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#4 犯罪を正当化した男の狂気と孤独──亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』【NHK別冊100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

#4 犯罪を正当化した男の狂気と孤独──亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』【NHK別冊100分de名著】

亀山郁夫さんによるドストエフスキー『罪と罰』読み解き #4

19世紀、急激な近代化が進んだ過渡期のロシアで、人間の内面に深く迫った大作家ドストエフスキー。その作品は、時代を超えて私たちの心を強く揺さぶります。

『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』は、「100分de名著」で取り上げた『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』に『悪霊』『白痴』『未成年』の三作品の書き下ろし解説を加えた一冊。この五大長編を解説するのは、ドストエフスキー作品の新訳も手掛けたロシア文学者・亀山郁夫さんです。

重層的でミステリアスな作品に込められた作者の意図を、クリアに解読していく本書より、第1講「『罪と罰』──なぜ、人を殺めてはいけないのか?」全文を、特別公開します。(第4回/全8回)

Ⅱ 引き裂かれた男

「犯罪論」──ナポレオン主義

 ラスコーリニコフの「犯罪論」について触れておきます。そこには、意志的な存在として生きる彼が、犯行のよりどころとする根本理念が盛り込まれていました。すなわち、すべての人間は「凡人」と「非凡人」に分けられ、凡人は従順に生きなくてはならないが、「非凡人はあらゆる犯罪をおかし、勝手に法を踏み越える権利をもつ」というのです。

 ラスコーリニコフのこの主張を、私なりに敷衍して説明しようと思います。歴史的に、一国の権力者が戦争を遂行する場合、それによって多くの人命が奪われるという現実が存在します。しかし、戦争を成功裡に遂行した権力者=強者は、裁かれることなく生き延びることができます。生き延びることができるどころか、栄光さえも与えられる。つまり、戦争という場での殺人は、正義として歴史的に評価され、認定される可能性があるということです。ナポレオン・ボナパルトがその典型でした。人間を殺すという、倫理的に決して許されるはずのない「悪」が、歴史的な事実として「正義」に反転する例が往々にしてあるのです。

 ラスコーリニコフの中に生じたのは、人を殺すという行為をめぐる個人のレベルと歴史のレベルとの、無意識的な混同です。ラスコーリニコフの狂気は、そこに宿っていたのです。

 もっともラスコーリニコフは、殺人そのものを無条件に肯定しているわけではありません。あくまで、「正当な目的」に則った行為に限定しているからです。最終的に彼の議論は、「目的は手段を正当化するか」という一点に帰着するわけですが、問題は、彼の理論が、全体の幸福を実現するためには、個々の犠牲には目をつぶるしかない、ということに依拠している点にあります。

 かりに人類にとって重要なケプラーやニュートンの発見が、妨げがあって世間に知られそうにないとすれば、彼らはその発見を全人類の前に明らかにするために、障害となって立ちふさがる者どもを「なきものにする」権利がある、いやそれは義務でさえある、つまり、「犯罪者になるしかない」と彼は言います。

 彼は人間を二つの階層に分けて考えます。

 低い階層(凡人)、まあ、いうなれば生産のための材料です、自分とおんなじような子孫を生産するのが役目です、それと、ほんとうの人間、つまり、自分の環境のなかで、何か新しいことを言う天分なり才能なりをあたえられた人たち、このふたつに分けられる。(略)第一の階層、つまり生産のための材料ですね、これはだいたい、その性質からいって、保守的で、行儀がよくて、言われるままに生きて、服従するのを好む人たちです。(略)第二の階層は、つねに法律を踏み越えていきます、それぞれの才能に応じて、破壊者ないしそういう傾向のある人たちです。(略)大衆は、彼らにそういう権利があるなんて認めようとしませんから、彼らを磔(はりつけ)にしたり、絞首台に送ったりするんです(略)とはいっても、子どもの世代になれば、それと同じ大衆が、処刑された人々をこんどは王座にまつりあげ、ぺこぺこ拝むことになるわけです(略)第一の階層は、いつだって現在の主人で、第二の階層は、未来の主人です。第一の階層は世界を維持し、それを数量的にふやしていく。第二の階層は世界を動かし、それを目的へとみちびくんです。(略)そうして Vive la guerre éternelle(永遠の戦争、万歳)、むろん、新しいエルサレムが生まれるまでの話ですけどね!

