【ローマ史上最も美しく狂っていた皇帝】ヘリオガバルスは本当に「暴君」だったのか?
皆さんは『ヘリオガバルスの薔薇』という絵画を見たことがあるだろうか。
この絵画は、ヘリオガバルスという人間の、人物像を象徴する逸話の光景を描いた名画である。
ヘリオガバルスとは、ローマ帝国第23代皇帝、セウェルス朝第3代皇帝だった人物であり、幼少時の名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス、後の本名はマルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスという。
ヘリオガバルス(またはエラガバルスとも)という通称は、彼がアラブ・ローマの太陽神エル・ガバル(山の神の意)という神を信仰していたことに由来している。
ヘリオガバルスの知名度は、全77名の歴代ローマ皇帝の中でも悪い意味で高く、さらに異質である。
何せ彼は、ある意味ではかの有名な暴君ネロや、カリギュラを超越するほどの、破天荒かつ奇抜な君主であったと評されることもあるのだ。
そんな奇抜な皇帝だったヘリオガバルスは、わずか18歳で市民たちによって広場で無残にもなぶり殺しにされてしまう。
今回は、美貌の皇帝かつ「史上最狂の暴君」とも呼ばれるヘリオガバルスについて解説していこう。
14歳で即位した美貌の少年皇帝
ヘリオガバルスは、元老院議員の父と、その妻であるユリア・ソエミアスの子として、西暦203年3月20日にシリアのエメサという町で生まれた。
ユリア・ソエミアスの母で、ヘリオガバルスの母方の祖母であるユリア・マエサは、エメサの町の大祭司ユリウス・バッシアヌスの娘で、セウェルス朝の開祖であるセプティミウス・セウェルスの皇妃ユリア・ドムナの姉でもあった。
つまりヘリオガバルスは、ローマ帝国第20代皇帝のセウェルス帝の大甥にあたる人物である。
ヘリオガバルスは幼少時から容姿に恵まれており「女に生まれていれば、ローマ随一の美少女になっていた」と人々に言わしめるほどの美貌を誇る少年だった。
彼は当初、母方の家系の生業である神官になるべくして育てられていたといわれる。
211年にセウェルス帝が没した後、皇位はセウェルス帝の嫡男であったカラカラとゲタが継承したが、ゲタ帝は即位後まもなく兄であるカラカラ帝の陰謀によって暗殺され、さらに暴君たる振る舞いで元老院やローマ市民に憎まれていたカラカラ帝も、217年に暗殺されてしまう。
カラカラ帝が暗殺されセウェルス朝は一時断絶し、次にローマ皇帝に即位したのは騎士階級の生まれで非元老院議員であったマクリヌス帝だった。
マクリヌス帝はセウェルス家を宮殿から一掃したが、セウェルス帝の外戚であるバッシアヌス家は、これを面白く思わなかった。
パルティア戦争後、ヘリオガバルスの祖母ユリア・マエサは、軍がマクリヌス帝に不満を持っていることを聞きつけて、自身の娘であるソエミアスと共謀し、「孫のヘリオガバルスは、先帝・カラカラ帝の落胤である」として反乱を起こした。
その結果、マクリヌス帝は「アンティオキアの戦い」で敗北し、体制を立て直そうとして逃走していた最中にカッパドキアで斬首され、マクリヌス帝の息子である共同皇帝ディアドゥメニアヌスも捕らえられ殺害された。
かくして若干14歳の美貌の少年ヘリオガバルスは、祖母の思惑通りにローマ皇帝に即位した。
彼の皇帝即位宣言は「アンティオキアの戦い」での勝利をもとに元老院の許可なしで行われたが、218年6月には既成事実を認める形で、元老院もヘリオガバルスの帝位とカラカラの実子であることを承認したのである。
女帝のように振る舞うヘリオガバルス
ヘリオガバルスがローマ皇帝だったのは、218年6月から222年3月の間という4年にも満たない期間であったが、彼に関するエピソードは数多く残っている。
