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沖縄の「生き証人」。文化財指定 ”全国初” 沖縄陸軍病院南風原壕は沖縄戦の終結からまもなく80年。悲惨な記憶を継承する拠点として…

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1944年の10・10空襲を受け、那覇から南風原(はえばる)へと移った沖縄陸軍病院。沖縄戦では看護要員としてひめゆり学徒隊が動員され、多くの負傷兵が命を落とした場所である。 一般公開されている病院壕は、戦争の記憶を伝える「生き証人」として静かにたたずんでいる。

10・10空襲を契機に移転

1944年10月10日、アメリカ軍が南西諸島の各地を攻撃した10・10空襲。 延べ1400機の艦載機が投入されたこの空襲で那覇の街の9割が焼け野原となり、旧日本軍の施設も破壊された。

映像:1フィート運動の会

その一つが沖縄陸軍病院で、10・10空襲を大きな契機として南風原に移転した。 南風原の黄金森(こがねもり)に立つ沖縄陸軍病院南風原壕。1945年の沖縄戦では負傷した日本兵が次々と運び込まれ、看護要員として動員されたひめゆり学徒隊が治療にあたった。

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「埋められた医薬品類の一部をこちらで展示しています。こちらにあるのが点滴液で、茶色い瓶が消毒液、軟膏が入っている瓶、こちらがアンプルです」

沖縄陸軍病院南風原壕群の中で現在、唯一公開されているのが20号壕である。 南風原の黄金森とその周辺にはおよそ40カ所に壕がつくられ陸軍病院として使われたが、今はそのほとんどが崩落していて中に入ることができない。

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「このあたりが第二外科。21号壕へとつながる通路が、第二外科壕に動員されていたひめゆり学徒の休憩所として使われていました」

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「手術場として使われていたのがこのあたり。発掘調査をする中でも、薬瓶の欠片(かけら)など医療活動がここで行われていたということが分かるようなものが出土しています」

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「こちらはおそらく、米軍の火炎放射器の攻撃によって焼かれてできた跡だと考えられています」

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「壕の中が火炎放射器の攻撃によって、おそらく全体が真っ黒に焼けていたが、徐々に風化によって地肌が出ています」

なぜ南風原に構築された

元々那覇に開設された陸軍病院。10・10空襲で建物や物資が大きな被害を受けたことから南風原国民学校に移され、さらに、地上戦を見据えた病院壕の構築も急がれた。

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「ほとんどの壕が手堀りで掘っています。ツルハシとか鍬とか、そうした道具で、人力で掘った壕になっています」

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「坑木、柱です。柱は90センチおきに、軍がきちんと壕としてつくっていますので、規格をしっかりと90センチおきに穴を掘って柱を据えて、補強しながら使っていました」

Q.掘り始めはいつごろから? 南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「1944年9月3日と記録に残されています。10・10空襲が始まる前の段階から既に壕の構築自体は始まっていたと」 なぜこの地域が医療活動の拠点に選ばれたのか、その要因は南風原の地理的な特徴にあった。 保久盛陽学芸員によると、南風原は海に接していないということが重要な要素であり、海に接しているとすぐに米軍が上陸して地上戦になる可能性があるため、前線ではなく後方に位置できるということが、南風原の利点だったのではないかとのこと。

戦前は軽便鉄道の路線も走っていたため、交通の便の良さもあり南風原が選ばれたのではないかなとも考えられる。 病院壕の公開に至るまでには、町をあげての長年にわたる取り組みがあった。

全国初の戦争遺跡として文化財に指定

1980年前後から、黄金森で遺骨収集が進められたことなどから、南風原町は病院壕の文化財指定について本格的な検討を始めた。

奔走した一人が、元南風原文化センター館長の大城和喜さんである。文化財指定の道筋を探したいと沖縄県などに問い合わせたものの、取り合ってもらえなかったという。 大城和喜さん 「当時の担当者は“、まだ(戦後)50年しかならないから時期早々”だと。国に問い合わせたら、『価値というものは100年経たないと評価ができない。まだ50数年でしょ』と。だから蹴られた。それなら南風原独自でやろうと」

1990年、南風原町は全国で初めて戦争遺跡として沖縄陸軍病院南風原壕群を町の文化財に指定した。そして、戦争遺跡として残すだけでなく、どう活用していくのか発掘調査や研究が行われた。

大城和喜さん 「これを残せば、この壕が、現場が沖縄戦を語ってくれる。だから文化財指定が必要」 特に保存状態の良かった20号壕の整備を終え、2007年には一般公開が実現した。それから今日まで沖縄戦の実相を伝える場所として病院壕は生き続けている。

南風原文化センター 保久盛陽 学芸員 「南風原にとって沖縄戦を語る大事な“生き証人”であると。ただ残すだけではなく、きちんと活用するということも含めて文化財指定をしています」 体験者の証言を直接聞けなくなるときが迫りつつある今、戦争の「現場」を残すことがより大きな意義を持っている。 沖縄戦の終結からまもなく80年。悲惨な記憶を継承する拠点として、病院壕はこれからも南風原の丘に立ち続ける。

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