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過去を掘り返すスコップは、時に誰かを傷つけるナイフとなる――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま

NHK出版デジタルマガジン

過去を掘り返すスコップは、時に誰かを傷つけるナイフとなる――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま

人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、韓国のいまを伝えます

 流行語、新語、造語、スラング、ネットミーム……人々の間で生き生きと交わされる言葉の数々は、その社会の姿をありのままに映す鏡です。本連載では、人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、辞書には載っていない、けれども韓国では当たり前のように使われている言葉を毎回ひとつ取り上げ、その背景にある文化や慣習を紹介します。第1回から読む方はこちら。

#8 파묘(パミョ)

 ある俳優の過去が、まるで「墓を掘り返す」ように暴かれていく――。最近の韓国メディアでよく登場する「파묘(破墓)(パミョ)」という言葉。その響きはなんとも生々しい。

 本来は遺骨を移すために墓を掘り返す宗教的な儀式を指す言葉だが、いまでは「過去の過ちを蒸し返す」という比喩として使われることが多い。とくに芸能界では、一度「埋めた」はずの過去がSNSやメディアを通じて突然「掘り返され」、本人のイメージに大きく影響するケースもある。

 社会がその人に抱いてきた信頼やイメージが、過去の掘り返しによって揺らぎ、新たな評価が下される――파묘(パミョ)とは、そうした再評価のプロセスだ。

 なぜ私たちは他人の「過去」を掘り返すのか。そして、それが「社会的な地位のある人たち」にどう跳ね返ってくるのか。今回は、파묘(パミョ)という言葉を通して、韓国社会のいまを見つめてみたい。

韓国社会に横行する갑질(カプチル)

 파묘(パミョ)の対象となるのは、たいてい社会的な地位や名声を持つ人物だ。かつて「上の立場」にいた人たちの過去が掘り返される背景には、韓国社会に根強く存在する「갑질(カプチル)」という文化が関係している。

 갑질(カプチル)とは、直訳すれば「甲のふるまい」。立場の強い者(=甲)が、弱い者(=乙)に対して不当な圧力をかけたり、命令を行ったりすることを指す韓国特有の言葉で、日本でいう「パワハラ」に近い。

 象徴的な事件として知られるのが2014年の「ナッツリターン事件」だ。自社機のファーストクラスでのナッツの提供方法に腹を立てた大韓航空副社長(当時)が、自身の地位を利用し、すでに滑走路に向かっていた機体を搭乗口へと引き返させ、客室乗務員の責任者を降ろすよう命じた。

 この行為はすぐさま社会的批判を浴び、갑질(カプチル)という言葉が大衆レベルで広く知られるきっかけとなった。まさに、職場における典型的な갑질(カプチル)の例と言えるだろう。

 とはいえ、すべての갑질(カプチル)がこのように問題視されるわけではない。社会的地位や人気が高さゆえに、黙殺されてしまうケースもある。それが、あとになって파묘(パミョ)の対象となることが少なくない。

「忘却の時代」から「記録と共有の時代」へ

 では、なぜ人々はそこまでして過去を掘り返すのか。파묘(パミョ)が社会現象となるのは、韓国では「個人の背景」が社会的評価の大きな基準になっているからだ。

 ここでいう「個人の背景」とは、家系や出身校、過去の活動歴などを指す。こうした要素は、その人の現在や未来を判断するうえで大きな影響力を持っている。

 たとえば政治の世界では、大統領経験者が任期終了後に捜査対象となる例が少なくない。全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)、李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)――歴代の大統領の多くが、任期中の不正行為や権力乱用をめぐって捜査・起訴されてきた。

 任期中の行為だけではなく、それ以前の「個人の背景」まで厳しく掘り返される。たとえば、軍部出身の全斗煥と盧泰愚は若いころに軍事クーデターに加担した過去が、財界出身の李明博は現代建設時代に関与した裏金疑惑が批判の対象となった。

 こうした傾向は、大統領に限った話ではない。芸能人の過去に対する厳しい視線は、ネット社会を通じて広がり、파묘(パミョ)の引き金となることもある。

 最近でいえば、俳優のキム・スヒョンだ。『太陽を抱く月』や『涙の女王』で知られるこのスターは、女優キム・セロン(故人)が未成年だった時代に交際していたのではという疑惑をきっかけに、過去の出来事をめぐってさまざまな疑惑が蒸し返されている。

 キム・スヒョン本人や所属事務所は疑惑を否定している。私もここで彼を断罪するつもりはないし、そのための判断材料もない。ただ、長年表に出なかった話題がいまになって急浮上した背景には、韓国芸能界における不透明な力の行使や、それに沈黙してきた空気への反発があると見ていいだろう。

 ほかにも人気アイドルやYouTuberが、中学生時代にいじめをしていたという告発、数年前に行った差別的発言、未公開だった仕事上の振る舞いなどで再注目される例も多く、파묘(パミョ)は社会全体に広がる「過去の再確認作業」として定着しつつある。