(第3部第5章)

 世界を意志的に変革していくためには、世界が二つの階層に分けられている必要がある、とラスコーリニコフは考えました。そうでないかぎり、世界を「目的へとみちびく」ことができなくなるからです。この発想が、二十世紀に現出したファシズムや全体主義に深く通じていることは、言うまでもありません。

 では、ラスコーリニコフは、「人々の普遍的な幸福を願って新しい理想の社会を希求する」社会主義者なのでしょうか。ラスコーリニコフは、理論を述べたてますが、その思想を明らかにしようとしません。面白いことに、ソヴィエト時代の研究者たちはラスコーリニコフの主張を肯定的にとらえ、こぞってそれを擁護しました。

 ただし、ラスコーリニコフの理論は、かつてドストエフスキー自身も傾倒したフーリエ主義のような空想的社会主義とも異なっています。むしろそこには、一八六〇年代のロシアで流行していた、マックス・シュティルナーの極端な個人主義や、「永遠の戦争、万歳」の出典となっているフランスの社会主義者プルードンの、「流血と良心」についての過激な思想の反映を見ることができます。

 ポルフィーリーは「凡人と非凡人ってのをどうやって見分けるかってことです。生まれたときに、すでに何か印でもついてるわけですか?」と問いかけ、ラズミーヒンは「良心にしたがった殺人をよしとするなんて、(略)血を流すことをおおやけに法律で許可するのより、もっと怖ろしいことだぜ……」と驚き、困惑します。ラスコーリニコフがかぶれるナポレオン主義には、根本的な欺瞞がありました。「ぼくは、自分のことを(略)ナポレオンだなんて考えちゃいません」と彼は弁明しますが、「いまのロシアに、自分をナポレオンだと思わない男なんていますか?」とポルフィーリーは追及します。

新しいエルサレム

 ここでひとつ問題が浮上します。かりにラスコーリニコフが、帝政=ロシア正教会に対立する「無神論者」ないし社会主義者であるとするならば、「理性と光……意志と力の王国」であるはずの未来の人類のユートピアに、なぜ「新しいエルサレム」といったキリスト教的なヴィジョンが重ねあわされているのか、という点です。「新しいエルサレム」とは、破滅した古い世界に代わって神の栄光のうちに訪れるという、新しい聖なる都のことで、「ヨハネの黙示録」第二十一章に記された終末のヴィジョンです。

 イデオロギーの根本にかかわる「神か、革命か」という問いは、ラスコーリニコフの思想的立場を理解するうえで重大な意味をもちます。たとえば、予審判事ポルフィーリーは、ラスコーリニコフにこんな質問をします。

 「じゃ、あなた、やっぱり新しいエルサレムを信じているんですか?」

 ラスコーリニコフはきっぱりと「信じてますよ」と答えます。「そ、それじゃあ、神も信じてるんですか?」という問いにも「信じています」と「上目づかいで」答え、その後「じゃあ、ラザロの復活も信じてらっしゃる?」「し、信じてますとも。どうしてそんなこと聞くんです?」「文字どおり、信じている?」「ええ、文字どおり」……という具合に問答は続いていきます。

 すでにおわかりでしょう。ナポレオン主義という選民思想と同時に、ラスコーリニコフの精神を支配していたのは、ロシア分離派宗徒たちの心に深く根づく終末論の思想でした。つまりラスコーリニコフの頭の中で、革命思想と終末論とが、二重写しにされていたのです。もしかすると作者ドストエフスキーにとっては、これもある種の「二枚舌」だったのかもしれません。終末論はよしとしても、危険な革命思想によってあからさまに読者の共感を得ようとするような書き方は、当時、絶対に許されなかったからです。

