「いのち輝く、にこだわる」神奈川県知事・黒岩祐治氏に聞いた‟二十歳のころ”
健康とデジタルで首都圏をリードする神奈川県知事・黒岩祐治氏
2024年1月、石川県を襲った能登地震。その時、神奈川県CIO兼CDO(情報統括責任者兼データ統括責任者)の江口清貴氏を現地に派遣し、防災DX官民共創協議会の設置をはじめとした現地のDX戦略をリードしたのが神奈川県庁である。従来は手書きのファックスで行われていた避難所情報の収集をデジタル化し、迅速な状況把握や支援ニーズの特定を可能したり、スターリンクの導入を支援するなど、神奈川県庁が行ったサポートは目覚ましいものがあった。
47の都道府県がある中で、なぜ神奈川県庁がこれだけの役割を果たしたのであろうか。その原点は、コロナ禍の2021年、クルーズ船ダイヤモンドプリンセス号がコロナウイルス集団感染で横浜港に停泊した際の対応にある。当時、神奈川県庁は、LINEを活用した「新型コロナ対策、パーソナルサポート」を急遽開発し導入した。これにより無症状者や軽症者の健康状態やニーズをLINEで定期的に把握し、個別に必要な情報や医療支援につなげる仕組みを構築したのである。この経験は、その後の神奈川県全体のDX推進や感染症対策のベースとなったと言われている。
では、なぜ黒岩知事はこの点にこだわっているのだろうか。また、その背景にはどのような経験があったのだろうか。
地域の活性化や地方行政を研究する関東学院大学経済学部、松本武洋ゼミでは、黒岩知事の少年時代から青年時代と現在の関係性に着目し、インタビューを行った。本文は3年生の小林洸太が担当する。
二十歳の時、印象に残っていることは-「雄弁会では学生のサークルなのに派閥抗争があって、政治の現実を目の当たりにした」
黒岩知事:大学に入学した時、僕は普通の人より3年遅れていました。まず、灘中学校の受験に落ちてしまって公立中学校に行っていたのだけれど、悔しかったのでもう一度受験して、一年遅れで入りました。今じゃありえないですよね。だから僕は中高の同級生より一つ年上です。すごく楽しくて、水泳部をやっていたり、演劇部を作ったり、生徒会長もやりました。灘高校では東大に行くのが当たり前みたいなところがあり、当然、東大を受けたんだけど、落ちてしまった。結果的には東大を3回落ちて、2浪で早稲田大学に行きました。
受験のためにいろいろなことを我慢していたから、大学では好きなことをやろうと思い、それで入ったのが早稲田ミュージカル研究会です。当時、星の数ほどあった早稲田の演劇サークルで最も観客動員力があった。そこで歌って踊っていました。
もう一つ入ったサークルが演説練習や研究、さまざまな実践活動を行う雄弁会。小さいころから、将来は東大に行って、官僚になって、政治家になってこの国を良くしたい、と思っていました。それは父親の影響だったのですが、東大に3回落ちて、早稲田ではやりたいことをやる、と決めたのだけれど、まだ、政治への思いがあった。それで、雄弁会に入りました。東大から官僚になって、というのはなくなったけれど、早稲田の雄弁会のOBには有力な政治家がたくさんいました。
だから当時は、早稲田ミュージカル研究会と早稲田雄弁会という全然方向の違うことをやってバランスを取っていました。家庭教師のアルバイトも掛け持ちしていてかなり多忙な学生生活だったので、母が呆れていました。
雄弁会は昔の自民党と似ていて、学生のサークルなのに派閥があって、新人が入ってくると派閥同士で取り合いをしていました。サークルのトップが幹事長になりますが、この椅子をめぐって派閥抗争をするわけです。
僕は政治の話、特に青臭い政策の話は好きだったけど、派閥抗争は嫌いで、ちょうどミュージカル研究会にいたこともあり、派閥からは距離を置いていました。ところがある時、幹事長選挙に出てくれないか、という声がかかった。聞けば、もう派閥抗争なんてくだらないことはやめよう、という話で、それならと思って手を上げた。そうすると、先に手を上げていた人が取りやめてしまって、結果的に敵がいなくなってしまった。それで勝ったと思っていたら、ここから政治の現実を知ることになります。