そもそも帝王学を学んだわけでもなく、祖母や母に担ぎ上げられて若くして皇帝に即位したヘリオガバルスに、君主としての手腕が備わっているはずがなかった。そのため、即位当初の政治は祖母と母が取り仕切り、ヘリオガバルスはお飾りの皇帝として君臨することとなったのだ。
ローマ皇帝となったヘリオガバルスは、自らの周囲をお気に入りの男性重臣たちで固めてハーレムを作り、女神官が着るローブときらびやかなネックレスや腕輪などのアクセサリーを身にまとい、まるで美貌の女帝かの如く振る舞った。
何の前触れもなく、突然貧しい身分の女性や家政婦の少女を要職に登用して、周囲を混乱させることもあった。
ヘリオガバルスは取り巻きの女性たちと定期的に茶会を開き、その席で自分自身やお気に入りの側近たちが嫌う男性を拷問していたという逸話も残っている。
一説には、ヘリオガバルスは体は男性であったが、女性の心を持った人物であり、歴史上最古の著名なトランスジェンダーだったともされている。
ヘリオガバルスと同時代に生きた歴史家のカッシウス・ディオは、ヘリオガバルスにまつわる逸話を書に残している。
その中には、「ヘリオガバルスが男らしさを強いる男尊主義的な家庭教師に反発して、その家庭教師から虐待を受けていた家政婦を庇ってトラブルになった結果、家庭教師を殺害した」という逸話がある。
また、祖母のユリア・マエサは、神官にして皇帝たるヘリオガバルスを元老院が受け入れるように、女神官の格好をしたヘリオガバルスの肖像を、元老院が捧げ物をする慣習があった議事堂のウィクトーリア女神像の前に掲げさせた。
この結果、元老院の議員たちは、女装したヘリオガバルスに捧げ物をする形になり、議員たちは憤怒した。
しかし、当のヘリオガバルスはそれを意にも介さなかったという。
4度の離婚と5度の結婚
ヘリオガバルスは、在位していた4年弱のうちに、3度の結婚も経験している。
1人目の妻はシリアに領地を持つ有力貴族の娘で、皇帝即位時に決められた政略結婚であったといわれ、219年初頭に結婚して220年に離婚した。
2人目の妻は「ウェスタの処女」という巫女の地位にあった女性だった。
「ウェスタの処女」は神聖な火を守る巫女であり、「清らかさを失えば生き埋めにされる」という恐ろしい掟の元で生きることを強いられていた。
ヘリオガバルスは巫女の不自由な境遇に同情し、周囲の人間に「ウェスタの処女が自分と結ばれれば、神のように美しい子どもが授かる」と論じて、禁忌を破って結婚を強行した。
結局ヘリオガバルスと2人目の妻の間に子どもは授からず、周囲からの説得もあり2人は早々に離婚したが、彼女は離婚後も生き埋めにされることはなく、皇帝の元妃として何不自由ない生活を送れたという。
3人目の妻は美貌で名高い女性で、彼女は五賢帝の1人であるマルクス・アウレリウス帝の曾孫かつ、暗君として知られるコンモドゥス帝の大姪である人物であり、既婚者でもあった。
前夫を処刑した上で政略結婚したが、彼女との結婚生活も数ヶ月ともたず、結局2人目の妻とよりを戻して再婚するが、またその年のうちに離婚してしまう。
その後、ヘリオガバルスは男性との結婚を強く望むようになった。
いずれの女性とも結婚がうまくいかなかったヘリオガバルスが最後の結婚相手として選んだのは、小アジア出身でヒエロクレスという名の、カリア人の男性奴隷だった。
ヘリオガバルスは、そのカリア人奴隷の「妻」となることを宣言し、さらには多数の男性の愛人とも愛を育んだのである。
ヘリオガバルスがローマ帝国にもたらした変化
ヘリオガバルスが皇帝としてローマ帝国にもたらした最も大きいものは、宗教観や慣習の変化であった。
セウェルス帝の時代以来、ローマ帝国では太陽神信仰が流行していた。
