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江戸の闇を駆けた大泥棒「田舎小僧」~多くの大名・御三卿すらも被害に

草の実堂

泥棒稼業に勤しむ田舎小僧(イメージ)

古今東西、世に盗人の種は尽きませんが、江戸時代にも多くの泥棒たちが暗躍していました。

今回はそんな一人・田舎小僧(いなかこぞう)と名乗った大泥棒を紹介したいと思います。

果たして彼はどんな人物で、どんな最期をたどったのでしょうか。

田舎小僧の生い立ちから初犯、勘当されるまで

奉公先で金をくすねる新助(イメージ)

田舎小僧は宝暦2年(1752年)ごろ、武蔵国足立郡新井方村(埼玉県川口市)で百姓をしていた、市右衛門(いちゑもん)の倅として生まれました。

実名は新助、13歳となった明和元年(1764年)に、江戸の神田同朋町(東京都千代田区)で紺屋を営む佐右衛門(そうゑもん)の元へ年季奉公に出されます。

その時の働きぶりについて、詳しいことは分かりません。
とにもかくにも年季が明けた安永2年(1773年)、新助は22歳になっていました。

年季が明けたのだから故郷に帰ってもいいのですが、どうせロクな食い扶持もないため、今度は下谷坂本(東京都台東区)の又兵衛(またべゑ)に奉公します。

しばらくは真面目(それなり)に勤めていたのでしょう。
しかし、25歳の安永5年(1776年)12月6日、新助は又兵衛から3両2朱(または3分2朱)を盗んで逐電しました。

仮に1両≒10万円/1分≒2.5万円/1朱≒6,250円とした場合、新助は約31万~9万円を盗んだことになります。

その場はまんまと逃げおおせた新助ですが、12月10日、武蔵国金杉村(埼玉県松伏町)で再び盗みを働こうとしたところを捕らわれてしまいました。

捕らわれた新助は、寺社奉行の太田資愛(おおた すけよし。備後守)に引き渡され、投獄されます。

前科者の入墨をされた新助に対する判決は、敲放(たたきはなし)の刑。
棒や鞭で打たれた上に、地元への追放でした。

親元で更生することを期待された新助は、暫く紺屋の手伝いなどをしていたものの、やはり素行は改まりません。

お灸で入墨を焼き消した新助は、相変わらず悪さばかりしていたようです。そしてついに天明元年(1781年)、両親から勘当されてしまいました。

※別説には、両親の死後に村を出たとも言われます。

田舎小僧が大暴れ!大名たちが次々と被害に

泥棒稼業に勤しむ田舎小僧(イメージ)

かくして無宿者となった新助は江戸に出て、浅草駒形町(東京都台東区)で商売を営む惣八(そうはち)の元で、棒手振り(行商人)として励んだそうです。

しかし天明3年(1783年)に惣八が廃業すると、今度は上野国市場村(群馬県桐生市)で百姓をしている四郎左衛門(しろうざゑもん)の元で日銭を稼ぎました。

いきなり江戸から上州とは思い切ったものですが、行商で培った人脈がものを言ったのでしょう。

しかし、これもそう長くは続かず、天明4年(1784年)が明けるころには江戸へ舞い戻り、いよいよ泥棒稼業を本格化することになります。

田舎小僧」と名乗った新助が泥棒として暴れ回ったのは、天明4年(1784年)3月から翌天明5年(1785年)8月までの約1年半。この間に合計27回の盗みを働きました。

田舎小僧が特に狙ったのは武家屋敷や寺院、町家などでした。
被害は、小さなところよりも大きなところに集中しています。

そう聞くと、一般人の感覚では「大きなところは警備が厳重なんじゃないの?」と思いがちです。
しかしこれが意外と逆で、大きなところほど監視の目が行き届かず、楽に仕事ができたそうです。

以下は、田舎小僧の被害にあったとされる大名です。

・浅野重晟(しげあきら。安芸広島藩主)
・池田治政(備前岡山藩主)
・小笠原忠総(ただふさ。豊前小倉藩主)
・島津重豪(しげひで。薩摩藩主)
・田沼意次(遠江相良藩主)
・藤堂高嶷(たかさと。伊勢津藩主)
・松平資承(すけつぐ。丹後宮津藩主)
・松平信之(大和郡山藩主)
・松平康福(やすよし。石見浜田藩主)
・松平頼起(よりおき。讃岐高松藩主)
・細川重賢(肥後熊本藩主)

果ては田安家・清水家、そして一橋家の御三卿に至るまで、片っ端から狙われたのでした。

田舎小僧は「義賊」だったのか?

捕らわれた田舎小僧新助(イメージ)

お殿様から金銀財宝を奪いとった田舎小僧の存在を、江戸の庶民たちはどのように思っていたのでしょうか。

大泥棒は往々にして「富める者から奪い、貧しい者に分け与える」義賊のイメージがつきがちです。

しかし田舎小僧は、盗品を売り払った金(※)で遊興三昧。
酒を呑んだり遊女を買ったり、博打を打ったり「呑む・打つ・買う」の三拍子を尽くしました。とても義賊とは言えません。

(※)換金額は140両余り(約1,400万円)とも、39両1分2朱250文(約390万円)とも言われます。

また、大名たちも家名を汚すことを恐れて、被害の公表を憚ったようです。
そのため一般庶民に田舎小僧の存在が知られることは、ほとんどなかったでしょう。

そんな田舎小僧が捕らわれたのが天明5年(1785年)8月16日。一橋邸で夜回りの中間に捕らわれ、町奉行所へ引き渡されます。

町奉行の曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ。甲斐守)は「重々不届至極」として獄門の判決を下しました。

そして天明5年(1785年)10月22日、田舎小僧は市中引き回しの上で処刑されたのです。享年34。

終わりに

今回は江戸を騒がせた大泥棒・田舎小僧について、その生涯をたどってきました。

悪行の報いとは言え、何とも言えない気分になります。

当時は他にも葵小僧(あおいこぞう)や稲葉小僧(いなばこぞう。田舎小僧と同一人物説も)など、著名な泥棒が存在するので、改めて紹介したいと思います。

※参考文献:
・阿部猛『盗賊の日本史』同成社、2006年5月
・丹野顯『江戸の盗賊 知られざる“闇の記録”に迫る』青春出版社、2005年5月
・山下昌也『実録 江戸の悪党』学研新書、2010年7月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

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