#2 「死」がもつ意味を捉えなおす――岸見一郎さんが読む、マルクス・アウレリウス『自省録』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
岸見一郎さんによる
マルクス・アウレリウス『自省録』読み解き #2
自らの戒めと内省こそが、共生への道となる――。
名君と名高いローマ皇帝マルクス・アウレリウスが、自己の内面と徹底的に向き合って思索を掘り下げ、野営のテントで蠟燭を頼りに書き留めたという異色の哲学書『自省録』。
『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録』では、困難に立ち向かう人を勇気づけ、対人関係に悩む人へのヒントに満ちた不朽の名著である『自省録』を、『嫌われる勇気』で知られる岸見氏がやさしく解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします
(第2回/全5回)
運命に導かれて皇帝に
『自省録』は哲学書です。哲学という言葉を聞くだけで怯む人がいるかもしれませんが、哲学(philosophia)は本来的には学問ではなく「知を愛する」という意味です。誰もが幸福を求める──これがギリシア、ローマの基本前提であり、哲学の出発点です。幸福とは何か、幸福であるためにはどうすればいいか、この人生をどう生きればいいのかを知ろうとすることが哲学です。もとより、これらの問いへの答えは簡単に出ませんが、真摯に生きようとすれば問わないわけにはいきません。
我々を守ることができるものは何か。それはただ一つ、哲学だけだ。
(二・一七)
後にも、このアウレリウスの言葉を取り上げますが、皇帝として多忙な日々を生きる彼を守ったのは哲学でした。『自省録』は、思弁に終始することなく、学んだことを実践することを自分に課した、実践と思索の足跡を自分のために書き留めた思索ノートです。そこに語られている生きる知恵が二千年近くも時空を超え読み継がれてきたのです。
アウレリウスが遺したこの『自省録』には一体何が書かれているのか。その言葉の森へ分け入る前に、まずは彼がどんな人生を歩み、いかなる状況で『自省録』が書かれたのかを見ましょう。
マルクス・アウレリウスは一二一年、ローマの名門家庭に生まれました。賢帝による治世が続き、ローマ帝国が平和と繁栄を謳歌していた時代です。幼名はマルクス・アンニウス・ウェルスといいましたが、後に見るように皇帝家の養子になった頃から、アウレリウスを名乗るようになりました。富裕な家に育ち、教養も豊かであった母親からは、敬虔と慈しみの心、惜しみなく与えることや質素な生活スタイル、悪いことをしないだけでなく考えてもいけないということを教わったと振り返っています(一・三)。
父のマルクス・アンニウス・ウェルスは法務官の職にありましたが、アウレリウスが三歳の時に亡くなっています。おぼろげな記憶、あるいは周囲から伝え聞いた話などから、「謙虚と雄々しさ」(一・二)を学んだと記しています。
父と死別したアウレリウスは、当時の慣例に従い祖父アンニウス・ウェルスの養子になります。祖父は当時の皇帝ハドリアヌスの側近でした。皇帝は幼いアウレリウスをかわいがり、この頃からゆくゆくは皇帝に、と目していたようです。
元元老院議員で教育熱心だった曽祖父ルキウス・カティリウス・セウェルスは、七歳になったアウレリウスを一般の学校には通わせず、一流の学者たちを家庭教師として自邸で学ばせました。ギリシア語、ラテン語、音楽、数学、法律、修辞学──。なかでも最もアウレリウスを惹きつけたのが哲学でした。傾倒していた哲学の先人に倣い、ギリシア風の簡素な服を身につけ、夜はじかに地面に寝たりもしたようですが、彼の健康を案じた母に懇願されて渋々やめたというエピソードが残っています。
アウレリウスの人生が大きく動いたのは、成人式を迎えた十四歳の時です。次期皇帝に指名されていたルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの娘であるケイオニアと婚約しました。しかし、彼が急死すると、新たに後継者として指名されたアントニヌス・ピウスの養子となります。ハドリアヌスが亡くなると、帝位を継いだアントニヌス・ピウスはアウレリウスにケイオニアとの婚約を解消させます。そして自分の娘であるファウスティナと婚約させ、アウレリウスを次期皇帝に指名します。この時、アウレリウスはまだ十八歳でした。しかし彼は喜ぶどころか、むしろ恐怖を感じたと伝えられています。哲学して生きる道が断たれることに加え、宮廷内の悪事・放埓を見聞きしていた彼は、自分の前に敷かれたレールの先にどんな日々が待ち受けているのか、容易に想像できたのでしょう。
ピウス帝の死去を受け、アウレリウスは三十九歳で帝位を継承します。即位に際して彼は、同じくピウスの養子で九歳年下のルキウス・ウェルスを共同統治帝としました。哲学者として生きることを切望していたのであれば、ここでルキウスに帝位を譲るという選択もあったかもしれません。それをしなかったのは、ハドリアヌスとピウス、二代にわたる賢帝の意向に背くことになるのに加え、彼が傾倒していた哲学が「運命を甘受する」よう説いていたこともあったのでしょう。これについては第3章で詳述しますが、皇帝になることを彼が心から望んでいたわけではなかったでしょう。
彼の苦悩は、その後さらに深まることになります。ルキウスとの共同統治を待ち受けていたのは、度重なる天災と辺境からの外敵の侵攻でした。彼らは軍を率いて遠征しますが、一時ローマに帰還する途中で、ルキウスが急死。『自省録』が書き始められたのは、アウレリウスが一人で帝国の舵取りをすることになった頃からだといわれています。
私生活でも悲しい出来事が相次ぎます。アウレリウスは十四人の子どもを授かりますが、多くは夭逝し、成人できたのは娘五人と息子一人だけでした。アウレリウスが次のように書いているのは自分に言い聞かせたのでしょう。
「子どもを失うことがありませんように」という人がいる。お前はいう。「失うことを恐れないように」。
(九・四〇)
