第21回【私を映画に連れてって!】「映画俳優として生きていきたい」と語った大沢たかおが、世界に羽ばたく日は近い!
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
映画俳優か否か……。
多くの国では映画俳優と、テレビ中心の俳優とは区分けされて来た。
だが、現在のNetflixドラマのように、明らかに日本のテレビドラマとは異なる「映画とドラマ」の間が登場して、この区分けは崩れたように思える。「地面師たち」のように地上波での放送は考えておらず、ほぼ映画テイストだ。配信系では日本映画より〝映画的な〟作品も増えている。
ただ、アメリカのアカデミー賞を観ている限りでは、やはり選ばれるのは映画中心の俳優であり、テレビはエミー賞となる。その点では映画&テレビのゴールデングローブ賞で「SHOGUN」がテレビ部門での作品賞、主演男優賞、主演女優賞、助演男優賞に輝いたのは快挙である。
日本は、東京の地上波が強くなりすぎたせいで、「局制(作)」ドラマというのがあった。昔は局で放送していても「太陽にほえろ」は東宝だし、「探偵物語」も東映系プロダクション(スタッフはほぼ日活)、「大都会」は石原プロの制作だった。
ぼくがフジテレビに入社した1981年はまだ外部のプロダクション制作が多く、局制作は少数だった。「月9」という言葉が生まれた80年台後半、正確には「君の瞳をタイホする!」(1988)からだろうか。「月9」は「局制」だった。その枠以外では「共同テレビ」等のプロダクション制作もあったし「東宝」「東映」「松竹」などのメジャー映画会社のテレビ部門がメインの制作が多かった。「スケバン刑事」シリーズも東映(テレビ部)制作だ。フジテレビは局制=編成局制作部、他の会社との共同制作の場合は編成局編成部管轄だった。映画だけは編成局にありながら、少し独立した感じだった。「スケバン刑事」も好評なシリーズドラマとなり、映画化の際はぼくも参加した。東映スタッフプラス編成部、そして映画部の自分という風に。
真田広之さんと5~6本の映画を一緒にやり、『リング』(1998)以降、彼は世界に出ていく。その頃、入れ替わるように大沢たかおさんに出会う。
初めて本人を見たのは何故か、銀座で歌っている場(プロモーション)で、その後、挨拶をし合う。CDTV(TBS)を会う直前に見たときに彼のPVが流れていて、ランキングにも入っていて、歌も上手いんだ! という印象だった。酒井法子さんと共演した日本テレビ系ドラマ「星の金貨」(1995~1997)などが評判で、すでにスター俳優だと知っていたが、ドラマは未見だった。一方で「劇的紀行・深夜特急」(1996~1998/名古屋テレビ)だけは面白く見ていた。
彼の過去はよく知らなかったが「これからは映画俳優として生きて行きたいんです」と。その一言から数年の間、2人で時々話し合いながら〝映画中心〟の日々が始まる。
心の中では「映画だけでやっていくのは大変だろう……」と呟きながら。
結果的に「昔の男」(2001/TBS)を最後に、8年以上、地上波ドラマに出演することなく、約束通り? 映画の日々になった。
「映画出演のオファーがあまりなかったら、ぼくの映画で声かけるから……」などと言いながら、ぼくが一緒にやりたい気持ちも強く、何本もの作品を一緒にやることになる。幸い、映画のオファーも相次いだ。
テレビドラマも一度、一緒にやった。「アナザヘヴン~eclipse~」(2000/テレビ朝日)は、企画時は深夜ドラマ予定だったが、木曜21時のゴールデンタイムのドラマになった。プロデューサーにとっては放送時間で作り方が変わってしまうのだが、このドラマの中味は〝深夜的〟なテイストのまま作ることになった。彼は、そんなことは気にしない感じで、あくまでも面白い作品を目指していた。
映画は『千年旅人』(1999/辻仁成監督)、『異邦人たち』(スタンリー・クワン監督/2000/日本香港合作)、JamFilms『コールドスリープ』(2002/飯田譲治監督)、『荒神』(2003/北村龍平監督)、『スカイハイ劇場版』(2003)、『地下鉄(メトロ)に乗って』(2006/篠原哲雄監督)等に出演してもらった。他にも、相談しながら(ぼくがプロデューサー以外の)幾つもの映画に出演した。
『地下鉄に乗って』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞や日本アカデミー賞助演男優賞をもらったりもしたが、『異邦人たち』での海外撮影などが思い出深い。
▲「MEN’S NON-NO」をはじめとするファッション誌でモデルとして活躍していた大沢たかおは、俳優になってからはテレビドラマ「君といた夏」「若者のすべて」「星の金貨」などで人気が出て、映画『ゲレンデがとけるほど恋したい』では主演を務め、広瀬香美が歌う主題歌とともに大ヒットした。2000年以降は活動の拠点を映画に置くようになった。2005年にはスティーヴン・セガール主演の『イントゥ・ザ・サン』でハリウッド・デビューも果たしている。2008年の『ラブファイト』では、映画プロデューサーにも初挑戦し、主演した2023年の『沈黙の艦隊』でもプロデュースを担った。筆者がプロデュースを務めた映画『荒神』は、〝限られた空間での2人の対決〟という同じテーマ、同じ製作条件のもとで、堤幸彦と競作した北村龍平が監督を務めたアクション時代劇で、大沢たかおは、加藤雅也と主演を務めた。『地下鉄に乗って』は、浅田次郎の吉川英治文学新人賞受賞作を2006年に映画化したもので、過去と現在を地下鉄を通じて行き来し家族の過去をたどる男の物語。大沢たかおは、日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞した。監督は篠原哲雄、共演は堤真一、NHK連続テレビ小説「オードリー」のヒロインを演じた岡本綾、常盤貴子、田中泯、笹野高史ら。ミュージカル化、テレビドラマ化もされている。
