911, France, Analytical Cubism
芸術教育は15歳から。芸術の道に進んだのは自然なことだった
ジョルジュ・ブラック
フランスの画家、ジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882年5月13日 - 1963年8月31日)は、今から143年前に生まれて62年前に他界しました。第一次世界大戦・第二次世界大戦の激動の時代を生き抜いた芸術家です。
この時代の芸術教育は人それぞれで「幼少期から英才教育」だった人もいれば、成人してから芸術教育を受けた人もいます。
ジョルジュ・ブラックが最初に絵画を学んだのは1897年から。つまり、彼が15歳だったときのことです。ル・アーヴル・エコール・デ・ボザールという美術学校の夜間部に通い、絵画を専攻しました。
15歳から芸術を学んだのは、当時としては「早くもなく、遅くもなく」という感じでした。幼少期は装飾芸術職人である父や祖父から装飾芸術を学びながら育ったそうで、芸術の素養が自然と培われていたのでしょう。
芸術一家に生まれ、自然と芸術の道に進んだ
『レスタックの風景』(1908年)
現代は、10代のスポーツ選手や芸能人を見る機会も珍しくありませんが、彼らは自ら望んでこの道に進んだのか?と、ふと気になるときがありませんか?
15歳からずっと芸術の道一本だったジョルジュ・ブラックはどうだったのでしょうか。彼の場合は芸術関連の仕事をする家族のもとに生まれたこともあり、芸術の道に進むのは自然なことだったのかもしれません。
若い頃のジョルジュ・ブラックの作品は、当時フランスを中心に勢いがあった印象派の影響を強く受けていたといわれます。
18歳でパリに上京。最初はフォービズムっぽい絵だった
ジョルジュ・ブラックは18歳のときにパリに引越し、兵役を経て除隊後の1902年(当時22歳)から私立の美術学校アカデミー・アンベールに通いはじめます。
この頃はアンリ・マティスの影響を受け、フォービズム(野獣派)に近い作品を制作していました。
フォービズムとは?
フォービズム(仏: Fauvisme、野獣派)は、20世紀初頭の絵画運動の名称。ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチが「あたかも野獣(フォーヴ、fauves)の檻の中にいるようだ」と感じられたことから命名された。
出典:Wikipedia フォーヴィズム
ジョルジョ・ブラックはキュビズムの括りで語られることが多いですが、実際はその芸術家人生のなかで様々な芸術スタイルを採用した点が特徴です。フォービズムはその1つであり、他にもポスト印象派やシュルレアリスムと分類される作品もあります。
画家としてデビューしたのは25歳
「エスタックの港」ジョルジュ・ブラック, 1906年 フランス, フォーヴィスム, ”Estaque, the harbour” Georges Braque, 1906 France, Fauvsim
ジョルジュ・ブラックが展覧会に出品し、画家としてデビューしたのは1907年のアンデパンダン展でした。「開発の人」ジョルジュ・ブラックらしさが出てくるのは、この頃からです。
ブラックはラウル・デュフィやオットン・フリエスらと知り合い、彼らとともにやや落ち着いたテイストのフォーヴィスムを発展させます。
ジョルジュ・ブラックのピカソとの出会い
「ホテル『ミストラル』のテラス(エスタック)」ジョルジュ・ブラック, 1907年 フランス, ポスト印象派, ”Terrace of Hotel "Mistral" at Estaque” Georges Braque, 1907 France, Post-Impressionism
ジョルジュ・ブラックがピカソと出会ったのは1907年。詩人ギヨーム・アポリネールと共にピカソのアトリエを訪れ『アヴィニョンの娘たち』を見たことで衝撃を受けました。
まさか後年になってピカソと一緒に作品を創るなんて、このときのジョルジュ・ブラック自身も予想していなかったでしょう。同年に鑑賞したセザンヌの作品も、ジョルジョのなかに大きなインパクトを残していました。
この後しばらくの期間、ブラックはセザンヌとピカソの両者から影響を受け、エスタックとパリを往復しながら絵の制作に取り組みました。この時期にキュビズムの基礎が少しずつできていたわけです。
いよいよキュビズム誕生!キューブで家を表現したのが始まり!?
ジョルジュ・ブラックが生み出したといわれるキュビズムですが、始まりは1908年頃といわれています。1907年頃まで、ジョルジュ・ブラックはフォービズムの代表的な作家たちと交流していました。
キュビズムとは?
パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが創始した、芸術運動のひとつ。日本語では立体派とも呼ばれ、キュビズムという名前はCUBE(箱)に由来する。モチーフのかたちを分解し、再構成することでイメージを率直に表現することで、視覚ではなく理論で描く知性的な絵画を目指した。
出典:ユーホリック 【徹底解説】ジョルジュ・ブラックの人生と作品に迫る〜もう一人のキュビズムの父〜
1908年にブラックが描いた風景画は、セザンヌの絵画の特徴がよく現れていましたが、よく見ると違う点も。例えば、風景画において遠近のダイナミズムの強調するために手前に木を配しているところはセザンヌ的です。しかし、中心にある建物は単純な立方体で表現されています。
ブラックはこの様子を次の言葉で表しました。「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。自然は平面よりも深さにおいて存在します。」
ピカソとの共同作業が始まった
ピカソ・ブラック展, German and Viennese photography, March, 1906 (and) Detail- Picasso-Braque exhibition, January, 1915 LCCN90710615
ピカソはアフリカ芸術に取り組む中でキュビズムへ発展したといわれていますが、ブラックはセザンヌ的芸術への取り組みからキュビスムへ発展しました。そして1909年には両者が共同で作品をつくり、2つの流れが1つにまとまったのです。
1909年の冬から翌年の春にかけて、ピカソとブラックは初めての共同制作を行いました。実際、1912年までのジョルジュ作品はピカソとの共同制作が多く、どちらの作品か区別が難しいものも多数あります。
初期のキュビズムは「分析的キュビズム」と呼ばれた
『瓶と魚』ジョルジュ・ブラック; 1910 - 1912; フランス; 分析的キュビズム, ”Bottle and Fishes” Georges Braque; 1910 - 1912; France; Analytical Cubism
ジョルジュ・ブラックは1908年から1912年までの作品で幾何学的要素や多視点からの描写を特徴とします。セザンヌのアイデアを基礎に、静止したオブジェクトを複数視点から表現することに興味を持っていました。
1909年初めにパブロ・ピカソと共同制作を始め、1909年から1911年頃の二人の作品は「分析的キュビズム」と呼ばれています。
この分析的キュビズムでは、物体を小さな切片の集合体として描き、色合いは統一感を出すためにモノクロに近い褐色や灰色に統一されています。
また、ブラックは光の効果や視点、技術的手法についても研究を深めました。例えば村の風景画では建物の形状が単純化され、平面的な印象を与えるようになっていきます。
彫刻や建築にも広がった
「モチーフを分解して再構成し、視覚ではなく理論的な手法でイメージを表現する」というキュビズムは革新的で、彫刻や建築にも影響を与えました。キュビズムは「新しい絵の描き方」にとどまらず、芸術界の革命ともいえるのです。
難解なキュビズム
ピカソの発明をブラックが補った
当初の「分析的キュビズム」では、人体やオブジェは小さな切り子面や断片として分解され、万華鏡をのぞくような感覚で描かれました。また、画面に統一感を出すため色彩はモノクロームに近い褐色や灰色に統一されていた特徴があります。
一緒に新しい芸術を生み出していったジョルジュとピカソですが、彼らの関心の方向性は少し異なっていました。ピカソが移動による時間差から生じる視点や三次元のフォルムに関心があったのに対し、ブラックは静止したオブジェを複数の視点から見つめることに関心があったためです。
この方向性の微妙な違いが、新しい芸術の発展をさらに加速させていったのかもしれません。
文字を挿入した
ヴァイオリンとパイプ、『ル・クオティディアン』ジョルジュ・ブラック、1913年;フランス;合成キュビズム, Violin and Pipe, 'Le Quotidien' Georges Braque, 1913; France; Synthetic Cubism
1911年前後には2人とも作品に断片的な文字を挿入していました。文字を入れることで、難解な作品が抽象画ではなく現実的な具象画であることを主張する効果が得られます。逆に現実的要素が難解さと相まってより抽象的に見せる効果もありました。
同じ頃、ブラックは葡萄の房やバイオリンが登場する作品も多数作っています。翌1912年頃からはカンバスの一部に丁寧に木目を描いたり、絵具に砂を混ぜるなど後のコラージュやパピエ・コレに通じる作品を製作し、最初のパピエ・コレの作品『果物皿とグラス』を製作しました。
総合的キュビスム
絵+αの「コラージュ」に発展
「チェッカーボード・ティボリ・シネマ」ジョルジュ・ブラック, 1913年フランス, 合成キュビズム, ”Checkerboard Tivoli Cinema” Georges Braque, 1913 France, Synthetic Cubism
1912年、ピカソとブラックの作品は「新聞の切り抜き」や「壁紙」など、本来の絵とは異質のオブジェを導入したコラージュ技法へと発展しました。この結果、紙だけで行われるものはパピエ・コレと呼ばれました。
これらは形態を分解して細分化する「分析的キュビスム」に対して「総合的キュビスム」と呼ばれています。
ブラックはコラージュで写実的な表現を追求
ジョルジュ・ブラックは顔料に砂を混ぜたり、キャンバスに緻密な木目やステンシルを描き入れるなど絵具の従来の関係性を俯瞰し、独自の表現方法を模索するように。
彼はコラージュの断片を論理的に組み合わせ、主に写実的な表現に使用し、静物を複数の視点で描く手法にこだわりました。
ピカソはコラージュで新しいものを創造
一方、ピカソは時間や角度の差によって生じる形態の違いをひとつの絵にする手法をとります。
彼のコラージュでは断片をつじつまの合わない方法で使用し、ひとつの物を別の物に転化させたり、新しくつなぎ合わせた形から思いがけない意味を引き出すことを楽しんでいました。
このピカソの錬金術的なコラージュは後年シュルレアリスムの画家たちに慕われることになりましたが、ブラックのコラージュにはそのような傾向はみられませんでした。
まとめ
ピカソとジョルジュ・ブラックは共同で作業を行ってキュビズムを発展させましたが、「総合的キュビズム」まで発展したところで両者の方向に違いが見え始めたのは面白い点ですね。
以上、ジョルジョ・ブラックとピカソの出会いについてでした!