 忘却ではなく、記録と共有の時代。SNSの存在がそれを加速させている。

声をあげはじめた人々

 こうした現象は日本でも見られるが、韓国のように「파묘(パミョ)」という特定の言葉があるわけではない。過去のSNS投稿などが掘り返され、批判の的になることはあっても、「バッシング」や「炎上」といった語で語られることが多い。近年はそこから企業や業界を巻き込む問題に発展するケースもあるが、たいていはその人自身の問題と捉えられる傾向が強いように思う。

 一方、파묘(パミョ)という言葉がある韓国では、過去の言動が掘り起こされた際、それを「社会として見逃してきた問題だったのではないか」と、広い視点で捉え直すことが多い。根本にある不公正や権力の偏りを掘り起こし、広く議論する姿勢に、韓国社会特有のまなざしが表れている。

 今年に入ってからは、料理研究家のペク・ジョンウォンも파묘(パミョ)の対象となっている。日本では『白と黒のスプーン』の審査員役としておなじみだろう。「国民シェフ」や「韓国料理界のお父さん」として親しまれてきた彼の言動が改めて見直されており、かつては笑い話として受け止められていた冗談や料理指導の厳しさが、「パワハラ的」「時代錯誤的」と再解釈され、批判の声が上がっている。

 国産ではない食材を「国産」と表記した問題など、YouTubeではさまざまな問題点が指摘されており、ペク・ジョンウォンと彼が代表を務める会社は、毎日のように釈明に追われている。5月6日には、ペク・ジョンウォンが芸能活動の休止し、上場企業の代表として信頼を取り戻すと宣言するに至った。

 なかでも再注目されているのが、人気番組『コルモク食堂』でのふるまいだ。困難な経営状況にある店主たちに対し、時に厳しく叱責する姿は「指導」というより「恫喝」に近いという意見も出ており、「善意の仮面をかぶった갑질(カプチル)では」との声も少なくない。

 人気の絶頂期には、こうした話を口にすることすらはばかられた。なぜなら、彼は単なる有名人ではなく、「信じるに値する正義の味方」として広く認識されていたからだ。批判の声をあげたとしても、逆に「何様だ」「嫉妬だ」と非難されることもあり、沈黙を選ぶ人が多かった。

 しかしいま、そうした「かつて届かなかった声」が、파묘(パミョ)という現象を通じてようやく世の中に響き始めている。これは、誰かを突然貶めようというよりも、もともと存在していた疑念や不満がようやく語られる土壌が整った、ということなのかもしれない。

過去を掘り返すのは何のため?

 このように、파묘(パミョ)は過去を再確認し、時代に照らして再評価する営みだ。長年見過ごされてきた不正やハラスメントがようやく明るみに出て、当事者の声が拾い上げられる場面も少なくない。

 一方で、파묘(パミョ)がすべて肯定されるわけではない。掘り返されるのは真実だけとは限らず、憶測や感情に基づく断罪が拡散されることもあるからだ。過去の言葉や行動が、当時の文脈や事情を無視して切り取られ、いまの基準で裁かれる。それは時に危うさをはらんでいる。謝罪や説明の余地すら与えられないまま、「社会的制裁」が一方的に下されてしまう恐れもある。

 파묘(パミョ)が「正義」として機能するのか、それとも「私刑(リンチ)」へと転じてしまうのか――その境界線は、思っている以上にあいまいだ。とくにSNS社会では、その一線が感情によって容易に越えられてしまう。正義の名のもとに誰かを裁く行為が、やがて別の誰かを傷つけるナイフになってしまうこともある。

 파묘(パミョ)の背後には、「忘れない」ことで未来を変えようとする希望がある一方で、過去に縛られすぎることで新しい関係や理解の芽を摘んでしまう恐れもある。重要なのは、過去をどう取り扱うか。そして、それを誰のために、どのように共有していくかではないだろうか。

 埋められた過去を、私たちはどう扱うべきなのか。忘れたふりをするのでもなく、いつまでも断罪し続けるのでもなく、傷ついた誰かの声をそっとすくい上げるように、過去と向き合う方法はないだろうか。파묘(パミョ)という行為が、誰かを再び苦しめるためではなく、もう一度理解し直すための「再読」のようなものだったなら、私たちはもう少しやさしく過去と向き合えるのかもしれない。

 墓を掘り返すことで、見えてくるものがある。けれど、そのスコップの先に何が埋まっているかを知る前に、一度、自分自身の過去と感情にも問いを投げかけてみたい。

「これは誰のために掘っているのか?」と。

プロフィール

金光英実(かねみつ・ひでみ)
1971年生まれ。清泉女子大学卒業後、広告代理店勤務を経て韓国に渡る。以来、30年近くソウル在住。大手配信サイトで提供される人気話題作をはじめ、数多くのドラマ・映画の字幕翻訳を手掛ける。著書に『ためぐち韓国語』(四方田犬彦との共著、平凡社新書)、『いますぐ使える! 韓国語ネイティブ単語集』(「ヨンシル」名義、扶桑社)、『ドラマで読む韓国』(NHK出版新書)、訳書に『グッドライフ』(小学館)など。

タイトルデザイン:ウラシマ・リー

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