育休中「できること」を探しているあなたへ。もし何もできなくても、大丈夫|清繭子
「時間を有効に使うため、資格の勉強をしよう」「育児日記をつけたり、一緒に出かけたり、子どもとの時間を有意義に過ごしたい」など、育休を迎える前にさまざまな計画を立てる方は多いと思います。
しかし「理想」と「現実」がうまく噛み合わないこともあります。エッセイスト、ライターとして活動しながら二人の子どもを育てている清繭子さんは会社員時代、第一子の育休中に「育児に追われてなにもできない自分」にショックや焦りを感じた経験があるそう。
もしかしたら同じような苦しみを抱くかもしれない「あなた」へ向けて「大丈夫」を贈るエッセイです。
あれもこれもやるはずだった、育休中
出版社で編集者として働きながら、ひそかに小説家を目指していた私は、妊娠が分かった時「やった! これで会社を休める。小説が書ける!」と思った。あの賞とあの賞に応募しよう、と年間の応募スケジュールを立てるくらい、やる気に満ちあふれていた。
ずっと子どもが欲しかったので、赤ちゃんとの生活も楽しみでしようがなかった。
大量の書き込み欄がある分厚い育児日記を購入し、子ども服やおもちゃを手作りするつもりでかわいい布を集め、ソーイングブックを買い、子ども部屋の壁紙を夜な夜な検索し、Instagramで見るようなキラキラした育児ライフを送るつもりだった。
その時はまだ、育休を「赤ちゃんと過ごす幸せなロングバケーション」だと思っていた。今なら分かる。それは大いなる勘違いであった……。
現実は、友達のSNSを眺めて「今日も何もできなかった」
子どもが産まれてみれば、育児日記を書いたのは最初の数ページだけ。かわいい布はほこりをかぶり、何も貼ってない壁をぼうっと見つめながらボロボロの体で乳をやっていた。小説なんて一文字も書いていない。書こうとすら思わない。
妊娠中に超絶悪化した痔と、出産時に裂けた会陰(えいん)の傷によって、座るのもつらいのに、授乳の間じゅう、ずっと同じ姿勢でいなければいけない。これってなんの拷問?
それに加えて、寝ない、ミルク飲まない、泣き止まない、うんちが出ない……と次から次へと育児の悩みが襲う。ひとつ解決してもまたひとつ新たな悩みが無限に発生する。寝不足もあいまって、涙が止まらなくなり、産後うつ状態に陥った時期もあった。
「赤ちゃんと過ごす幸せなロングバケーション」だなんて、いったいどこのどいつが言ったんだ!(それはキミ)
育休前、男友達に「仕事休めて手当ももらえるんでしょ、いいよなあ」と言われたことも思い出して、ムカムカしてきた。自分もその時はそう思ってたのに。
育休は休みじゃない! タスクが仕事から育児に変わっただけ。しかもそのタスクは満身創痍の体で24時間取り組まないといけない。そんなこと、聞いてない!
