旱魃・洪水から志和を救う 生涯を通して治水事業に携った黒川三郎左衛門の人生【東広島史】
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:吉本正就
志和盆地を潤した小野(この)池築造・治水事業 東志和村庄屋 黒川(河)三郎左衛門
志和町史では政治家として紹介
志和町史には黒川三郎左衛門を政治家として紹介している。ここにその一部を記す。
黒川三郎左衛門吉則は享保8(1723)年志和東村長松河屋家で生まれた。幼名を彦六といい、つとに村利民福を計るを自分の使命と考え幾多の功労をたて、しばしばに賞を受けた。
文化2(1805)年5月3日82歳で卒した。その功労を挙げてみる。
一、明和2(1765)年別府村小野原池を築造して旱損(かんそん)地に多大の便利を与えた。付近の住民今尚其の徳を仰ぎ毎年追弔法会を営み、特に旱魃(かんばつ)に際しては米や金を醵出(きょしゅつ)し、黒川家の仏壇に具え礼拝して帰るを常としていた。藩庁からその功を賞せられ米十俵を賜わった。
一、安芸郡温品村川筋の田地に砂がはまり稲の作付けができなくなったので、公儀から救済するようにとの命を受け、種々(いろいろ)工夫して稲の耕作ができる田地とした。
一、群辻用村等力を尽くして社倉法を設けた。これ等抜群の行為に対し褒美として鳥目百疋(ひき)、二百疋、二貫文と度々下付された。
一、志和堀村有谷池、東志和村長松小十池を築造し、水路を設けて農耕を盛んにした。
一、その他溜池(ためいけ)水路等氏の計画によるものはすこぶる多かった。
【小野池の碧水】
黒川三郎左衛門が明和2(1765)年に「小野が原池」築造してから260年経ち、現在は写真のごとく周りの山々を湖面に映し、明和の池は碧水(へきすい)の底になっているが、見事な風景と静けさを保っている。
【小野池のドローン空撮】
200の土揠堤(えんてい)・堤長で現在の小野池は志和町の水がめとして利用されている。池の右側にある道は古来の年貢道、狩留家方面に向かう吉舎街道(狩留家から三次・吉舎まで続く)である。
黒川(河)三郎左衛門の履歴
心情を村利民福とした人生で、82年の生涯を通して各地の治水事業に関する設計・施設に携わる。 人間が生きていくためには水が大事であることを考え続けたのだろう。そしてその功績は計りしれない民に幸せをもたらしたのである。今なおその恩恵に感謝し続けている。
三郎左衛門は地元東志和の光源寺の境内墓地で行く末を見守っている。
西志和村大字別府 郷土誌所載の原文
地元の住民が三郎左衛門に感謝の意を表わしたことがわかる。
『小野か原池は新庄平山北麓の渓谷にありて大中小の3個あり。大は1町9反2畝(せ)6歩(外に2反3畝19歩堤防)、中は1町4畝26歩(外に1反2畝23歩堤防)、小は5反4畝16歩(外に9畝19歩堤防)にしてこの灌漑(かんがい)耕地約90町歩あり云々(うんぬん)。
斯(かか)る民福を計画したるものは抑々誰なるか、伝云(い)う。今を去る事百有余年前志和東村の住人に黒川三郎左衛門という人あり。
新庄平山は此の付近第一の赭山(あかつちやま)にして水源に乏しく頻年旱害(かんがい)に罹(かかる)を憂え独り自ら実地を蹈査(とうさ)し或いは生城山より水準を測り苦辛経営遂に羊膓(ようちょう)たる溝梁を山腹に穿(うが)ち深く谷に入り又丘に出て東に繞(めぐ)りて更に西南に迂廻(うかい)し山麓一体の耕地に灌漑の便を与えたりと、農家其の恩沢(おんたく)に頼り旱害を免れる。人々其恩徳を仰ぎ今に至るまで年々追弔を営み花香を供す。
安芸郡府中村大須新開の河流堤防も亦(また)本人の計画に関するものなりと云う。』
同人の石碑は貞岡八幡社の上丘溝梁の側にあり。
報徳碑に刻まれる治水工事の様子
碑文には用水路工事の様子が刻まれている。
【黒河三郎左衛門の報徳碑文】
此郷水乏而常為早損之患矣
干時黒河三郎左衛門吉則君
平高岸埋深谷山之半腸穿石
鑿溝数里鹿而作陂終除此患也
郷中慶賞常慕其功烈勲労矣
享年八十有二以文化二年五月
三日卒我輩哀悼靡所寘其念永
伝子孫為令知其恩刻石記功
庄屋 太良右衛門
同役 吟兵衛
組頭 増右衛門
茲願主 上別府郷中
碑文中央の、平高岸~此患也の部分は、「切り立った崖を削ってならし深い谷を埋め、山腹の岩に穴を開けて数理に達する溝を通したことで、患(干ばつ)が除かれた」という意味であり、まさに、この用水路の特徴をよく表している。なお、この碑の土台にも文字が彫られており、三郎左衛門の遺徳に感謝するため、昭和13(1938)年4月に土台を改築したと刻まれている。(※参考文献 東広島地歴ウオーク・広島大学 熊原康博・岩佐佳哉)
まとめ
志和町の歴史をさかのぼると大旱魃と洪水を繰り返している。稲作農家しかない生活では困窮を極めた家族は農作をあきらめ、海外へ出た人も少なくない。その状況を改善したのが260年前の三郎左衛門の「小野が原池」である。
小野池の治水で農作が解消されたのは25(50)年、拡張工事完成の11月からである。これは全て小野池の治水事業のたまもので、言うならば三郎左衛門の「小野が原池」、「用水路」である。
特に別府地区の住民は江戸時代に三郎左衛門の報徳碑を建立し、手厚く追弔法会(ほうえ)を行ったとある。今日までその恩を忘れてはいない。
「藝藩通志」の別府村の絵図
この絵図に描かれているのは三つの池、「小野が原池」、「新池」、「大池」と池からの用水路が見て取れる。明和2(1765)年に三郎左衛門が築造した「小野が原池」から伊能忠敬がこの地区を測量した文化10(1813)年に二つの池とあるので寛政2(1790)年頃新池が築造され、大池は文政2(1819)年前に築造されたと考えられる。
伊能忠敬の測量
伊能忠敬は、文化10(1813)年11月10日、この吉舎街道の測量に志和を訪れている。以前の測量を含めると志和に2回訪れている。
プレスネット編集部