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12/1「鉄の記念日」にちなみ釜石2施設で企画展 今年のテーマは世界遺産登録10周年の「橋野鉄鉱山」

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 12月1日は“近代製鉄発祥の地釜石”にとって大切な「鉄の記念日」。1857(安政4)年、盛岡藩士大島高任が釜石(甲子村大橋)に建設した高炉で、鉄鉱石(磁鉄鉱)を原料とした鉄の連続出銑に日本で初めて成功した日だ。釜石市大平町の鉄の歴史館、甲子町大橋の釜石鉱山展示室Teson(てっさん)では今、同記念日にちなんだ企画展を開催中。今年は世界遺産登録から10周年を迎えた「橋野鉄鉱山」にスポットを当て、歴史館では高炉場、Tesonでは採掘場を中心に解説する。普段は公開していない貴重な資料もあり、「ぜひ、この機会に」と来場を呼びかける。

 大島高任は大橋での成功を受け、翌58(安政5)年、橋野村青ノ木に仮高炉を建設。これが橋野鉄鉱山の始まりだ。後に一番、二番高炉が建設され、仮高炉は改修されて三番高炉と称される。藩営ではあったが、実際は紫波の豪商・小野権右衛門の資本力による支配人経営。68(明治元)年には幕府の許可を得て銭座を併設し、出銑量は年間1千トン以上に上った。69(同2)年に政府が鋳銭禁止令を出すが、密造が続けられ、71(同4)年の大規模検挙により廃座。同時に一番、二番高炉は操業をやめ、三番高炉での銑鉄生産のみとなった。経営権の移譲が繰り返された後、94(同27)年、釜石鉱山田中製鉄所に売却された。田中が栗橋分工場の操業を開始したことで、橋野鉄鉱山は操業をやめたが、採掘は昭和30年代ごろまで細々と続いた。

 鉄の歴史館で開かれている「橋野鉄鉱山展」では、26点の関連資料と解説パネル14点を展示する。橋野地域では高炉による製鉄が始まる前から、砂鉄を原料とした“たたら製鉄”が盛んだった。「和山七ヶ山」と言われる鉄山があり、同展では直近の分布調査で見つかった鉄滓を展示する。大橋高炉で原料となる磁鉄鉱の発見は1727(享保12)年。場所を示す「大橋磁石岩絵図」は市指定文化財となっている。同展ではそのレプリカを展示。藩が作成した橋野鉄鉱山操業の予算書(下書き)も展示する。

写真上:橋野鉄鉱山の北側では古くからたたら製鉄が行われていた。右は橋野鉄鉱山と赤芝鉄山の間で見つかった鉄滓とフイゴの羽口。同下:安政6年の橋野鉄鉱山操業経費の調書の下書き


 同市では2006年から「橋野高炉跡範囲内容確認調査」を実施。東日本大震災で一時中断したが、18年から再開し、毎年エリアごとに発掘調査を進めている。その年の調査結果は橋野鉄鉱山インフォメーションセンターで速報展という形で公開するが、本企画展では主に19年以降の成果をパネルと出土品で総合的に紹介している。

 高さ7メートルの高炉に鉄鉱石や燃料の木炭を投入するには、作業するための建物「覆屋(おおいや)」が必要となるが、22年に行われた三番高炉エリアの発掘調査では、その規模が確認されている。柱跡(礎石、柱根など)をつないでいくと、覆屋の規模は約57坪(188平方メートル)と推定され、これは明治時代の記録と合致する。現在見られる高炉石組みの前に広がる平場は、ほぼ建物で覆われていたと考えられる。

三番高炉エリアの発掘調査現場(2022年撮影)。「覆屋」の建物規模が分かった


 同展では1958(昭和33)年ごろ、製鉄所の人たちが作ったという三番高炉と覆屋の木製模型も展示する。覆屋は幕末の高炉操業を描いた絵巻「紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図(しほんりょうてっこうざんおやまうちならびにこうろのず)」で描かれるが、立体的な模型だとその形状がよく分かる。

