#3 「君主は寄生階級にすぎない」──出口治明さんと読むリーダー論『貞観政要』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
出口治明さんによる『貞観政要』読み解き#3
優れたリーダーに、優れたフォロワーになるために──。
『NHK「100分de名著」ブックス 貞観政要』では、リーダー論の最高峰ともいわれる『貞観政要』を、ライフネット生命創業者でAPU(立命館アジア太平洋大学)学長特命補佐・出口治明さんが読み解きます。
2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第3回/全5回)
第1章──優れたリーダーの条件 より
『貞観政要』の成立
『貞観政要』は、李世民の死後五十年あまり経ったとき、呉兢(ごきょう)という歴史家によって編纂されました。死後比較的早く記録がまとめられた背景には、李世民が歴史を記録する役所、すなわち「史館(しかん)」を設けたことが影響していると考えられます。
中国では古来、王朝の正式な歴史である「正史」がまとめられてきました。唐より前の時代には、歴史を書くことは家業でした。代々鍛冶屋の家があるように、歴史を書くことを職業とする家があったのです。例えば、漢の時代は司馬家が歴史を書くことを担当する家系でした。有名な司馬遷(しばせん)の『史記』も、彼が自発的に一人で書いたわけではなく、父親の遺業を引き継ぐ形で完成させたものです。
ところが、唐の時代になると文献が増えすぎて、とてもひとつの家ではまとめきれなくなってきた。そこで李世民は、史館という役所をつくり、歴史の編纂を政府が管理する仕事に変えたのです。役所ができたからには役人が置かれ、日々の出来事が組織立って記録されるようになります。皇帝である李世民の一挙手一投足もすべて記録されました。あとになって正史をまとめる際の材料にするためです。
このようにして溜まっていった記録を、呉兢はどこかのタイミングで読んだのでしょう。想像するに、「これは『唐書(とうじょ)』を編纂する材料になるけれど、あまりにいいことが書いてあるので、ひとつ自分が先にまとめてやろう」と思ったのではないでしょうか。呉兢が活躍していた時期は、短い期間に皇帝が何人も変わっており、新しい皇帝に貞観の治を参考にしてもらいたいという期待もあったと思います。具体的にどの皇帝に献上されたのかについては、第四代中宗(ちゅうそう)、第六代玄宗(げんそう)、あるいは二人にそれぞれ別バージョンが進呈された、などいくつかの説があります。
『貞観政要』は、全十巻四十編で構成されています。内容は、おもに李世民とその臣下による問答から成っています。これは、「子曰く」で始まる『論語』などがそうであるように、中国の書物にはよく見られる形式です。また、比喩表現が巧みなことも『貞観政要』の特徴のひとつと言えるでしょう。
君主は寄生階級にすぎない
では、早速内容に入っていきましょう。まず、太宗・李世民が考え、実践した名君の条件とはどんなものかがわかる箇所をピックアップして、読んでいきます。
貞観初年、太宗は臣下たちを前にこう述べました。
君たるの道みちは、必ず須く先づ百姓を存すべし。若し百姓を損じて以て其の身に奉ぜば、猶ほ脛を割きて以て腹に啖はすがごとし。腹飽きて身斃る。
(巻第一 君道第一 第一章)
現代語訳ではこうなります。
君主としての道は、必ずぜひとも人民たちをあわれみ、恩恵を施さなければならない。もし、〔重税を取り立てなどして〕人民をむごく苦しめて、君主の身〔の贅沢な生活〕にあてるのは、ちょうど自分の足の肉を割いて自分の腹に食わすのと同じである。満腹したときには、その身が死んでしまう。
ここで太宗は、人民を「足」に、君主を「腹」になぞらえています。そうすることで、君主と政府と人民が一体であることを家臣に伝えているのです。
空腹を満たそうと思い、たくさんの肉を食べた。けれど、その肉が自分の足の肉だとしたらどうでしょうか。食べるたびに足が衰えて、いずれは立っていられなくなり、身を滅ぼしてしまいます。人民と君主の関係も同じです。君主の贅沢のために重税を課せば、人民は疲弊します。君主を恨むものが出てくるかもしれません。これでは国の安泰は図れない。だから太宗は自身の贅沢を戒めたのです。
太宗は続けて述べます。
人がその身を破滅するのは、〔その原因が〕外部から来るのではなくして、すべて、〔その人自身の〕欲望のために破滅の禍いを招くのである。もし、うまい料理ばかりを食べ、音楽や女色を愛好すれば、欲望は限りなく多く、〔それに要する〕費用もまた莫大である。それは、政事の妨げとなる上に、また、人民の生活を乱すものである。その上にまた、君主が一つでも道理にはずれた言を出せば、万民は、そのために統一が乱れ、君主を恨みそしる声が起こり、離反や謀反をする者も起こる。我は、常にこういうことを思って、決して自己の欲望のままにかって気ままな行為はしないのである。
(同前)
