中森明菜「ミ・アモーレ」レコード大賞も受賞した和製ファンカラティーナの最高傑作!
連載:KARL南澤の「80年代アイドル」リマインド Vol.28
中森明菜 / ミ・アモーレ
1980年代女性アイドルシーンの特徴は?
1980年代女性アイドルシーンのひとつの特徴として、楽曲のニューミュージック化という現象が挙げられる。この現象を先頭に立ってけん引していたのは、間違いなく松田聖子だ。財津和夫、大滝詠一、呉田軽穂(松任谷由実)、細野晴臣、尾崎亜美らの作曲家を立てた4枚目から21枚目(1982〜1985年)のシングル攻勢は圧巻のひと言だった。
そんなニューミュージック化する女性アイドルの横綱として君臨する松田聖子に真正面から果敢に挑んでいたのが、1982年にデビューした中森明菜だ。中森のニューミュージック化が明確になってきたのは、細野晴臣が手掛け、松田聖子「天国のキッス」からおよそ半年後にリリースされた6枚目のシングル「禁区」から。
中森明菜の “脱アイドル化”
以降6作連続で1作ごとに意外な人選ともとらえられる作曲家を立てて、ニューミュージック化の範疇を超え、様々な音楽ジャンルにアプローチした “楽曲派” に振り切って、松田聖子とのすみ分けを図りながら牙城を崩しにかかっていた。
▶︎ 6th:禁区(細野晴臣)
▶︎ 7th:北ウイング(林哲司)
▶︎ 8th:サザン・ウインド(玉置浩二)
▶︎ 9th:十戒(1984)(高中正義)
▶︎ 10th:飾りじゃないのよ涙は(井上陽水)
▶︎ 11th:ミ・アモーレ(松岡直也)
*カッコ内は作曲家
特に上記6〜11枚目のシングルがリリースされた1983〜1985年は、作曲家が明らかになる度に度肝を抜かれたものだ。高中正義~井上陽水~松岡直也の3連発に至っては、松田聖子をしのぐ横綱相撲っぷりといっていいかもしれない。
この時期のピークはというと、最も意外な人選だった「飾りじゃないのよ涙は」ということになるだろうが、ある意味、井上陽水以上に全国民が驚愕を覚えた松岡直也の起用となった「ミ・アモーレ」こそが、“脱アイドル化” に向けての決定打になっていた。
松岡直也が手がけた和製ファンカラティーナの最高傑作
そもそもラテンジャズ / フュージョン界の超ベテラン、松岡直也の作・編曲起用は誰もが予想だにしなかった。細野晴臣、玉置浩二、高中正義、井上陽水らに比したら、一般的な知名度は低かったかもしれない松岡直也ではあったが、ロングセラーとなったAORの名盤アルバム『9月の風』(1982年、80’sシティポップを象徴する永井博のジャケ!)を筆頭に、いくつかの作品で彼の名は確実に音楽シーンに刻まれていたのだろう。
結果として「ミ・アモーレ」は、松本伊代が1983年にリリースした「太陽がいっぱい」と双璧をなす、80年代和製ファンカラティーナ(80年代初頭欧州を中心にクラブシーンを席巻したポスト・ディスコの潮流のひとつ)の最高傑作となった。「ミ・アモーレ」の最大の魅力は、刹那的、泡沫的な雰囲気に包まれたラテン / 中近東な雰囲気が敷かれているところだが、これぞ松岡ワールドの真骨頂。ラテンテイストとこの時期の中森のマッチングは、実に絶妙なケミストリーを生み出したのだ。
隠し味はブラックコンテンポラリーのリズムパターン
そして、山下達郎「あまく危険な香り」(1982年)や 竹内まりや「PLASTIC LOVE」(1985年)でも引用された、カーティス・メイフィールド「トリッピング・アウト」〜 ハーブ・アルパート「ライズ」等で確立されたグルーヴィなブラックコンテンポラリーのリズムパターンを隠し味としている点は見逃せない。
1980年前後のブギームーブメントやダンサブルなAORシーンともリンクするこのグルーヴィーなミディアムリズムは、広い意味でのシティポップの一角を形成していたわけで、松岡直也の慧眼は大いに評価するべきだ。
「ミ・アモーレ」はこの後しばらく続くラテン〜中近東テイスト・シリーズのキックオフとなった作品。この曲のリミックスバージョンである12インチシングル「赤い鳥逃げた」(1985年)までもがオリコン1位となった本作、中森明菜のシングルレパートリーの中でも実にエポックメイキングな作品だったのだ。
Original Issue:2021/05/11 掲載記事をアップデート