子どもと一緒に涙…「産後うつかも?」を乗り越えるまで
現在7歳の娘と5歳の息子を育てている福岡県に住むママライター、石川です。結婚から4年後の33歳で待望の第一子、36歳で第二子を出産しました。妊活やつわりを乗り越えて生まれてきてくれた我が子との時間はとてもいとおしく、自分が産後うつのような経験をするとは思ってもみませんでした。そんな私の体験をお話します。
妊娠初期から切迫… 難産を乗り越え、待望の対面!
初めての妊娠は33歳の時。夫の転勤で地元を離れ、働きながらの妊娠だったため、不安でした。そのせいか、妊娠初期から切迫気味で自宅安静を強いられることに…。
その後、仕事を辞め、安定期に入ってからも低置胎盤や子宮頸管の短さが原因で、臨月まで安静生活が続きました。
安静に過ごした甲斐あってか、無事に出産できましたが、産後すぐに娘が新生児黄疸の診断を受け、NICU(新生児集中治療室)で光線治療を受けることになりました。さらに、入院中に娘に無呼吸発作が起こったため、しばらく娘だけ入院することになりました。
母乳の出が悪かった私は、おっぱいマッサージを受けながら搾乳して、毎日病院へ母乳を届けていました。ホルモンバランスも崩れて心はボロボロ。「ちゃんと産んであげられなかった」と自分を責め続け、「早く我が子を抱っこしたい!」と泣いてばかりいました。
もしかして、産後うつ?
産後2週間が経ち、経過に問題がなかったので、娘は退院できることになりました。しかし、その後の待ち望んでいたはずの我が子との生活は、慣れない母乳育児や睡眠不足との戦いでした。
入院中に哺乳瓶でミルクを飲むことに慣れていた娘は、なかなかおっぱいを飲んでくれませんでした。それにもかかわらず、病院からも親戚からも「母乳で育てた方がいい」と洗脳のように言われ続け、追い詰められたような気持ちになりました。
私の場合はおっぱいが詰まりやすかったため、夜、娘が寝てからマッサージをしていましたが、そうするうちに朝が来ることも。また、気づいたら次の授乳時間になっていることも多く、一日が授乳のための時間ばかりになっていました。
さらに、退院時には「問題ない」と言われていた娘の無呼吸発作が気になり、娘が寝ている間に何度も呼吸を確認する日々を一年近く続けていました。今思えば、この時はすでに「産後うつ」の状態だったのかも知れません。
もう一人子どもがほしい! 娘が「お姉ちゃん」に
娘が1歳半になった頃、もう一人子どもがほしいと思うようになりました。妊娠、出産、産後とずっと大変な思いをしてきたはずなのに、自分でもその発想に驚きますが、それだけ我が子がいとおしかったのです。
娘を育てながらの二人目妊娠は、臨月まで吐きづわりが続きました。
その後、無事に第2子である息子が誕生し、産後すぐは気持ちの余裕もありました。しかし、退院後に長女の“赤ちゃんがえり”と“イヤイヤ期”がダブルでやってきたのです。
生まれたばかりの弟に対する娘の嫉妬がものすごく、授乳もまともにできませんでした。日中は息子が寝ている間に娘の相手をしていましたが、夜になって寝ようとすると息子の起床と重なり、息子が泣くと娘も泣いて起きてくるという悪循環に…。
眠れない日々が続き、子ども二人と一緒に私も涙を流していた時、初めて「産後うつかも知れない」と感じました。
長いトンネルの先に見えた光
二人の育児が落ち着くまでは、出口の見えないトンネルの中にいるような気持ちでした。「娘がお姉ちゃんになるのは、まだ早かったのかも知れない」と何度も思いました。
それでも育児は待ってくれません。夫や友人の力を借りたり、地域の方のアドバイスをもらったりしながら日々子どもと向き合い、毎日を一生懸命に過ごしました。
いつしか弟のお世話を手伝ってくれるまで成長した娘の姿を見て、息子が生まれる前よりも、自分がもっと幸せな気持ちになっていることにふと気が付きました。ようやく、長いトンネルを抜けられたのです。
妊娠、出産、育児は本当に大変なことだと思います。私は里帰り出産をして、産後に両親や親戚の力を借りることができたため、少し心の余裕があったかもしれません。帰宅後は、近所の子育て支援センターでママ友を作るようにしたり、区役所の育児相談に行ったりしました。人との繋がりを持つことで、少しずつ気持ちが楽になれた気がします。これからも育児で悩むことがたくさんあると思いますが、笑顔で乗り越えていけるよう、無理せずに頑張ります。
[石川*プロフィール]
福岡県在住。7歳の娘と5歳の息子を持つ主婦。買い物と旅行が大好きです。今年は家族で沖縄旅行へ行くのが目標。娘が最近オシャレに興味を持ち始め、一緒に買い物へ行くことがとても楽しみになっています。
※この記事は個人の体験記です。記事に掲載の画像はイメージです。