それでも少しずつ育児に慣れ、産後の傷も回復すると今度は、日に日に成長する子どもと比べて何も進化していない自分を責めるようになった。
SNSでは毎日のように誰かが、留学したり、昇進したり、それぞれのキャリアを積んでいるのに、私は小説を書くどころか、本を読むことすらできない。今日したことは、子どもを公園に連れていったことくらい。夫が帰ってくるまで、誰とも会話しない日もあった。テレビのニュースでは、私より若い人が、芥川賞を獲っていた。
長い人生、「何もできない時間」があってもいい
そんなとき、以前から仕事仲間だった小説家の窪美澄さんが高級焼肉弁当を持って出産祝いに来てくれた。私は思い切ってこの焦りを打ち明けた。
「この子に比べて、私は何も進化してないって思うんです。今までずっと、私は何をやってきたんだろうって」
すると美澄さんは、こう言った。
「私も子どもが生まれたあとの十年くらいの文化史がすっぽり抜け落ちているよ。映画も本もなんにも記憶にないし、身に付いてもいないよ。そんなもんだよ。それでも大丈夫だよ」
子どもを育てながらライターとして働き、その子が中学生の時に小説家デビューした美澄さんが言うのだから、その「大丈夫だよ」は真実だった。その時すでに美澄さんは山本周五郎賞と山田風太郎賞に輝いていた。
美澄さんの言葉は、かつて大学の担当教授に言われた言葉も思い出させてくれた。就活がうまくいかず「このままでは就職浪人するかも。人生終わった」と泣きついたら、「その分長生きしたらいいじゃない」と言ってくれたのだ。70歳を超えて、なお学問の道を探究し、子どものような笑顔でそれを披露する教授の言葉もまた、本物だった。
人生100年と言われる時代。その中の数年、頑張れない時期があったっていいんじゃないか。何もできない時期があってもいいんじゃないか。やっとこの自分を認めることができた。
「何もできない」育休中、私がしていたこと
そもそも本当に私は「何もできなかった」んだろうか。
次々と降りかかる育児の悩みを解消したくて、両親学級や子育てサロン、児童館に通いつめ、行政のありがたみを知った。
よく、子育て中は社会から疎外されたように感じるというけれど、私は逆に独身時代より社会への関心が高まり、我が子の未来を思い、自分が社会の一員であることに責任も感じるようになった。住んでいる地域によって、受けられる行政支援がちがうなんて、独身時代は気づきもしなかった。
ママ友を作ることができたのも大きな「功績」だ。
「ママ友」は、同じ年に同じ町で子どもを産んだというだけで、職業も年齢も価値観もまったく違う。会社では決して知り合えない人たちだ。近所に友達がいるというのはとても心強い。家族全員が感染症でダウンしたら、わが家のドアの前に大量の差し入れを置いてくれる。ストレスが溜まると「明日、朝カラ(朝のカラオケ)行かない?」と誘い合う。そんな〈近所の友達〉が、この歳になってできるなんて。
自分とは違う生き方をしてきたママ友たちに触発され、歩いた、しゃべった、と日々成長するわが子に刺激され、自分のライフプランを真剣に考えるようにもなった。数年後、私は小説家を目指すため、会社を辞めたけれど、この育休中にじっくり考えたことが、決断の勇気につながったと思う。
そして何より、子どもと一日中、いっしょにいられた。そのことが心身ともにつらいときもあったけれど、同じくらい幸せも感じていた。
子どもは、私に世界の美しさを教えてくれた。
バス停であやしてくれたおばあさん、公園へ行く道に香る金木犀、日向ぼっこする子どもの背中の温かさ、帰り道の桃色の夕焼け……。
会社と家の往復だった頃には見過ごしていたものを、子どもの歩調に合わせてゆっくり歩くうちに、キャッチできるようになっていた。それは、どんな名著にも引けを取らない豊かなインプットだった。
私は決して「何もできてない」わけではなかった。育休の間、仕事以外の世界と出会い、そこでちゃんと生きていた。
あの頃の私へ「大丈夫だよ」を
あの時、子どもの食べこぼしとおもちゃで散らかった部屋で、自分はダメだと責め続けた私に、「大丈夫だよ」と言ってやりたい。
部屋がぐちゃぐちゃでも、子どもが離乳食を食べなくても、他の子より寝返りうつのが遅くても、久しぶりに会った会社の人の話題についていけなくっても、小説を完成させられず応募期限に間に合わなくても、読むつもりだった本を開くことさえできなくっても、大丈夫だよ。
3298gで生まれた子どもは、育休が終わる頃には9280gになった。51.3㎝の身長は、77.2㎝まで伸びた。
それが私のやったこと。
大丈夫だよ。あなたは、ちゃんとやっていた。
育休は「赤ちゃんと過ごす幸せなロングバケーション」ではなかったけれど、私の人生の中でとても豊かな時間だった。
編集:はてな編集部
著者:清 繭子
エッセイスト。1982年生まれ、大阪府出身。出版社で編集者として働いたのち、小説家を目指してフリーのエディター、ライターに。子どもを育てながら夢に向かって奮闘する日々を綴ったnoteが編集者の目に留まり、エッセイ集『夢みるかかとにご飯つぶ』(幻冬舎)でデビュー。
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