これは山神様の祟りか…源頼朝に従い活躍した老勇者・工藤景光の最期
20年の雌伏を経て平氏打倒の兵を挙げた源頼朝。その下には心ある勇士たちが参集し、苦闘の末に悲願を果たしたのでした。
そんな勇士たちの一人として、工藤景光(くどう かげみつ)がいます。果たしてどんな人物だったのでしょうか。
今回はその生涯と最期をたどってみたいと思います。
工藤景光プロフィール
工藤景光は、甲斐国(山梨県)で庄司(しょうじ。荘園を管理する役職。荘官)を勤めており、工藤庄司とも呼ばれました。
なお、工藤一族は駿河国(静岡県東部)や伊豆国(伊豆半島)にも分布しており、伊豆国に流されていた頼朝公の下には他の工藤一族も従っています。
治承4年(1180年)に頼朝公が挙兵すると、景光は子の工藤行光(ゆきみつ)と共に甲斐国で挙兵しました。
駿河目代の橘遠茂(とおもち)・俣野景久らを撃破したのち頼朝公と合流し、平氏討伐そして奥州征伐に武功を重ね、頼朝公の覇業に貢献します。
しかし、建久4年(1193年)5月に行われた富士の巻狩りで山神の祟りを受け、生命を落としてしまったのでした。
果たして富士の巻狩りでは何があったのか、文献を読んでみましょう。
菊池容斎『前賢故実』の記述は
工藤景光。頼朝挙。兵 景光與子行光赴之。数立功。建久中頼朝大猟于富士野。景光為射手首。臨猟有鹿走過。景光持満而待。衆皆属目。一発不中。追馳三■。亦皆不中。於是按弓而嘆曰。吾自十一歳以䠶猟為事。令己七旬。毎射旡不洞貫。而今心神惘然。令鹿逸。恐是山神所馭。我命■于■乎。及昏果得病而没。
※菊池容斎『前賢故実』巻之八 三十二 工藤景光
【意訳】工藤景光のこと。頼朝公が挙兵兵を挙げた。景光は子の工藤行光とこれに赴く。数多の武功を立てる。
建久4年(1193年)に頼朝公が富士野にて大巻狩りを行われた。景光は一番の射手となった。その時鹿が走り過ぎた。
景光は満を持して矢を放ったが、外してしまう。続けて三矢を放つも、みな外してしまう。景光は嘆いて言うには「我は11歳から狩りを始めて70年。一度として獲物を逃したことはなかったが、今は心神が茫然として鹿に逃げられてしまった。これは山神様のなせる業であろうか。山神様のお怒りを買っては、我が命も危い」とのこと。
その夜発病し、程なく亡くなってしまった。
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の記述は
未明催立勢子等。終日有御狩。射手等面々顯藝。莫不風毛雨血。爰無雙大鹿一頭走來于御駕前。工藤庄司景光〔着作与美水干。駕鹿毛馬〕兼有御馬左方。此鹿者景光分也。可射取之由申請之。被仰可然之旨。本自究竸射手也。人皆扣駕見之。景光聊相開而通懸于弓手。發射一矢不令中。鹿抜于一段許之前。景光押懸打鞭。二三矢又以同前。鹿入本山畢。景光弃弓安駕云。景光十一歳以來。以狩獵爲業。而已七旬餘。莫未獲弓手物。而今心神惘然太迷惑。是則爲山神駕之條無疑歟。運命縮畢。後日諸人可思合云々。各又成奇異思之處。晩鐘之程。景光發病云々。仰云。此事尤恠異也。止狩可有還御歟云々。宿老等申不可然之由。仍自明日七ケ日可有巻狩云々。
※『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月27日条
【意訳】この日は未明から勢子を繰り出し、終日巻狩りを行った。御家人らはめいめいに腕前を披露し、獣の毛が風に散り、血の雨が降らない時はなかったという。
その時、見たこともないほど大きな鹿が頼朝公の前を走り過ぎた。頼朝公の左に控えていた景光(美しく仕立てられた水干姿で、鹿毛馬に乗っている)は
「この鹿はそれがしの獲物なれば、必ずや射止めてご覧に入れましょう」
と申し出た。頼朝公はこれを認め、景光は狙いを定める。
御家人の中でも随一の弓手なれば、一同が景光に注目した。
しかし矢は外れてしまう。鹿は素早く逃げ去り、景光は馬に鞭を入れて追いすがる。
それから二の矢、三の矢を放つも、ついに射止めることなく鹿は山へと消えてしまった。
景光が弓を投げ捨てて言うには
「我は11歳より狩りを始めて70余年。一度として獲物を手に出来なかったことはない。しかし今は心身が茫然としてはなはだ困惑してしまった。これは山神様がなせる業であることは疑いない。我が生命も縮まってしまうだろう。後日方々の教訓となされたい」