当時の根幹となる産業は農業でした。しかし、太宗が自ら畑を耕し収穫を行っていたわけではありません。太宗を支えていたのは、人民がつくる農作物や、彼らが納める税金でした。つまり、人民が生産階級だとすれば、君主(リーダー)は、人民に頼るしかない寄生階級なのです。太宗はそのことをよくわかっていました。人民が弱れば、寄生階級である自分も死ぬ。だからこそ太宗は、人民が気持ちよく働けるゆとりを奪うような重税を課すことはしませんでした。
君主が贅沢をしたために国が滅んだという例は、世界史にいくらでもありますね。フランス革命も、ルイ十四世、ルイ十五世が宮廷で贅沢をし、戦争にお金を使いすぎたことがそもそもの発端でした。
「自分はわかっている」と過信しない
同じく貞観初年、太宗は次のようなことを言っています。
我は幼少の時から弓矢を好んだ。自分では、弓については奥儀を極めたものと思っていた。ところが、近ごろ良弓十数張を手に入れ、それを弓工に示した。すると弓工は、「すべて良材ではございません」という。さらにその理由を問うと、弓工がいうには、「弓の木の心がまっすぐでございませんときは、木の木目が皆まがっています。そういう弓は、どんなに剛勁であっても、矢がまっすぐに飛びません。ですから良弓ではございません」ということであった。そこで我は始めて次のように悟った。自分は弓矢でもって四方の群雄を撃ち破り、弓を使うことが多かった。それなのに、〔弓工に言われてみれば、自分は弓について〕その筋目の曲直がよくわかっていなかったのである。まして、自分は天子となって、まだ日が浅いから、政治のやり方の精神を得ることについては、当然、弓を用いた経験には及ばないはずである。〔長年得意としていた〕弓でさえも、その見方が間違っていたのだから、まして、政治については、自分はまだ全然わかっていないのに相違ない。
(巻第一 政体第二 第一章)
自分は弓矢が得意である。しかし、弓の専門家に間違いを指摘されれば、素直にそれを受け入れる。太宗の謙虚さがよくわかるエピソードですね。さらに太宗は、長年親しんだ弓矢でさえそうなのだから、初めて司る政治については何も知らないに等しいはずだと考えます。だから役人たちを常に側に置き、いつでも彼らの意見を聞き、人民の様子を知るように努力したと続けています。
専門家の意見を謙虚に聞く。太宗はこの姿勢を大事にしていましたが、決して自分には能力がないと思っていたわけではないと思います。むしろ、自分にも能力があるという気持ちを抑えていたのではないでしょうか。せっかく優秀な部下が大勢集まっているのだから、彼らに聞いたほうが結果的に得策に違いない。そう考えたのだと想像します。
太宗がもともと謙虚な性格だったのかどうかはわかりません。しかし彼は、リーダーになるにあたって肉親を殺したという大きなハンディキャップを背負っていました。だからこそ、自分は謙虚でなければいけないという意識を強烈に持っていたと思います。そして、そのとおりに実行できた。ここが太宗の立派なところです。
謙虚でいなければいけない。わかってはいても、人間はなかなか謙虚でいることができません。会社の社長でも、社長に就任したときは「みんなのお陰だ、これからも助けてくれ」などと言いながら、一年も経てば、ふんぞり返って部下の話を聞くようになる。どうしても偉ぶってしまうのです。
では、太宗のように謙虚であり続けるにはどうすればいいのでしょうか。これはいかに自分をコントロールするかということにつながりますが、そのためにはいくつかの方法があります。
一つは、太宗のように大きなハンディキャップを持つということ。「ハンディキャップを取り返さねば」というプレッシャーに常にさらされることで、自分を抑えられるようになります。もう一つは、ギリシャ哲学の一派であるストア派が説いたように、運命を受け入れるという一種のあきらめを持つことです。自分はリーダーになる運命だったのだから、もう贅沢はできない。そういう価値観を受け入れるのです。これはある種の禁欲ですから、宗教を信じてそれを実践する態度にもつながるでしょう。
そして、周囲が寄ってたかって「あかん、あかん」と言い続けてくれる仕組みをつくることです。太宗がやったように、皇帝にダメ出しする役目を諫議大夫という職制として置くのも、リーダーが傲慢にならないための仕組みです。太宗は自ら心がけるだけではなく、自らがつくった仕組みによっても自分を律していたのです。
著者
出口治明(でぐち・はるあき)
ライフネット生命創業者。APU(立命館アジア太平洋大学)学長特命補佐。自身の経験と豊富な読書にもとづき、旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『仕事に効く 教養としての「世界史」Ⅰ・Ⅱ』(祥伝社)、『ぼくは古典を読み続ける 珠玉の5冊を堪能する』(光文社)など多数。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス 貞観政要 世を革めるのはリーダーのみにあらず』(出口治明著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2020年1月に放送された「貞観政要」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「たくましいフォロワーとして生き抜くために」などを収載したものです。