【秀吉の朝鮮出兵】 文禄・慶長の役 ~藤堂高虎の視点から見る
豊臣秀吉は天下統一を果たした後、朝鮮半島から大陸に領地を広げようと朝鮮出兵を行った。
この戦いは外国での出来事であり、大河ドラマなどでほとんど描かれないため、一般的には詳しく知られていない。
しかし、日本の戦国大名の多くが朝鮮で戦い、活躍したという事実は変わらない。
今回は、水軍として活躍した藤堂高虎の視点から解説したい。
二度にわたる朝鮮出兵と高虎の水軍
秀吉の朝鮮出兵は二度にわたって行われた。
文禄の役(1592年〜1593年)と、慶長の役(1597年〜1598年)である。
日本で天下統一を果たして明の征服を目指した秀吉は、まずは当時、明の属国であった朝鮮から攻め入った(文禄の役)。そして一旦は和睦しようとするが交渉が決裂し、再び朝鮮半島に攻め入った。(慶長の役)
藤堂高虎が長年仕えた主君、豊臣秀長(ひでなが、秀吉の弟、朝鮮出兵には反対していたと伝わる)は、文禄の役の前年に亡くなっていた。
高虎は、秀長の養子である秀保(ひでやす、14歳)に仕え、彼の代理として朝鮮に出兵することになる。37歳であった。
高虎が率いたのは紀伊の海賊衆、つまり「熊野水軍」である。
水軍を率いての戦いは、人生で初めての事だった。
釜山海戦 「朝鮮の英雄・李舜臣を撃退」
藤堂高虎が朝鮮半島に渡った正確な日付は不明である。しかし、最初から参戦していたわけではないようだ。
初戦である玉浦(ぎょくほ)海戦に参戦していたという説もあるが、そのような史料は存在していない。
最初に渡海したのは九鬼嘉隆(くきよしたか)、脇坂安治(わきざかやすはる)、加藤嘉明(かとうよしあき)といった武将たちであり、彼らは朝鮮の名将・李舜臣(りしゅんしん)と対峙した。
李舜臣は日本の武将たちと戦い、戦果を挙げたことで今も英雄として讃えられている。
日本軍は水軍と陸軍に分かれており、陸軍の加藤清正や小西行長が朝鮮半島を順調に北上する中、水軍が李舜臣に苦戦する状況は、秀吉にとって大きな懸念であった。
高虎に秀吉からの朱印状が与えられたのは7月16日であり、これにより高虎は水軍の総大将として出陣することとなった。
水軍指揮は初めてであったが、秀吉は高虎に大きな期待を寄せていたようだ。
文禄1年8月29日(1592年10月4日)、釜山(ぷさん)海戦が始まった。李舜臣が勝利すれば日本軍は補給路が断たれ、陸軍の撤退路も失われるという絶対に負けられない戦いであった。
この海戦は特異なもので、日本軍は陸地に船を繋ぎ、そのまま動かずに李舜臣の猛攻に耐え抜いた。さらに、繋いだ船の砲台をそのまま利用して、陸上から砲撃を行ったのである。陸vs海の構図にしたのだ。
李舜臣は夜襲も試みたが、最終的には撤退を余儀なくされた。
この戦いの功績により、高虎は伊予宇和島七万石を与えられている。
漆川梁海戦 「朝鮮軍相手に大勝」
文禄の役から約2年後の文禄4年(1595年)4月16日、高虎の主君・秀保(ひでやす)が急死した。享年17。
高虎は一度は出家するも、秀吉に呼び戻され、直臣として再び武士の世界で活躍することになる。
その頃、日本と明の和睦交渉が決裂し、再び朝鮮出兵が行われることとなった。これが慶長の役である。
高虎は42歳で、今回は瀬戸内海賊の伝統を引く「伊予水軍」を伴っての出兵であった。
慶長2年7月15日(1597年8月27日)、漆川梁(しっせんりょう)海戦が始まる。
朝鮮国の指揮官は元均(げんきん)であり、彼は李舜臣の代理であった。
李舜臣は先の釜山海戦に敗れたこと、再度の釜山への出兵を拒否したことなどが原因で更迭されており、元均もいやいや出兵していたようだ。
それほど釜山付近での海戦は、難しいと思われていたのである。
漆川梁海戦は、朝鮮側にとっては不運の連続であった。
まず李舜臣がいないこと、海が荒れていたこと、動きが日本軍に筒抜けであったこと、そして内海である漆川梁という場所に停泊してしまったことである。この漆川梁は細長い内海のため、両端から攻められれば袋の鼠になってしまうような場所だったのである。
高虎率いる日本水軍は、漆川梁の両端から朝鮮軍を取り囲んで攻撃した。朝鮮軍は慌てて海に飛び込んで陸に逃げる者もいたが、そこには島津義弘率いる薩摩兵が待ち構えていた。
海からも陸からも攻められた朝鮮軍はなすすべがなく、敵前逃亡した大型船12隻を除いて全滅した。海を真っ赤に染めたというこの海戦は、日本の大勝となったのである。
鳴梁海戦 「復帰した英雄・李舜臣との再戦」
漆川梁海戦から二ヶ月後、李舜臣が更迭を解かれ、先の戦で敵前逃亡した朝鮮軍の12隻を率いて、再び高虎と対決することとなった。
これが、鳴梁(めいりょう)海戦である。
鳴梁は非常に複雑な潮流を持つ難所であり、地の利は完全に朝鮮軍が握っていた。ここで日本軍は大苦戦を強いられた。
味方武将である来島通総(くるしま みちふさ)は、村上水軍出身の海戦におけるプロであったが、先鋒として突撃したものの、潮流などの地の利を生かした朝鮮水軍の板屋船の攻撃を受け、戦死している。
高虎自身も手傷を負い、李舜臣の強さが改めて証明された瞬間であった。
しかし次の日、朝鮮水軍は姿を消した。李舜臣が撤退したのである。
日本軍はここで深追いすることもできたが、しなかった。これは陸軍が北上を止めたため、それに合わせたと考えられる。
翌年5月、高虎は秀吉の命令で一旦帰国することとなった。李舜臣はその三ヶ月後、薩摩軍相手の露梁海戦(ろりょうかいせん)で戦死している。
おわりに
朝鮮出兵は秀吉の死去により終戦し、日本軍は撤退することとなった。その撤退の総指揮を執ったのも藤堂高虎であり、徳川家康の推薦があったとも伝えられている。
高虎は終始、日本の水軍の大将として活躍していたようだ。しかし、水軍の指揮経験がなかった高虎がなぜそのような役割を果たせたのだろうか。それは彼の臨機応変に対応できる柔軟さによるものかもしれない。
藤堂高虎と言えば「築城名人」として、また主君を七度変えた「転職大名」として有名だが、その戦闘能力ももっと高く評価されるべきだろう。
参考文献:歴史街道2017年7月号、戦国人物伝 藤堂高虎
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