との事である。
皆が困惑していると、夜になって景光が発病してしまった。
それを聞いて頼朝公の仰せには
「これは実に怪異である。山神様の祟りであれば、巻狩りをやめて鎌倉へ帰るべきであろうか」
とのこと。しかし宿老たちは「とんでもない」と然るべからざるの由を申し上げる。
かくして、翌日から7日間にわたって巻狩りが行われたのだそうな。
矢口祭にて一番の栄誉
発病してから間もなく景光は生命を落としてしまったのですが、獲物を射損じてしまっただけではその腕前が伝わりません。
せっかくなので、富士の巻狩りにおける景光の晴れ舞台も紹介しておきましょう。
富士野御狩之間。將軍家督若君始令射鹿給。……此後被止今日御狩訖。属晩。於其所被祭山神矢口等。……可然射手三人被召出之。賜矢口餠。所謂一口工藤庄司景光。二口愛甲三郎季隆。三口曾我太郎祐信等也。……先景光依召參進。蹲居取白餠置中。取赤置右方。其後三色。各一取重之〔黒上。赤中。白下〕置于座左臥木之上。是供山神云々。次又如先三色重之。三口食之〔始中。次左廉。次右廉〕發矢叫聲。太微音也。……
※『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月16日条
【意訳】富士の巻狩りで、若君(頼朝公嫡男・源頼家)が初めて鹿を射止められた。
……これをもって当日の狩りは取りやめとし、その晩は山神様を祀る矢口祭(やぐちのまつり)が執り行われる。
祭礼には最も秀でた三名の射手が召し出され、矢口餅が下賜された。
一番は工藤景光、二番は愛甲三郎季隆(あいこうの さぶろうすえたか)、三番は曾我太郎祐信(そがの たろうすけのぶ)である。
まずは景光が進み出て、三色の矢口餅を上から黒色・赤色・白色の順に積み重ねた。
これを山神様へ供えた後、中央・左角・右角の順に三口かじる。
そして矢叫(やたけび)の声をあげるも、喉が涸れていたのか甚だかすれていた。
……ということです。
頼家が一人前の武士となった祝いに筆頭射手となった景光。
これまでのセリフからして80歳をゆうに過ぎていたことになりますが、相当な腕前だったのでしょうね。
工藤景光・基本データ
生没:生年不詳~建久4年(1193年)5月ごろ没(享年81歳以上)
出身:甲斐国巨摩郡
両親:工藤景澄/母親不詳
子息:工藤行光・工藤祐光(資光、助光)・工藤朝光・工藤重光
主君:源頼朝
特技:騎射
死因:病死(山神様の祟り?)
【苗字と家紋の由来】
祖先・藤原為憲が平将門追討の功績により木工助(もくのすけ。宮殿を造営する木工寮の次官)に任官。木「工」助を務める「藤」原氏ということで「工藤」を称したのが始まりとされる。
家紋は庵木瓜(いおりもっこう)。庵は建築を表し、木瓜は木工にかけたもので、為憲が創始したという。
【工藤氏略系図】
……藤原鎌足―藤原不比等―藤原武智麻呂―藤原乙麻呂―藤原是公―藤原雄友―藤原弟河―藤原高扶(たかすけ)―藤原清夏―藤原維幾(これちよ)―藤原為憲―工藤時理―工藤維景―工藤景任―工藤資広―工藤行景―工藤景澄―工藤景光―工藤行光―工藤長光―工藤徳光―工藤繁光―工藤光俊―工藤種光―工藤光永―工藤光文……
終わりに
今回は頼朝公に仕えた老勇者・工藤景光について紹介してきました。
マイナーだけど、地味に凄い腕前の持ち主だったようです。
景光の病死が山神様の警告とすると、それに構わず巻狩りを続行した頼朝公ひいては鎌倉幕府には、何がしかの影響があったことでしょう。
また景光の子・行光は奥州岩手郡厨川(くりやがわ。岩手県盛岡市)に所領を賜り、その子・長光が当地へ赴任した事から、奥州の地で活躍することになります。
景光の子孫たちについても、改めてその活躍を紹介していきたいものです。
※参考文献:
・五味文彦ら編『吾妻鏡 現代語訳6 富士の巻狩り』吉川弘文館、2009年6月
・峰岸純夫ら編『中世武家系図の史料論 上巻』高志書院、2007年10月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)
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