聴き継がれる名曲!中村あゆみ「翼の折れたエンジェル」歌詞にみる10代の圧倒的リアリティ
中村あゆみ最大のヒット曲「翼の折れたエンジェル」
1985年(昭和60年)にリリース、中村あゆみ最大のヒット曲である「翼の折れたエンジェル」は、現在に至るまでレコード、CDの売り上げが37.8万枚、YouTubeでのミュージックビデオの再生回数は1500万回以上になるという。これはもはや、昭和の名曲という括りで語るものではなく、昭和、平成、令和と聴き継がれる普遍的な名曲と言えるだろう。
この曲が聴き継がれている最大の理由は、歌詞に潜む物語性だろう。決して洗練されていない、弱さや悩みをさらけ出した、むしろ青臭くも儚い男女の恋愛模様だ。いや、恋愛模様という言葉で片付けることのできない、十代特有の焦燥や苛立ち、そして憧れがすべて詰まっている。
こういう流派がいつからヒットチャートに登場したのかを考えてみると、その起点は1983年にデビューした尾崎豊からなのではないか。彼の作品の中でも特出した普遍的なラブソングである「シェリー」「OH MY LITTLE GIRL」など、決して強くはない男が主人公となり、女性を守りきれない自分の不甲斐なさをさらけ出す。もちろんこういうスタンスは決して珍しくなかったが、十代の目線で歌われていることが新しかった。
つまり、当時のヒット曲のメインターゲットであった80年代を生きるティーンエイジャーたちが、音楽に等身大の物語を求めていたということだろう。洒脱でアーバンな世界観を持つシティポップやキャンディポップのような夢物語では物足りない。10代の若者たちは “自分たちのことを歌っている” と共感できる歌を渇望していたのだ。
デビュー曲「Midnight Kids」の歌詞に注目
中村あゆみは「Midnight Kids」という曲で1984年9月5日にデビューを飾る。この曲も「翼の折れたエンジェル」と同じく、シンガーソングライター高橋研の楽曲だ。作詞には中村本人も名を連ねている。これは尾崎豊も敬愛したブルース・スプリングスティーンを彷彿させる疾走感溢れるロックンロールであり、「翼の折れたエンジェル」と同路線の楽曲と言っていいだろう。なんとも興味深いのは――
Tonight-100万$の夜空を
舞い降りる みんな傷だらけのエンジェル
という歌詞の一節だ。「Midnight Kids」はヒットには及ばなかったが、ここで中村あゆみ、高橋研という強いパートナーシップのもとで確信した路線が「翼の折れたエンジェル」につながっていることは間違いない。これは、同じくブルース・スプリングスティーンから大きな影響を受けた尾崎豊が、シングル「卒業」で当時のティーンエイジャーたちの心を代弁し、頭角を現す直前の出来事だった。
中村にとって、尾崎の存在が自らのモチベーションになったことは想像に難くない。2人は同じ世界を見据えていたと言えるだろう。それは、決してハッピーエンドでは収まりきれない、痛みや儚さを内包し、決して美しさだけではないギリギリの世界を歌っていこうという決意だったのかもしれない。「翼の折れたエンジェル」では――
かすんでしまうぐらいに
疲れきった ふたりが悲しいね
あたしも 翼の折れたエンジェル
みんな 翔べない エンジェル
というバッドエンドとも思える結末で幕を引く。尾崎の描いた世界観にしてみても、決してハッピーエンドではなかった。だからこそのリアリティに多くの10代が共感した。それは聴き手からすれば、決して平坦な道のりではない人生を生きていくという決意だとも言える。
日清カップヌードルのCMソングとして起用される
10代の苛立ちや敗北、そして痛みというリアリティがヒットソングを通じて全国のお茶の間に流れたのも大きなインパクトだった。CMソングとして起用された日清カップヌードルのコマーシャルには「夢を見ればケガをする。夢を見なけりゃ生きられない。」というこの曲の世界観を凝縮したようなナレーションが入る。
そう、甘い夢物語や、アーバンなライフスタイルが歌に求められる時代はすでに終わっていたということをこのCMは体現していた。時代は好景気の中、バブルに向かっていったが、そんな虚飾に溢れた時代だからこそ、多感な10代の若者には痛みを内包するリアリティが求められていたのだ。
そして、このリアリティは時代に風化することなく、2008年に「キリン ストロングセブン」のCMソングとして再レコーディング。そして現在もステージに立つ中村あゆみのライブには欠かせない1曲としてファンを沸かせている。