【富士山静岡交響楽団の宮澤敏夫専務理事「お別れの会」】 コントラバス奏者としての心得
静岡新聞論説委員がお届けするアート&カルチャーに関するコラム。今回は、2月6日に静岡市清水区の静岡市清水文化会館マリナートで開かれた富士山静岡交響楽団の宮澤敏夫専務理事の「お別れの会」を題材に。
2025年1月1日 に81歳で亡くなった富士山静岡交響楽団の宮澤敏夫専務理事の〝音楽葬〟。武蔵野音楽大卒業後の1966年に大阪フィルハーモニー交響楽団に入って以降、演奏者、運営者として長く日本の音楽界に貢献した宮澤さんをオーケストラ演奏で追悼した。
式中はベートーベンの交響曲第3番「英雄」から第2楽章「葬送行進曲」。ふわりとした寝具を思わせる低く、柔らかな弦の重なりの上で、木管がもの悲しい旋律を奏でた。
参列者約250人が順に献花する時間も生演奏が続き、バッハの「G線上のアリア」で締めくくった。慎重に足踏みをするようなコントラバスとチェロの音が、天上へ歩を進める故人の姿を浮かび上がらせた。
ホールのロビーには在りし日の写真が飾られた。演奏仲間との数葉の中に、眼光鋭い白人男性が。ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の首席奏者だったルートヴィヒ・シュトライヒャー教授である。
コントラバス奏者だった宮澤さんにとって、シュトライヒャー氏は「師匠」と言える存在。2024年4~6月に宮澤さんに執筆してもらった静岡新聞連載コラム「窓辺」のエピソードを思い出した。
この楽器の役割は大きく、音楽を支える根音を常に演奏しています。ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の首席奏者だった私の先生、ルートヴィヒ・シュトライヒャーさんからは「われわれこそ一番の音楽家でなければならない」とコントラバス奏者の心得を教え込まれました。(2024年5月15日付「窓辺」の一部)
1978年のオーストリア留学で教えられた「音楽を支える」という心得は、運営者に転じた後の宮澤さんの行動原理でもあっただろう。常に音楽、文化の振興を口にした、真の「文化人」だった。
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