建築家白井晟一を堪能【駅ぶら】06京王電鉄384 井の頭線15
※2024年1月撮影
トップ画像は「渋谷区立鍋島松濤公園」。剪定作業で湧水池の北側に行けなかったので公園外の道路から撮った1枚。
公園の北東角に渋谷区の「松濤二丁目10番」の標識があります。
※2024年1月撮影
「松濤駒場ギャラリー散歩」という案内図が付いていました。
※2024年1月撮影
赤い丸が現在位置。上の緑のラインはこれからむかう「渋谷区立松濤美術館」、左には2015年(平成27年)に閉じられた「観世能楽堂」が出ています。少し前の標識ですね。
この道を東に100メートルほどで黄色い丸、亡父が好きだったフレンチの食堂です。何度か家族で食事をしましたが、実家のすぐ近くにも美味しいフレンチがあるので父は晩年、近所の「てらこや」に通っていました。
余談です。黄色丸の食堂の作曲家ロッシーニが考案したトリュフたっぷりのステーキは、かなり贅沢ですが、一度食べる価値がありました。・・・と言うのは、昔と違って今はコースしか予約できない様です。これが入るとコースは4万円くらいになっちゃうし・・・。
現実に戻って「鍋島松濤公園」を出ます。
※2024年1月撮影
渋谷区立の公園から「渋谷区立松濤美術館」と区立施設のハシゴです。
※2024年1月撮影
これが筆者の大好きな建築家「白井晟一」さんのデザインで1981年(昭和56年)にオープンした「渋谷区立松濤美術館」です。美術館のサイトに「白井晟一」さんが紹介されています。
※2024年1月撮影
写真は2021年(令和3年)11月に展示会を観に来た時の写真。
※2021年11月撮影
いかにも「白井晟一」デザインらしいエントランス。
※2021年11月撮影
筆者は、「林芙美子」さんの『滞欧記』(※)『巴里日記』等で林女史の恋人と目された「白井晟一」氏を知りました。亡父は建築家、書架には建築家に関する書籍が多くありました。筆者は「白井晟一」に関するものを何冊も読みました。
※「欧」の字は旧字
また1990年代に筆者は「飯倉」交差点にある「白井晟一」デザインの「ノアビル」隣のビルに職場がありました。毎日「ノアビル」の不思議なテクスチュアやディテールに見とれていました。これが「白井晟一」デザインにリアルに接した最初の経験でした。
「渋谷区立松濤美術館」をデザインした「白井晟一」氏を俎上に上げた美術館開館40周年記念「白井晟一入門」展示会を観に行った時の写真です。
※2021年11月撮影
その時に購入した「渋谷区立松濤美術館」編のカタログとポストカード。「白井晟一」さんは書家としても魅力的です。
※2021年11月撮影
実際に2024年(令和6年)1月に行った時は「「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容」が開催されていました。
※2024年11月撮影
フィルムが貴重だった時代、写真は構図やタイミングが出発点で生命でした。敢えてそれらを嘲弄することで「前衛」となった写真の時代があったのです。
しかし、携帯電話/スマホの爆発的な普及で、誰もが無造作に写真を大量に写し、かつ大量に流布させている現在、この展示会は図らずも「写真」の意味論となっている様に感じました。
次回は「神泉駅」から「駒場東大前駅」にむかいます。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)