 革命と終末論──たとえば黙示録の「千年王国」の思想──とは、とてもよく似ています。どちらも、「堕落した世界が終わって、その次に新しいユートピア=神の国が実現する。そのためには、この世界を早く終末に導かねばならない」とする思想だからです。

 ともかく、ここにも「二人」のラスコーリニコフがいる。確信的な思想犯としての彼と、「新しいエルサレム」という理想世界の実現を求める、人道的な心をもった彼です。その実現への第一歩が、彼にとっては、金貸し老女殺しという「手段」でした。しかし彼自身ははじめから、そのヴィジョンに殉じ、人柱となる宿命にありました。なぜなら、聖書でいう「新しいエルサレム」には、「姦淫をなすもの、魔術をなすもの……」などと並んで、「人を殺すもの」はけっして入城を許されないからです。その意味でも、殺人犯であるラスコーリニコフは、呪われた悲劇的な存在と言えるでしょう。

 「おれは人を殺したんじゃない、主義を殺したんだ!」という内心の叫びは、自分はあくまで思想に殉じた、と言う自負と、殉じながら敗れた悔しさが一体となった叫びです。自分が陥っている不安と恐怖の現実の中で、「踏み越えられず、こっち側に居残った」という彼は、結局「やれたのは、殺すことだけ」で、みずからが考える天才にも英雄にもなれない「シラミ」のような卑小さに、苦しんでいます。愚かな「手段」だけが実行され、それを正当化するはずの崇高な「目的」が失われてしまったのではないか、という苦しみです。

 しかしその苦しみは、罪への悔いとは異なります。ラスコーリニコフは、最後まで「後悔」の念に苦しめられることはありません。そもそも、他者に対して「罪」を感じるという意識が希薄なのです。老女はともかく、巻き添えにした「気の毒な」リザヴェータのことすら、「かわいそう」には思いながらも、「ほとんど考えもしない」のですから……。

「罪の意識」とは何か?

 他方、ラスコーリニコフを過剰なくらいに守り、庇おうとする友人のドミートリー・ラズミーヒンは、心優しい愛すべき人物です。小説に登場する女性たちはみな彼に首ったけで、ドゥーニャや母プリヘーリヤをはじめ、賄い婦のナスターシヤや下宿のおかみまで、彼のことが気に入り、好きになってしまうのです。「熱血漢で、あけっぴろげで、単純で、正直で、英雄伝の勇者も顔負けの力もち」の彼は、その、いかにも豪放磊落(らいらく)かつ男性的な外貌とはうらはらに、どこまでも柔和かつ女性的な存在です。

 反面、ラズミーヒンは高い知性の持ち主でもあり、引っ越し祝いに集まった「社会主義者ども」の合理主義的な主張を批判し、かつて「ペトラシェフスキーの会」に参加したドストエフスキー自身の過去への、自嘲的なパロディともとれる意見を述べたりもします。

 「もし社会が正常に組織されれば、すべての犯罪はたちまち消えてなくなる、(略)みんながいっせいに正しい人間になるわけだから、とくる。そこでは、人間の本性ってのがカウントされてない、(略)で、けっきょくは、フーリエが言いだした共同宿舎(ファランステール)のレンガ積みやら、廊下作り、部屋作りにこき使われるだけってわけ!」

 ラズミーヒンという姓は(これは呼び名で、本名はヴラズミーヒンですが)、もともと「ラーズム」すなわち「理性」という意味を含み、本名のヴラズミーヒンにつながる「ヴラズミーチ」は、「教えさとす」「正気に返らせる」という意味をもつ動詞に由来しています。ラズミーヒンは、正気を失ったラスコーリニコフに対してそれにぴったりの役割を演じているわけですが、他方、ドミートリーという名は、大地の豊穣を司る女神デーメーテールを語源としています。彼は女性たちの側に立って、「大地」に足を着けた存在、女性的なもの、母性的なものの守護者を体現する人物と言っても過言ではありません。