『異邦人たち』は元々、岩井俊二監督+エドワード・ヤン監督(『ヤンヤン夏の想い出』)+スタンリー・クワン監督3人の「Y2Kプロジェクト」としてスタートしたものの岩井監督が諸般の事情で断念したことにより、外国人監督2人のプロジェクトになった。スタンリー・クワン監督の『ロアン・リンユィ』(1991/ベルリン国際映画祭最優秀女優賞:マギー・チャン)は傑作だった。
『異邦人たち』はアジアのスター俳優スー・チーやミッシェル・リーとの共演で、日本からは大沢たかおさん、桃井かおりさんに出演してもらった。
英語のことを考え、彼はベルリッツで真剣に特訓(僕も形だけベルリッツに半年通ったが……)しながら、香港での撮影に臨んだ。映画は第50回ベルリン国際映画祭2000コンペティション部門に選出され、一緒にベルリンに行った。
結果はグランプリ(金熊賞)『マグノリア』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)、銀熊賞『初恋のきた道』(チャン・イーモウ監督)、監督賞にミロシュ・フォアマン、主演男優賞にデンゼル・ワシントン………等錚々たるメンバーで、『異邦人たち』は残念ながら無冠に終わった。
映画祭のオープニングパーティは華やかで、ぼくはあまり馴染めない方なのだが(言葉の問題もあり……)、いきなり彼が、「河井さん、あれ、ヴィム・ヴェンダース監督ですよね」と。
昔、『ベルリン・天使の詩』(1987)のプロモーションで、来日時にインタビュー取材をしたことがあったので「たぶん、そうだね……」と返したら「隣にいるのはボノじゃないですか?」「ボノ?」「U2のボノですよ!」
隣にいたのが大沢たかおさんでなければ、これで終わっていたのだが……。
ヴィム・ヴェンダース監督の『ミリオンダラー・ホテル』もコンペティション部門で参加していて(結果は「特別賞」受賞)、何と原作・音楽はボノ。まぁ、同じコンペティション部門の参加者と考えれば臆することはないのだが……。
突然、「行きましょう!」と……。
人をかき分けながら、彼の後に付いていく。ここでベルリッツでの習得の差が歴然とする。ヴィム・ヴェンダース&ボノと堂々と英語で話し始めたのである。ある意味では当たり前の光景なのだが、ぼくは、笑いながら頷くだけで……。
▲香港・日本の合作映画で、日本では2001年2月に公開された『異邦人たち』。香港での試写会で、スタンリー・クワン監督、大沢たかお、桃井かおり、ミッシェル・リー、スー・チーらと登壇しスピーチをする筆者。第50回ベルリン国際映画祭にも出品され筆者も出席した。
『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)、『解夏』(2005)など、ヒット作や、主演賞にも輝きながら、一方で、海外、ハリウッドを睨みながら……、日々努力の人である。
初対面から8年経った頃、TBSから連続ドラマのオファーがあったが「断りました」と。その間、民放全局、NHKの大河ドラマの主演のオファーもあったが首を縦に振らなかった。これが彼のスタンスなのだろうと。
それから1年くらい経った時だろうか。相談があります、と。
TBSの件で、断った後もプロデューサーから彼に何度もオファーがあり、「もし、自分が出るなら……」という話をし続けてきたという。
そして、「出演しても良いかな……」と
此方はマネージャーでは無いし、「いいんじゃない」と答えたのだが、8年間映画だけに邁進し、ぼくとの関係も「映画をやりたい」からスタートしたので少しは気を遣ってくれたのか……。それはわからないが、「JIN‐仁‐」(2009/TBS)はそれだけ、プロデューサーと主演俳優が真剣に取り組もうとして来たのだから、これは良いドラマになる予感がした。
ドラマは大好評で、ぼくもとても面白く全話観た。映画化のオファーもあったようだがこれは固辞したのだろう。その代わりと言っては何だが、パート2(第2期/2011)も作られ放送された。話題や視聴率とともに、多くのテレビの賞を受賞した。
舞台でも、ミュージカル『ファントム』(2008)などの全国公演にも主演した。『王様と私』に主演した渡辺謙さんとロサンゼルス公演で会い、大いに刺激を受け、ロンドンでの公演(2018)では謙さんと共演、ミュージカルの聖地デビューも果たす。
「JIN‐仁‐」に出演した後も、精力的に映画には取り組み、彼でしか出せない存在感を放っている。『キングダムシリーズ』、特に『キングダム 大将軍の帰還』(2024/佐藤信介監督)は圧巻で大沢たかおでしか出せない魅力が全開だった。今年も『沈黙の艦隊 北極海大海戦』(『沈黙の艦隊』続編)が公開予定だが、やはり、彼にはメジャーエンタテイメント映画が似合う。ますます大きな俳優になって世界にも羽ばたく日を楽しみにしている。
常に真っすぐに作品に向き合う。これが大沢たかおの真骨頂である。
▲『海峡の光』で芥川賞を受賞し、作家、ミュージシャン、画家など多方面で活躍する辻仁成が自身の同名小説を自ら脚色しメガホンをとった1999年公開の『千年旅人』。死を目前にした男と自殺願望の男という、境遇の違う2人の男たちの姿を通して、人間の生と死を描いた作品。豊川悦司と大沢たかおという2人の俳優の強烈な個性がぶつかり合い、見応えのあるシーンを創り上げている。豊川の最愛の女性の母親役で渡辺美佐子も出演している。先ごろ本年度ブルーリボン賞の受賞者が発表されたが、『キングダム 大将軍の帰還』の演技で、大沢たかおは見事助演男優賞を受賞した。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。