【中国三大悪女】唯一の女帝・武則天が行った「恐ろしすぎる刑罰」とは
武則天とは
武則天(ぶそくてん)は、中国史上唯一の女性皇帝である。
日本では「則天武后(そくてんぶこう)」という呼び名で知られているが、中国では「武則天」という名が一般的である。
呂后(りょこう)や西太后(せいたいこう)と並び、「中国三大悪女」として語られることも多い。
6世紀から7世紀にかけて、男性優位の社会で女性として初めて皇帝の座に就いたその存在は、4000年に及ぶ中国の歴史においても特異なものだ。
武照(武則天の本名)は、幼い頃から高度な教育を受け、その類いまれな美貌と聡明さで注目され、唐の太宗の後宮に入り、宮廷内での地位を確立していった。
太宗の崩御後、彼女は一度宮廷を離れて出家生活を送ったが、のちに太宗の第9子・高宗に見初められ、宮廷に復帰。
皇后となると、病弱だった高宗に代わり、政治の実権を握るようになった。
高宗の崩御後、武則天は皇太后として唐の実権を掌握するだけでなく、690年には唐王朝を一時的に廃して武周王朝を建国し、自ら「聖神皇帝」を称した。
その治世においては画期的な改革を進める一方で、激しい粛清も行い、恐怖政治を展開したことでも知られている。
今回は、そんな彼女が行っていたという恐ろしい刑罰の逸話をいくつか紹介しよう。
鳳凰曬翅(ほうおうさいし)
鳳凰曬翅(ほうおうさいし)とは、直訳すれば「鳳凰がその羽根を広げて羽根を天日干ししている」という意味である。
だが実際は、そんな美しく生易しいものではない。
この刑罰では、まず受刑者が十字架に縛り付けられる。足元は固定されて動けないようにされる一方で、十字架の上部が回転する仕組みになっている。
つまり、刑が始まると受刑者の上半身だけが回転するように動かされるのだ。
異なる方向に捻じられることで、体には大きな負荷がかかる。
やがて耐えきれない痛みが全身を襲い、最終的には切断されてしまうのだ。
旱鴨鳧水(かんおうふすい)
旱鴨鳧水(かんおうふすい)は、中国の故事成語で、「泳ぎが苦手な者が、必死にもがきながら泳ごうとする様子」を表している。
旱鴨(かんおう)は「干上がった場所にいるアヒル」を指し、転じて泳ぎが不得意なアヒルのことを指す。
この成語は、通常は「不慣れなことにも懸命に取り組む姿」を評価するために用いられる。
しかし、刑罰としての旱鴨鳧水は恐ろしいものである。
まず受刑者の足裏に、刃物で複数の切り傷を入れる。そして、その傷口になんと塩を塗り込むのである。
当然、受刑者はもがき苦しむ。
これを見た人々が、その様子を「泳げないアヒルが必死に水中で足掻く姿」にたとえ、「旱鴨鳧水」という名が付けられたという。
骨醉(こつすい)
骨醉(こつすい)とは、本来、中国の伝統的な表現で「骨の髄まで深く感動する」というポジティブなニュアンスを持つ言葉だ。
だが刑罰となると、恐怖に満ちたものとなる。
骨醉は、まず受刑者を徹底的に叩き、肉が剥がれるほどの拷問を加えることから始まる。次に、手足を切断する。
この段階で受刑者の命は風前の灯であるが、苦痛はさらに続くのだ。
その後、大量の酒を満たした壺の中に受刑者を投げ込む。アルコールが傷口に染み渡り、初めは激しい痛みを伴うが、次第に麻酔効果をもたらし、感覚が麻痺していくという。
この酒による「治癒」と「延命」の効果が、受刑者の苦しみをさらに長引かせることとなる。こうして数日間にわたり痛みと恐怖の中で生きながらえさせた後、最終的に命を絶つという恐ろしい刑罰なのだ。
この最も恐ろしい刑罰に関しては『旧唐書』や『新唐書』『資治通鑑』にも記述がある。
武則天の政敵であった高宗の側室・蕭淑妃(しょうしゅくひ)と王皇后が、この恐ろしい刑罰によって処刑されている。
武後知之,令人杖庶人及蕭氏各一百,截去手足,投於酒甕中,曰:「令此二嫗骨醉!」數日而卒。
『旧唐書』巻76「后妃伝」武后聞之,大怒,遣人杖王氏及蕭氏各一百,斷去手足,捉酒甕中,曰:『令二嫗骨醉!』數日而死,又斬之。
『資治通鑑 卷二百』意訳 :
武則天は、蕭淑妃と王皇后をそれぞれ100回杖で打ち、手足を切断し、酒甕に投げ入れて「骨まで酔わせよ!」と命じた。その後、二人は数日後に死亡した。
武則天の悪名
武則天の冷酷さは、後世においても語り継がれる象徴的な一面である。
しかし、前述したように史料に基づくものもある一方で、必ずしも全てが事実であるとも言い切れないという。
武則天にまつわる多くの逸話には、後世の脚色や誇張が含まれている可能性が高いことも指摘されている。
彼女は中国史上唯一の女性皇帝であり、批判の対象となることも多かった。歴史を記録する者が武則天のような女性指導者を否定的に描いたとしても不思議ではない。
一方で、彼女の治世は比較的女性が表舞台に立つ自由があった時代だとも言われている。彼女の死後、女性の地位が徐々に低下し、やがて纏足(てんそく)という習俗が広まり、女性にとって抑圧的な時代が訪れることとなる。
武則天が成し遂げた功績と、その冷酷さが入り混じる評価は、男性中心の社会で唯一皇帝となった彼女への評価の複雑さを反映しているのかもしれない。
参考 : 『旧唐書(舊唐書)』『新唐書』『資治通鑑卷二百』他
文 / 草の実堂編集部