幹事長は幹部の人事を決めて立候補するんですが、トップが降りたから俺も降りる、とは当然ならない。そして、その宙に浮いたメンバーを救おう、という人物が現れた。そうこうしているうちに、今度は「黒岩君は支持しているのだけれど、メンバーの誰誰が気に入らない」という話が出てきた。それでも僕は「そういうものをなくすために出てるんだから」と取り合わなかった。しかし、当日ふたを開けてみたら、相手に人が流れていて、まさかの大逆転負けでした。
政治とは、単純に「国づくり」とか「困ったことを変える」とか「制度を作る」とかそういうものが仕事だと思っていたのだけれど、実際の政治というのは凄まじい権力闘争に勝ち抜いていかなければできないんだ、ということが分かったわけです。だから、僕は政治家になったら僕のやりたいことはできない、と思い、政治家を目指すのはやめました。雄弁会では卒論を書きますが、僕はこの経験を踏まえて「永久不出馬宣言」という論文を書きました。
フジテレビに入社した時の経緯を教えてください-「面接で本当は政治家になりたかった、と言ったら驚かれました」
黒岩知事:ある時、テレビ番組を見ていたら、町の中の困ったことをレポーターが取り上げるというコーナーが放送されていました。そこでは、ある家の庭の柿の木が道路にはみ出していて、バスが通るときに危ないから切ってほしい、という意見を取り上げていました。実際にテレビのレポーターが行くと、しばらくして家の人が「じゃあしょうがないですねえ」と言って本当に切ってくれた、ということを目の当たりにしたんです。
自分がやりたいことはこれなんじゃないかと思い、テレビ局の入社試験を受けました。フジテレビの最終面接で志望理由を問われ、「本当は政治家になりたかったんです」と言うと、当然のことながら面接の人が「えっ」という顔をする。そこで、困っている人のことを放送することによって変えることができるかもしれない、それは僕にとっての政治なんだ、という話をしたら採用されました。
1980年に入社して、当初3年間は営業に配属されました。僕が入社した当時のフジテレビは民法4局のうち視聴率がビリで、当時、営業は本当に大変でした。僕が営業にいた間に、僕の結婚相手を紹介してくれた当時の直属の上司が亡くなっています。その方は、油壺の海でおぼれたのだけれど、引き揚げられたときには、まだ息があったのに、救急搬送の途中に亡くなられました。
その後、営業の3年間を終えた後に人事異動で内勤の記者になり、その1年後には政治部に異動することに。政治部では自民党担当になり自民党幹事長の担当などを務めました。記者がテレビに出て取材した内容を話す時代のはしりで、レポーターをやっているうちに「キャスターをやってくれないか」ということになり、土曜と日曜の夕方のニュースに出ることになりました。
救急救命士制度の導入のきっかけを作った、とうかがいました-「救急車のなかの医療の不在という問題を100回以上放送しました」
黒岩知事:キャスターになると、月曜から金曜にやる仕事は自分で決めていいということになり、何かテーマを絞って番組を作ろうと考えました。大学でミュージカル研究会をやっていた関係で、シナリオや企画書を考えたり書いたりということは得意だったんですよね。それで、じゃあ何をやろうかという時に、直属の上司が直面した「救急車の中の問題」に行き着きました。
当時、救急車の中ではいわゆる医療行為はなく、応急処置をしながら運んでいるという状態でした。一方アメリカでは、パラメディックという職種があり、救急車の中から医療行為が始められていた。日本では助かるはずのいのちが助かっていないのではないかという問題があったわけです。
これが日本でも医療行為のできる救急隊を実現しようという救急医療キャンペーン「救急医療にメス」になった。1989(平成元)年から2年間、延べ放送回数は100回を超えました。この連続キャンペーンの甲斐もあって、最終的には「救急救命士」という制度の誕生につながった。
その時に「はっ」と思いました。政治家にはならなかったけれど「僕はこういうことをやりたかったんだな」と。