兵士たちから「陣営の母」と慕われた妻であり皇后であるファウスティナ(アントニヌス・ピウス帝の娘)も、戦地に同行中に急逝しています。アウレリウスは十五歳になった息子を共同統治帝に任命しますが、この息子が、後に暴政を敷いて暗殺されるコンモドゥスです。逸材を登用して後継に据えるという慣例を破り、無能な実子に継がせたのは賢帝アウレリウスが犯した唯一の失策と指摘する歴史家もいますが、そこにいかなる思いがあったのかは『自省録』には語られていません。
コンモドゥスとの共同統治を始めて二年、前線で冬営中にアウレリウスは病に倒れ、五十八歳で亡くなりました。
奇跡的に残った『自省録』
アントニヌス・ピウスの養子となり、十八歳で次期皇帝に指名されて以降の人生は、彼にとって本意のものではありませんでした。三十九歳で即位して以降の約二十年は、戦争に明け暮れる日々。義弟ルキウス、実子コンモドゥスという二人の共同統治帝は、いずれも賢帝たる資質を備えていませんでした。アウレリウスは美徳と智恵によって国を治めたと評価されていますが、彼が率いたローマ帝国は、すでに昔日の輝きを失っていました。苦難と孤独に包まれたその後半生に、彼が記していたのが『自省録』です。
本書は十二巻に分かれていますが、テーマごとに整理されているわけではなく、どの巻にも長短さまざまな自戒の言葉が断片的に綴られています。第一巻と第二巻の末尾に記された地名から、遠征先でも書いていたことを窺い知ることはできますが、日付はなく、綴られた言葉と彼の身に起こった出来事との関連を特定することはできません。
先述の通り、本書は彼が自分自身のために書き留めた個人的なノート、覚え書きのようなものです。アウレリウスに公刊の意図はなく、書題もおそらくは後世の人がつけたものでしょう。日本では『自省録』の名で定着していますが、ギリシア語の原題は「タ・エイス・ヘアウトン(Ta eis heauton)」。「タ」は定冠詞で英語のtheにあたり、「エイス」は「~の中へ」「~のために」、「ヘアウトン」は「自分自身」という意味なので、自分自身に対しての、あるいは、自分自身のための覚え書きという意味になります。これが本書の表題だったかはわからないのですが。
タイトルだけでなく、本書はギリシア語で書かれています。アウレリウスはラテン語を母語とするローマ人ですが、ギリシア語で書いたのは、彼が依拠したストア哲学の術語がギリシア語だったからです。ギリシア語からラテン語に翻訳しないでそのまま使う方が簡単だったのです。自分のための覚え書きなので、他の人にも読めるようラテン語で書く必要はなく、また、読まれたくなかったということもあったかもしれません。理由はどうあれ、自分たちには読めない言葉で何かを書きつけている皇帝の姿は、周囲の人を不安にさせたのではないかと想像します。
アウレリウスが書いたノートを、現代の私たちが読めるということは奇跡といっていいでしょう。当然、アウレリウス自身が書いたものは残っていませんが、これを写したコピー(写本)がありました。コピーと書きましたが、人が写すわけですから書き間違いも起こります。また、本書に限ったことではありませんが、羊皮紙やパピルスに書かれた写本は脆弱で、物理的に残すことが極めて困難でした。残ったとしても、保存状態が悪くて解読できなかったり、火災や略奪の憂き目に遭うこともあり、今まで伝わってきたのは奇跡的です。さらに、本書には個人的なことはあまり書いてありません。仔細に読めば自分を語っている箇所はたくさんありますが、一見インパーソナルな内容で、しかも皇帝が書いたものなのに、政治性は皆無に等しいので、焚書として葬られませんでした。何よりもこの本が後世に残り長く読み継がれているのは、本書を読んだ人が、後世に伝えるべき価値と普遍性があることを見て取ったからです。
ギリシア語とラテン語の対訳で初めて活字になったのは十六世紀半ばです。刊行されるとすぐに反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳・出版の動きが広がりました。日本でギリシア語原典からの翻訳がなされたのは二十世紀、それも戦後になってからのことです。
著者
岸見一郎(きしみ・いちろう)
京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。奈良女子大学文学部(ギリシア語)、近大姫路大学看護学部、教育学部(生命倫理)、京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)などで非常勤講師を歴任。専門の哲学と並行してアドラー心理学を研究。精力的に執筆・講演活動を行っている。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著/ダイヤモンド社)、『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』(講談社)、『プラトン ソクラテスの弁明』(KADOKAWA)など、訳書に、アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)、プラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)など。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録 他者との共生はいかに可能か』(岸見一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書で紹介する『自省録』の言葉は著者訳です。目下、刊行されている日本語訳には、神谷美恵子訳(岩波文庫)、鈴木照雄訳(講談社学術文庫)、水地宗明訳(京都大学学術出版会西洋古典叢書)があります。
*引用訳文末にある数字「(□・◯)」は、『自省録』中の「□巻・◯章」を指します。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2019年4月に放送された「自省録」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「生の直下で死と向き合う」、読書案内などを収載したものです。