 ラズミーヒンは、引き裂かれたラスコーリニコフとは対照的に、調和的という形容詞がふさわしい存在です。神に「黙過」された受難者ラスコーリニコフにとって、ラズミーヒンや彼の親戚であるポルフィーリーのような理知的な人物が傍らにいたことが、いずれ決定的な意味をもつことになります。神に代わって、人間の力が彼の運命を動かしていくのです。

 しかし、強度な傲慢さのとりことなったラスコーリニコフの目に、さしあたり周囲の友人たちや肉親たちの存在は見えません。つまり、彼は、他者を見失ってしまった、つまり、他者が存在しない、異常に孤独な状態に置かれているのです。

 「罪の意識」は、具体的な他者の存在と、他者との関係性なしには自覚することができません。たとえば相手の信頼を裏切るようなときに、はじめて罪の意識、罪の自覚が生まれます。では、どうすれば、彼は、罪を自覚することができるのか。小説に登場する人物を眺めてみると、唯一の例外とも言うべき存在に目が止まります。ポーレンカという名前の幼い少女です。傲慢の固まりのような存在と化したラスコーリニコフが、唯一心を許すことのできる他者こそ、ポーレンカなのです。なぜなら、彼女は、無垢な存在だからです。つまり、ラスコーリニコフが、絶対的な信頼をいだき、他者を意識し、関係性を自覚できるのは、無垢なるものに対してだけなのです。思うに、この無垢への信仰こそが、いや、過剰なまでの純粋さこそが、高利貸しの老女の殺害へと彼を走らせる根本動機となったのではないでしょうか。なにしろ、高利貸しとは、農奴解放後のロシア社会に誕生した新しい神に傅(かしず)く巫女なのですから。

 犯行後のラスコーリニコフは、「鋏で切り落としたように」人々から切り離されてしまったと感じ、恐怖と孤独におびえています。その感情は、根源的なもののシンボルである「大地」への着地を拒否されていることの証です。逆の言い方をすれば、ラスコーリニコフにとって世界と対話する術は、もはやこの恐怖と孤独を介するほかにありません。その恐怖と孤独を通して彼が対話できる相手とは、幻覚、悪夢といった無意識の世界です。そしてそれこそが、彼を、現実世界につなぎとめている唯一の手綱とも言えるのです。

 夢の力というのはまさに根源的な生命の力そのものです。狂気すれすれの極限の理性にとらわれた彼の身体の深いところで、生命が反乱を起こそうとしているのです。ということは、逆に、夢を見ることができなくなったら終わり、とも言えるでしょう。夢の力が、彼を恐怖と孤独に陥れるとともに、後々の再生をも促していくのですから。

 第3部の最後の場面で、アルカージー・スヴィドリガイロフが姿を現しました。この謎の人物の登場によって、小説はさらに立体的な奥行きを増し、恐ろしい深淵をのぞかせはじめます。

本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』では、・第1講 『罪と罰』──なぜ、人を殺あやめてはいけないのか?
・第2講 『白痴』『悪霊』『未成年』──ロシアの闇、復活の祈り
・第3講 『カラマーゾフの兄弟』──父殺し、または人間という解きがたい謎

という全3回の講義を通して、重層的な作品の意図を明瞭かつ大胆に解読していきます。

■『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』(亀山郁夫 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書におけるドストエフスキー作品の引用は、著者訳の光文社古典新訳文庫版に拠りますが、一部著者が訳し直している箇所があります。

著者

亀山郁夫(かめやま・いくお)
ロシア文学者、名古屋外国語大学学長
1949年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。天理大学、同志社大学を経て1990年より東京外国語大学外国語学部助教授、教授、同大学学長を歴任。2013年より現職。専門はロシア文学、ロシア文化論。著書に、『ドストエフスキー父殺しの文学』(NHKブックス)、『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』、『ドストエフスキー黒い言葉』(集英社新書)などが、訳書にドストエフスキー『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』(刊行中)、『カラマーゾフの兄弟』(いずれも光文社古典新訳文庫)などがある。2021年より世田谷文学館館長。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

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