元々はヘリオガバルス自身も、太陽神エル・ガバルを奉じる神官となるべくして育てられた人物である。そしてエル・ガバルは、奇しくも両性具有の神性を有する神であった。
ヘリオガバルスは太陽神信仰流行を好機ととらえて、シリアの太陽神であるエル・ガバルを、古代ローマの多神教における最高神に位置づけた。
天空神ユピテルすらも従える存在とし、ユピテルに従う女神をエル・ガバルの妻と位置づけて、ローマ皇帝の正式称号に「常勝太陽神エル・ガバルの大神官」を追加した。
さらには厳しい戒律に縛られた「ウェスタの処女」を妻にすることにより、多くの宗教上の風習を一変させ、古いしきたりを廃止し、巫女に対する待遇を急速に向上させたのだ。
常軌を逸した行動ばかりが取り沙汰されるヘリオガバルスだが、当時の男尊女卑的風潮に反して、低い身分の女性に対しても寛容で友好的、かつ尊敬や憧れの意識を持って接していた。
ヘリオガバルスはローマにエル・ガバル神を祀る巨大な神殿を建設させ、その神殿には毎朝、牛や羊が生贄として捧げられた。その一方で野ウサギや猫などの小動物をペットとして愛玩したり、貧富の差や老若男女を問わずに、民衆に対して「神からの賜り物」と称し定期的に食事を振る舞った。
祝祭日に神殿に来訪した貧しい民衆ともヘリオガバルスは親しげに会話し、時には生活用品や衣類などを提供することもあったという。
愛と快楽を求め続けたヘリオガバルスが残した逸話
冒頭に紹介した『ヘリオガバルスの薔薇』は、ローマ皇帝の伝記集である『ローマ皇帝群像』に著された逸話をもとに描かれた作品だ。
その逸話とは、ヘリオガバルスが客人を宴会に招いた際、客人の頭上に大量の薔薇の花びらを載せた巨大な幕を張って宴会中にその幕を切り、一斉に落ちてきた薔薇の花に埋もれて窒息死する客人の様子を、眺めて楽しんだというものだ。
この逸話は、ヘリオガバルスの人物像を語る上で特に有名な話であるが、実際にこのような行為が行われたかどうかの真偽は定かではない。
「男性としてではなく、女性として男性から愛されたい」と望んだヘリオガバルスは、あえて女好きな男を探しては自らを女として見てほしいと懇願し、自分に興味を示した男性とだけ関係を持っていたとされている。
ヘリオガバルスは自らを女性として見てくれる男性だけではなく、同性として接してくれる女性に対して、ことさら深い仲間意識と愛情、そして依存心を抱いていた。自ら側近に登用した貧しい出身の女性従者と公共浴場に行っては女湯に共に入り、会話をしながら一緒に脱毛を施したという。
姉として慕う人気娼婦と涙ながらに酒を酌み交わし、その娼婦の助言に従って宮殿の中で着飾って娼婦のように振る舞い、男性を寝所に連れ込むこともあった。
側近の女性を罵った元老院議員を処刑したという逸話や、とても嫉妬深い性格で、浮気をした自分や取り巻きの恋人の男性の陰部を切り落として、神殿内で飼育していた猛獣に餌として与えていたという逸話も残っている。
そして愛人との逢瀬を繰り返しながらも、ヘリオガバルスは夫としたヒエロクレスに妻として従い尽くした。
ヒエロクレスもまたヘリオガバルスを妻として愛したが、度重なるヘリオガバルスの不貞行為に腹を立てて、罵声を浴びせたり暴力をふるったりすることもあった。
しかしヘリオガバルスは、夫であるヒエロクレスの暴力行為を、自分への愛情や独占欲として捉えて喜んだ。
ヘリオガバルスの求愛は自傷的で、実際に自傷行為や自殺未遂を図ることが何度もあったという。
最後まで擁護した母と共に迎えた無残な死
近衛隊や元老院は、このようなヘリオガバルスの行動に嫌悪感を抱き、不満と怒りを高めていた。
