「テレビには映れない」取材拒否された理由 〜ハンセン病と沖縄戦の取材中手記〜
沖縄県北部の観光名所・古宇利島の対岸に位置する屋我地島には国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園がある。
ハンセン病とは・・・ 「らい菌」が主に皮膚と神経を犯す慢性の感染症。しかし治療法が確立された現代では完治する。 ハンセン病の感染力は弱く、ほとんどの人は自然の免疫がある。そのためハンセン病は、“最も感染力の弱い感染病”とも言われている。 ハンセン病患者の外見と感染に対する恐れから、患者たちは何世紀にもわたり差別と偏見を受けてきた。 日本では明治時代から法律が制定され、隔離政策がとられるようになり、ハンセン病患者の人権が大きく侵害された。 第二次大戦後も患者らを継続的に療養所に隔離するための政策「らい予防法」が制定された。しかし元患者(回復者)らが原告となって国と闘ったことによって、「らい予防法」は1996年に廃止された、2001年に同法による国家賠償請求が認められた。
沖縄が初めて見た戦争
1944年10月10日、沖縄は米軍機による無差別攻撃を受けた。飛行場や港湾。市街地を中心に被弾した。戦争の始まりを告げ、県民に戦争の恐怖を与えたこの攻撃は「10・10空襲」と呼ばれ、多くの犠牲者を出した。
愛楽園にも空襲が
愛楽園もこの10・10空襲に巻き込まれた。愛楽園には午前8時過ぎから夕方まで何度も空襲が繰り返され、園内の建物の約9割が焼失、破損し、療養所としての機能を失った。 米軍は屋我地島にハンセン病療養所があることは知っていたが、詳細な位置は分かっていなかった。10・10空襲の際、上空から見た時に療養所が軍事施設に似ていたことから誤って爆撃したという。
壕掘で手足を切断
この10・10空襲から愛楽園で生活していた入所者たちは自らが掘らされた壕での生活を余儀なくされた。 壕堀は男性も女性も動ける人は半強制的に動員され、昼夜交代制で行われた。愛楽園内にある壕の表面をよく見ると貝殻の化石が堆積する地層になっている。軽く触っただけでも皮膚が切れそうになるほど鋭利にとがった地層をスコップなどで掘る作業は末梢神経が麻痺している入所者にとって過酷だった。ケガをしても気づかず、気づいたころには傷口が化膿しており、手足を切断せざるを得なかった。
愛楽園の死者・約300人
空襲による直撃で亡くなったのは1人だったが、不衛生な環境下で多くの入所者が身体を傷め、満足な食事は与えられず、愛楽園では1944年10月から1945年末までにマラリア・アメーバ赤痢・栄養失調などで約300人が死亡した。当時の入所者の3分の1の人数にのぼる。
当時の少女はその時何を見て何を感じたのか
当時中学生の年代だった入所者の多恵子さん(仮)は「私たち少年少女は壕堀りではなく、ご飯を作る係だった。壕堀りをしていた人たちはハンセン病の患者は指に感覚が無いからみんな手にケガを負っていた。」と当時を振り返ってくれた。 園には主に「早田壕」と「三上壕」があったが、多恵子さん(仮)を含めた少年少女約20人は「三上壕」に逃げ込んだ。「飛行機がこっちに向かってくるのが分かった。怖かった。」と証言した。
テレビ取材を断られた理由
テレビ記者である私が沖縄戦中に愛楽園で起きたことを描きたいと思ったきっかけは地元の新聞に多恵子さん(仮)に関する記事が掲載されていたことだ。 すぐに愛楽園の中にある資料館の学芸員・鈴木さんを介し、「ぜひ、テレビカメラを利用して取材をさせて欲しい」と打診した。 数日後、学芸員の鈴木さんから返ってきたメールに衝撃を受けることになる。その内容を抜粋してお伝えする。 『その方がおっしゃるには「(地元紙に掲載された写真が))分かる人には誰だか分かってしまったから、写真とか映像はやめようね。」と。お話をされない方ではないのですが、残念な結果になってしまいました。やはり「テレビ」というのが敷居が高いようです。本人と分からないようにすると説明しても、映像につながるものは踏み出しにくいようです。本当に残念です。』 結果的に、テレビカメラを入れずに話を聞いた上で、文字媒体で発信することの許諾をいただき、このように記事化させていただいた。
根強い差別に怯える回復者達
この一連の流れから分かることは、ハンセン病という病を克服し、治癒しているにも拘らず、過去の差別や偏見に苦しんだ経験と現在にも根強く残る差別に恐れているハンセン病回復者およびその家族が多いということだ。
忘れられない言葉
多恵子さんとの話を終え、帰ろうとした時、多恵子さんが笑顔で私に放った言葉が忘れられない。 「ハンセン病は怖くないからね」 多恵子さんが2度とこの言葉を発しなくて済む社会を築き上げたい。