その後、1通の手紙が僕のところに来ました。それは、油壺で亡くなった元上司の奥さんからの手紙でした。「あの時、救急救命士制度があれば夫は生き延びることができたかもしれない」という内容でした。それまで突き動かされるように動いていたのだけど、改めて、その自分を動かしていたのは、当時の上司の無念の思いだったのかなと思いました。
「永久不出馬宣言」を破って出馬したきっかけは-「東日本大震災です。それまでは出馬するつもりは全くなかった」
黒岩知事:今から14年前の2011年、僕の前の神奈川県知事だった松沢成文さんが、次の神奈川県知事選に出ないことになり、僕のところに急に「神奈川県知事選挙に出てください」と言う電話がかかってきました。それが選挙が始まる3週間前の3月2日でした。
当時、僕はフジテレビの政治討論番組の「報道2001」のキャスターをやっていた関係もあり、政界とは顔がつながっていたこと、そして、テレビに出ていたため、顔が世間に知れていたということから話が来たのだと思います。首相をやられましたが、当時は自民党の神奈川県連トップだった菅義偉さんが毎晩のように連絡をくれて、ところが、家族は絶対反対で、何より、政治資金すらないわけです。そこですったもんだしているうちに、大きな出来事がありました。それが東日本大震災です。それで、たくさんのいのちが失われている、こんな時に出馬してくれと言われているんだ、と運命のようなものを感じたわけです。そこで「永久不出馬宣言」を破り選挙に出ることにしました。
公約はどのように考えたのですか-「まず『いのち輝く神奈川』だ、と」
黒岩知事:救急医療の現場に救急救命士がいるかいないかというのは、いのちの瀬戸際なんですよ。そういうところの話をずっとやってきたから、いのちというものにこだわりがありました。だから知事になって何をやるんだという時に、まず「いのち輝く神奈川」だと。
そして、いのち輝くためにはどうすればいいのか。平和でなければならないし、安全で豊富な食がなければならない。住宅も大事。エネルギーの問題をしっかりしなければならない。それから環境問題も重要です。僕が小さいときには、大気汚染でスモッグが常に発生し、川はドロドロでいつも臭かった。もちろん、魚なんか住めないドブ川でした。こんな状況の中では、いのちも輝かないわけです。
こういった話はみんなつながっているわけですが、国に行くと役所がバラバラです。医療は厚生労働省だし、エネルギーは資源エネルギー庁です。国ではバラバラになっているけれど、県は国と比べたら断然、一緒になってやれる。要するにくっつけてやらなければならないわけだから、いのち輝く「マグネット」神奈川にしました。
キャスターとして僕がこだわってきたのは「要するに」なんだ、ということでした。そこで私が繰り返した「要するに」は「いのち」、これが一番大事だということです。
だから、自分の人生を振り返ってみると、全部ここにつながっていたんだと言うことに気づいたわけです。ひたすら動いて動き続けてきたわけですが、もしかしたらすべて用意されていて、「いのち」につながっていたんだ、そんなことを感じた瞬間でした。
いのち輝く社会とは?-「100歳になってもみんなが笑顔でいるということが究極の目標」
黒岩知事:いろんな薬ができて、移植ができて、遺伝子治療もある。しかし、死なない社会というのは無理だし、病気のない社会というのも、無理。では、どのような社会を目指しているのかというと、最後の最後まで、みんなのいのちが輝いている社会です。100歳になってもみんなが笑顔でいるということが究極の目標です。
【インタビューを終えて】
知事というと堅苦しいイメージだったが、実際に話をしてみると学生時代にミュージカル研究会や雄弁会と多種多様な活動を行っており、様々なジャンルのいろんな話をしてくれる気さくな方だった。
また、フジテレビキャスター時代の人を助けたいという思いから始めた救急医療キャンペーンが現在の「いのち輝く神奈川」というテーマにつながり、防災DXなど最新技術に挑戦していくことに、黒岩知事の人生のいろんなことがつながっていると感じた。(小林洸太)