『忠臣か陰謀家か』石田三成にまつわる「黒い噂」とは 〜千利休の死、秀次事件、淀殿との密通
石田三成は、豊臣秀吉の側近として数々の功績を挙げ、豊臣政権を支えた重臣である。
しかし、その忠実さと冷徹さは、やがて黒い噂を呼ぶこととなった。
特に「千利休の切腹」や「豊臣秀次事件」は、後世において三成の讒言が原因とする説も流布されている。
ここでは、彼にまつわる黒い逸話を掘り下げてみたい。
ただし、これらはあくまで二次資料や逸話集などに基づく伝承であり、必ずしも史実に裏付けられているわけではない。三成に関する様々な噂がどのように語り継がれてきたのか、その一端を感じ取っていただければ幸いである。
石田三成の悪い噂① 千利休の切腹
元々、秀吉の側近として活躍していたのは、秀吉の弟・豊臣秀長と、茶人・千利休である。
秀吉に物事を進言するには、この二人を通すのが常道であり、三成も秀吉に近しい立場ではあったが、政治的な影響力では秀長や利休に及ばなかった。
しかし、ある日突然状況が変わる。
まず秀長が病で急死し、そのわずか20日後、千利休にも蟄居が命じられ、さらにその15日後には切腹に追い込まれたのだ。この結果、秀吉に対して直言できる立場の者は、三成のみとなった。これが後年、三成が豊臣政権内で権力を掌握した一因とされる。
利休の切腹については、大徳寺の山門に自らの木像を安置したことが秀吉に対して不遜であると見なされたこと、また、利休の名声が高くなったことで勝手に鑑定を行って新たな名品茶器を生み出し、それを高値で売って私腹を肥やしたために、秀吉の怒りを買ったという説もある。
三成はこの事件に対して、二つの噂を囁かれている。『※絵本太閤記』(江戸中期)
その一つが、三成と親交が深かった前田玄以との関係である。
大徳寺の山門の件を秀吉に告げ口したのが玄以だという説があり、実際、玄以がこの件に対して取り調べを行っている。
こうして「三成が玄以に密かに指示を出したのでは」との憶測が生まれた。
もう一つは、利休の妻子が三成の手によって「蛇責めの刑」に処されるという噂があったと、当時の人の日記に残っていることである。
つまり、当時から三成を怪しむ噂はあったようだ。
石田三成の悪い噂② 加藤光泰・蒲生氏郷の毒殺
三成には、二人の人物を毒殺したという説がある。
一人は、加藤光泰(かとうみつやす)である。
光泰は秀吉の家臣であり、甲府城24万石を領する城主であった。
光泰は文禄の役(朝鮮出兵)に出陣中に三成と対立し、その後、三成に誘われて饗応を受けた後に発病して急死したことから、毒殺説が囁かれた。『※北藤録』
この毒殺説は、当時もある程度信じられていたようである。
もう一人は蒲生氏郷(がもううじさと)である。
氏郷は会津92万石の太守であり、諸大名からの信頼も厚い名将であった。しかし、40歳という若さで病死している。
『氏郷記』によると、三成が秀吉に対し「氏郷は謀(はかりごと)にも優れ、家臣もよく鍛えられているため、将来の脅威となりかねません」と進言し、それを受けた秀吉が「人知れず毒殺せよ」と命じたとされている。
しかし、この説には無理があるという。
氏郷が発病した当時(1593年)、三成は朝鮮に出陣しており、氏郷の急死に関わることは物理的に難しい状況だった。
また、秀吉は発病した氏郷に対し、施薬院全宗などの当時第一級の医師団を派遣して総出で治療に当たっており、当時のカルテも残っている。
こうしたことから、氏郷の毒殺説は後世の創作で、通説通り病死とみていいだろう。
石田三成の悪い噂③ 秀次事件
豊臣秀次の切腹事件においても、三成の関与が囁かれている。
秀次は秀吉の甥であり、養子として関白の地位を継いだ「秀吉の後継者」であった。
しかし、秀吉の実子である秀頼が誕生したことで立場を失い、やがて謀反の疑いをかけられ高野山へ追放された後、自害に追い込まれた。