三番高炉と覆屋の木製模型。近代製鉄発祥100周年を記念し、「紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図」を参考に再現した


 出土品では高炉に使われた花巻産の耐火れんが、高炉の石組み(花こう岩)をつなぐ蝶形の鉄製金具「チキリ」、製品の一部とみられる銑鉄などを展示。三番高炉エリアからは鋳造場跡が確認されていて、鉄瓶の鋳型とみられるものや鉄鍋の耳部分、同所で製造されたとされる鉄瓶も展示している。この他、銭座があったことを示す銭竿や鉄銭、長屋跡から見つかった生活雑貨の皿も。

高炉の内部構造を解説するパネル(左)と、部材として使われたチキリ(右上)、耐火れんが(右下)


鉄銭は主に四文銭を鋳造(左)。鉄瓶の鋳型の土台部分とみられる遺物(右上)も出土


 市教委文化財課世界遺産室の森一欽室長は「この10年の発掘調査だけでも新たな発見が多数あった。本企画展ではその成果を集大成という形で出すが、まだまだ分かっていないことがあり通過点。今後も調査を続け、橋野鉄鉱山の全容をより詳しく解明していければ」と話す。企画展は来年1月12日まで開催。毎週火曜日休館。12月29日~1月3日までは年末年始休館となる。

 一方、釜石鉱山展示室Tesonでは「鉱山(やま)を極めるⅡ~青ノ木鉱床編~」と題し、関連資料17点、パネル10点を展示する。橋野高炉に供給する鉄鉱石を採掘した「青ノ木鉱床」は高炉場に隣接する二又沢川の上流(高炉場の南南西約2.6キロ)に位置し、かつては“二又鉱床”や“猫軸山”と呼ばれていた。露天掘りや半地下式の採掘場があり、後に坑道掘りも始まった。橋野鉄鉱山の高炉が閉鎖された後も、断続的に採掘が行われ、1956(昭和31)年の大橋側、大峰鉱床の開発で青ノ木の坑道は大峰とつなげられた。

釜石鉱山展示室Tesonで開かれている企画展。鉄鉱石を採掘した青ノ木、高前両鉱床にスポットをあてる


「紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図」で描かれる露天掘りの様子。鉄槌やくさびを使って地表から掘り進めた


 橋野高炉には、沢桧川上流、大平集落の東約1500メートルに位置する「高前鉱床」からも鉄鉱石が供給された。高前の鉱石は、明治初期に沢桧川沿いで稼働した横石、大蕨(わらび)両高炉や栗林高炉にも供給。田中製鉄所栗橋分工場が稼働すると、同工場の主力採掘場となった。

 企画展の展示資料、1894(明治27)~1905(同38)年の鉱業施業案綴(つづり)には、田中製鉄所時代の両鉱床の採掘計画(作業人数、採掘量)が記されていて、一部を拡大コピーで紹介。実際の採掘量を記した明細表も合わせて展示する。他にも1906(同39)~11(同44)年に作成された両鉱床の実測図(平面、断面)、明治末頃の青ノ木坑内の写真、1891(同24)年から15年間の高前・男嶽官地の採掘を田中に許可する農商務大臣名の借区券など、普段は見ることができない貴重な資料が並ぶ。

明治27~35年の鉱業施業案綴。右下は28年の施業案を読みやすいように文字を打ち直したもの


青ノ木(二又)、高前両鉱床の坑内実測図の展示。普段は非公開


高前、男嶽官地の採掘許可を示す「借区券」(右)。左は鉄鉱石や木炭を背負って運ぶための籠「コダス」


 同展示室の企画展は12月8日までの開催(火・水曜日休館)。なお、同展示室と橋野鉄鉱山インフォメーションセンターは9日から来年3月31日まで冬季休館となる。

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