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埋もれた「女たちの人生」を掘り起こす──ソコロワ山下聖美さんと読む、有吉佐和子『華岡青洲の妻』【NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

埋もれた「女たちの人生」を掘り起こす──ソコロワ山下聖美さんと読む、有吉佐和子『華岡青洲の妻』【NHK100分de名著】

心理描写から展開まで、すべてがケタ外れに面白い! 有吉佐和子『華岡青洲の妻』を、ソコロワ山下聖美さんが解説

2024年12月のNHK『100分de名著』では、昭和を代表する女性作家・有吉佐和子の特集として、彼女の『華岡青洲の妻』『恍惚の人』『青い壺』の3作品を、日本大学芸術学部教授・ソコロワ山下聖美さんが紹介します。

家族とは、老いとは、そして人の幸せとは──。幅広いテーマに関心を寄せ、文壇的評価とは無縁でありながら、圧倒的人気を博した有吉佐和子とその作品の魅力に迫る番組テキストより、それぞれの作品へのイントロダクションを公開します。

第1回は、「家」や「血」という呪縛のなかで繰り広げられる女たちの確執を描いた『華岡青洲の妻』についてです。

(全3回中の第1回)

蜜月の関係から、豹変する姑

『華岡青洲の妻』の舞台は、江戸時代の紀州。名家の娘に生まれた加恵(かえ)は、家に出入りのあった医師・華岡直道(なおみち)の妻の於継(おつぎ)に懇望され、その息子の雲平(のちの青洲)の妻として嫁入りすることになります。家柄的に釣り合っているとは言えない両家でしたが、於継は加恵の父親を熱心に口説きます。

 於継は、気品に満ちた美しい女性として、その地で広く知られていました。加恵にとって於継は、子どもの頃からの憧れの存在でした。そんな女性に跡継ぎの嫁として価値を見出されたことは、加恵にとって大変名誉なことでした。当初、父親は断るつもりでしたが、母親の後押しにより、この縁談は実現へと向かいます。

 しかし、その結婚生活はいきなり特殊なものとなりました。夫の雲平は京都へ遊学中で、加恵が嫁いだ華岡家にいません。つまり、夫婦で顔を合わせたこともないまま、別居状態での妻としての暮らしがスタートしたのです。

 この頃の華岡家には、家長である直道に妻の於継、雲平の妹である於勝(おかつ)と小陸(こりく)、そして当年三歳になる弟の良平の五人と、使用人の小女、直道の門弟である下村良庵(しもむらりょうあん)が生活していました。使用人はいたものの掃除と子守がその仕事で、炊事洗濯は於継の指示のもと、小姑の於勝と小陸が切り盛りしていました。

 華岡家の生活は、質素そのものでした。雲平の遊学にかなりのお金がかかっていたからです。そのため加恵は、華岡家の者たちとともに、夫の学費稼ぎのために機織りに精を出す日々を送ります。名家の娘として不自由なく育った彼女にとって、それは慣れない労働ではありましたが、加恵の手がけた織物を出入りの者に自慢する於継の愛情ある態度に触れると嬉しさのあまり有頂天になり、一層精を出さずにはいられないのでした。まさに嫁姑が互いに惚れ合い、蜜月と言ってよい時間が流れていきます。

 それから三年後、医師として独立すべく、ついに雲平が帰郷します。夫と初めて顔を合わせる緊張と、「ついに」という期待に胸を高鳴らせる加恵は、雲平が足を洗えるようにと、沸かした湯に井戸水を混ぜたものを手桶に満たして、左手に空の盥(たらい)を持って玄関に駆けつけます。しかしここで、姑・於継の態度が急変します。

 だが雲平は於勝の渡した手拭で足を拭いて家の中に上ったところであった。手桶を下げている加恵に雲平は気がついた様子だったが、一緒に振返った於継は、

「ああ、もうよろしいわ、ご苦労さん」

 と笑いながら云い、雲平の背を押して奥へ行ってしまった。(中略)