また、秀次本人だけではなく、小さな子供たちや姫君、側室、侍女、乳母たちだけでも39名が斬首され、姫たちの中には公卿・今出川晴季の娘・一の台や、「東国一の美少女」と呼ばれた最上義光の娘・駒姫(15才)もいた。
この事件は、晩年の秀吉の非道な行為の一つとして知られている。
この事件において、三成は秀次の尋問役を務め、さらに連座した大名らの取り調べにも当たった。
それが転じて「三成が仕組んだ」という噂になったようである。『※絵本太閤記』
しかし、三成が実際にどの程度関与していたかは不明である。また、許された秀次の家臣の中には、その後三成に仕えた者もいた。
石田三成の悪い噂④ 加藤清正の蟄居と、小早川秀秋の左遷
朝鮮出兵の文禄の役においても、二つの三成の黒い噂が残っている。
その一つが、加藤清正の蟄居(ちっきょ : 自宅等に閉じ込め謹慎させる刑罰)に関するものである。
加藤清正と小西行長は、共に朝鮮出兵に参戦し、北進して戦果を挙げていたが、二人の間には強いライバル関係があった。
特に清正は行長を快く思わず、対立が絶えなかった。一方で、行長は三成と親しく、彼の支持を得ていたとされる。
三成は軍監(軍を観察して主人に報告する)として朝鮮に派遣され、行長の動きに同調。反発していた清正は日本に呼び戻され、秀吉から叱責・蟄居させられてしまった。
この処遇は、三成の働きかけによるものだと噂され、後に清正らが三成の命を狙った「三成襲撃事件」の遠因となったとされる。
もう一つの黒い噂は、小早川秀秋の左遷に関するものである。
秀秋は若干16歳にして朝鮮出兵に参加したが、その若さゆえか「戦場で軽率な行動を取った」と指摘された。その後、帰国を命じられ、秀吉から厳しい叱責を受け、領地であった筑前・筑後の33万石を没収され、越前北庄12万石に減封された。
この処分については、三成の讒言が原因とする説がある。
とはいえ、秀秋の帰国日程に関しては以前から既に決定されており、「軽はずみな行動」とは無関係だったとされている。
しかし、その後の関ヶ原の戦いでは秀秋が三成を裏切り、これが西軍敗北の決定打となった。
秀秋の裏切りには、やはり上記のような過去の因縁があったとみても良さそうだ。
石田三成の悪い噂⑤ 淀殿との密通
江戸時代初期、三成の評価は決して悪くなく、むしろ主君への忠義を称えられていた。
家康ですら三成を悪く言わず、水戸黄門で知られる徳川光圀(家康の孫)も、「三成は主君のために戦った忠臣であるから、徳川の敵であっても憎むべきではない」としている。
しかし、時代が下るにつれ、家康が「神君」として讃えられると共に、家康に敵対した三成の評価は低下の一途をたどった。
秀吉自身の人気も根強かったため、秀吉を直接悪役にすることは避けられ、代わりにその側近である三成や、秀頼の母・淀殿(よどどの)を悪く伝える風潮が強まっていった。
江戸時代中期になると、「三成と淀殿が密通していた」「秀頼は三成の子である」といった根も葉もない噂が広まり始めたという。『※萩藩閥閲録』
しかし、秀頼の誕生時(1593年)には三成は朝鮮出兵中であったため、根も葉もない噂であるのだが、二人は時代の流れとともに不当に悪役として描かれてしまい、伝承に尾ひれがついていったと考えられている。
おわりに
石田三成にまつわる黒い噂は、あくまで「噂」に過ぎない。
三成を評価するにあたっては、徳川の長い支配の中でその評価が歪められてきた可能性も考慮すべきであろう。
とはいえ、彼が多くの同僚や大名たちから人望を欠いていたこともまた事実とされている。三成を捉えるには、一面的ではなく、多角的な視点が求められるだろう。
参考:『絵本太閤記』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部