そんなある日、ヘリオガバルスは、得体の知れない謎の女の集団を率いて楽器を打ち鳴らしながら全裸で踊り、獣の血を混ぜたワインを捧げて香を炊く儀式を行った。そして一団のトランス状態が最高潮となった時、宗教的保守派の青年を生贄として神殿に捧げたという。
この行動には、ローマ市民の多数が眉をひそめ怒りを露わにした。陰の権力者であった祖母ユリア・マエサも、異様な行動を繰り返すヘリオガバルスに見切りを付け始めており、血縁関係のある王族内でヘリオガバルスに味方するのは、母のソエミアスのみとなっていた。
祖母マエサは、ヘリオガバルスの従兄弟であるアレクサンドルを後継者とする計画を立てて、まずアレクサンドルをヘリオガバルスの養子とさせた。
ヘリオガバルスは一時は養子縁組を承諾したものの、近衛隊がアレクサンデルに接近し始めたことで危機感を覚え、養子縁組を取り消してしまう。
そしてヘリオガバルスはアレクサンデルを幽閉し、近衛隊には既に死亡したものとして伝えた。
この行動が、近衛隊の怒りを買った。
近衛隊は激昂して反乱を起こし、ヘリオガバルスは慌てて前言撤回してアレクサンデルを解放したが、もう事態は手遅れだった。
222年3月11日、幽閉から解放されたアレクサンデルは近衛隊の城砦に歓声をもって歓迎された。ほとんどの兵士に裏切られたヘリオガバルスには反旗を翻した近衛兵が差し向けられ、ヘリオガバルスは反乱軍に捕らえられた。
ヘリオガバルスは母ソエミアスと共に広場に引き出され、兵士たちが集めた彼に恨みを持つ女性市民から、身ぐるみを剝がされてありとあらゆる辱めと暴行を受け、陰部を切り落とされた挙句に殺害された。
ヘリオガバルスを支持する女性は多かったが、夫や息子を殺されて恨みを持つ女性も多かったのだ。
散々いたぶられたヘリオガバルスの遺体は、裸のまま馬に乗せられて市中を引き回されて晒し物にされた後に、斬首されてテヴェレ川に打ち捨てられたという。
祖母の権力欲の依代として担ぎ出された少年は、わずか18歳で無残な死を遂げたのである。
泣きわめきながら息子を庇った母ソエミアスや、夫のヒエロクレス、従者の女性たちも容赦なく殺された。
ヘリオガバルスを慕っていた女性たちも、彼の死の報せを受けて自発的に自害した者が多かったという。
時代を先取りし過ぎたローマ皇帝・ヘリオガバルス
史上最狂の暴君と呼ばれるヘリオガバルスだが、近年はその評価が見直されつつある。
イギリスのノース・ハートフォードシア博物館では、最古のトランスジェンダーとされるヘリオガバルスの展示の表示を「He」から「She」または「Her」に変更して女性として見なすなど、名誉を回復する動きが進んでいるという。
また、ヘリオガバルスが行った市民に対する食事や衣類、生活用品の無償提供は「早すぎた社会民主主義」と評され、奔放な恋愛遍歴とは別軸で再評価するべきという意見もある。
貧民への施しだけではなく、女性蔑視の一因ともなっていた国教に値する宗教の改革や、身分にこだわらない女性の要職登用、それまで見捨てられていた貧困層を治水によって救済するなど、わずか10代にしてそれまでに例を見ない画期的な政策や、救済措置を推し進めた皇帝でもあったのだ。
ヘリオガバルスの奔放すぎる生活については、どこまでが事実かはっきりしないが、政敵の誇張による部分も少なくないといわれている。
快楽に耽り、堕落した暴君としてのイメージで語られることが多いヘリオガバルスだが、彼、いや彼女にまつわる歴史を知れば、現代に生きる人々であれば異なる印象を抱くに違いない。
参考文献 :『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』 アントナン・アルトー (著), 多田 智満子 (翻訳)
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部