 三和土(たたき)の上に取残された加恵は、俄(にわ)かに自分ひとりが除けものにされた思いに、しばらく茫然として佇んでいた。

 突然、いないもののように扱われた加恵は困惑します。同時に、それまでは夫という実感の薄かった雲平が、長年恋焦がれて待ち続けた男のように思えてくるのでした。すると、その恋路を邪魔する存在たる於継への猜疑心が、加恵の胸を満たしていきます。

 夕食を終え、於継がわざわざ雲平に告げた「今夜はひとりで、ゆっくりおやすみ」という言葉と、彼女の母親としての喜びのなかに滲むどこか淫らな調子が契機となり、加恵のなかで姑に対する憎悪のスイッチが入ります。

ただ加恵が新しく発見していたのは、盃事(さかずきごと)は済ましていても自分がこの家ではまだ他人であるという事実であった。直道と於継の間には雲平以下の子たちを儲けていて、夫婦以上の絆ができている。どの子も彼らの血縁であり、於勝や小陸たちは雲平と兄妹という血縁があった。加恵は、女が家に入ることの難かしさが、この断たれることのない血縁の壁の中に入ることの難かしさだということを初めて思い知らされたのであった。しかし加恵は絶望していなかった。それどころか、それまで一途に敬愛していた於継に闘志を湧き立たせていた。それは嫉妬という形で外に現われようとしていた。夫の母親は、妻には敵であった。独り占めを阻もうとする於継の無意識の行為もまた嫁に対する敵意に他ならなかった。

 華岡家の者たちと雲平との間には、家族として二十年余りの時間をともにした積み重ねがあります。それに対して新参者の加恵は、夫との関係性はゼロで、一から積み上げていくスタート地点に孤独に立ち尽くしているのです。しかし、負けるわけにはいきません。ここは、於継に対する加恵の思いが、敬愛から憎悪に転じた瞬間を描いた場面であるとともに、嫁いできた自分にはいかんともしがたい「血の繫がり」に対して、その外部に立たざるを得ない「嫁」からの宣戦布告が描かれていると言えるでしょう。

NHK「100分de名著」テキストでは、「嫁姑の静かなる激闘の日々」「嫁姑問題のメカニズム」といった内容で、『華岡青洲の妻』で描かれる女たちの心理戦を味わいます。テキストでは『華岡青洲の妻』、老いをテーマにした『恍惚の人』、人の幸せを描く『青い壺』に加え、「もう一冊の名著」コーナーで『女二人のニューギニア』を紹介し、希代のストーリーテラー・有吉佐和子の作品の魅力に迫ります。

講師

ソコロワ山下聖美(そころわやました・きよみ)
日本大学芸術学部教授
一九七二年埼玉県生まれ。文芸研究家。日本女子大学文学部を卒業後、日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。二〇一五年より現職。専門は宮沢賢治や、林芙美子など女性作家を中心とした日本近現代文学、日露文化交流を中心とした異文化交流。著書に『女脳文学特講』(三省堂)、『林芙美子とインドネシア 作品と研究』(編著、鳥影社)、『新書で入門 宮沢賢治のちから』(新潮新書)、『わたしの宮沢賢治 豊穣の人』(ソレイユ出版)、『別冊NHK100分de名著 集中講義 宮沢賢治 ほんとうの幸いを生きる』(NHK出版)などがある。
※刊行時の情報です

◆「NHK100分de名著 「有吉佐和子スペシャル」2024年12月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における有吉佐和子の著作からの引用は、以下の書籍に拠ります。第1回:『華岡青洲の妻』(新潮文庫、1970 年、2010 年改版)、第2 回・第3 回:『恍惚の人』(新潮文庫、1982年、2003年改版)、第4回:『青い壺』(文春文庫、2011年)

◆TOP画像:ogurisu/イメージマート
※写真のチョウセンアサガオは、華岡青洲が開発した麻酔薬「通仙散」の中心的な材料

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