東京の「Fラン大学」を出たママの誇り。お受験戦争の渦中、優秀な娘に人生を重ねる傲慢な願い【横浜の女・林 愛子33歳 #2】
【何者でもない、惑う女たちー小説ー】
【横浜の女・林 愛子33歳 #2】
横浜に暮らす経営者の妻の愛子。長女の美愛はまだまだ甘えん坊の小学生。横浜山手御三家と呼ばれるお嬢様女子校に狙いを定めて、愛子は美愛と共に中学受験に挑むことを決意したが…。【前回はこちら】
◇ ◇ ◇
そうと決まれば、愛子はさっそく美愛に中学受験で圧倒的な実績を誇る学習塾・SAPIXの入室テストを受けさせた。
実は0歳児から先々を見据えて七田式、小学校に上がると公文と玉井式を並行して受けさせ、タブレットの通信教育でも自宅学習の習慣はつけさせていたため、難なくクリアした。
比較的おっとりした性格の美愛を競争社会に飛び込ませることは愛子にとって多少は躊躇したが、合格のためには皆やっていること。そう言い聞かせ、心を鬼にする。
ぐんぐん娘の偏差値が上がっていく
幸いなことに、SAPIXの方針は美愛の性格に合っていたようだ。
「ママ見て。この前のテスト、満点だったの。またクラス上がっちゃうなあ。せっかく隣の席の子と仲良くなったのに」
「そうね…。でも、きっとその子もじきに追いついてくるよ」
「うーん。その時は美愛がもっと上のクラスに行っていたらどうしよう」
自分に似て流されやすい彼女の性格がいい方向に影響しているようだった。度重なるテスト、学力別クラスなどで競わされることにより、自然に机に向かうようになっていた。
そして、4年の入室時には当然底辺クラスだったのが、驚くことに5年生の終わりにはSAPIX内偏差値も60を超え、クラスも最上位域に入ってきたのである。
自分も環境が違えばもっと上に…
――だったら私も、MARCHくらいには行けたのかしら。
美愛が持ち帰ってくるテストの結果を眺めた後に必ず襲ってくるのは、自身の人生への悔いだった。
中学・高校時代、遊びと恋愛にうつつを抜かした自分が悪い。
補導も、休学も経験した青春の傷。人生の時間を無駄にした過去は消せない。
環境が違えば、自分も娘のように勉強ができて、いい学校に入り、別の未来が拓けていたのかもしれない…、と。
私と夫の娘だもの、優秀なはず
ただ、そんな環境でも東京の大学に入れたことは微かな自信だ。名前だけがグローバルなFランと分類される大学だが、塾ナシで合格している。
美愛の父親の晴信も、就職氷河期世代で就職難民ののち、飲食店バイトからのし上がった商才と野心あふれる根性の男だ。
そんな2人の血を引く美愛が、過酷と言われる中学受験を乗り越えられないはずがない。
6年生になった娘に訪れた変化
今日も机に向かい、ワークに励む美愛の小さな背中。愛子はずっと、じっと、眺めている。彼女のがんばる姿を見るのが、今の愛子の生き甲斐だ。
中学受験に挑むにあたって、教育虐待をしてしまうのではないかと不安もあったが、どうやら杞憂だったようだ。
こんなにがんばっているのなら、横浜雙葉には余裕で入ることができるだろう。山手の桜並木を古風なエプロンドレス風制服で歩く美愛を想像し、自分を重ねて落ち込む心を奮い立たせた。
モチベーションがそのまま続くことを切に願いながら。
だが…――そんな美愛が6年生になってほどなくした時、変化が現れた。
可愛い娘の反抗に戸惑う
「…あのさママ、あっち行ってくれない?」
いつものように勉強を見守っていると、信じられない言葉が愛子の耳に飛び込んできた。頭が真っ白になったのは言うまでもない。
「あ、ごめんね、ココアでも作ろうか」
「チョコ食べたし、糖分は十分足りてるよ。ほんとに気が散るの。出てって」
繋いでいた手が、突然離されたような感覚になった。
――今までは、ココアさえ飲ませれば機嫌が良くなっていたはずなのに…。
何があったのか、と尋ねるとさらに棘が増した。愛子は観念してしぶしぶ勉強部屋を後にする。
自然とベッドルームに足が向かい、既に寝ている下の子を自己満足で抱きしめた。しかし、脳裏に焼き付いているのは美愛の鋭い表情だった。
受験も近づき、勉強の量が多くなるにつれ、彼女はイライラのオーラをまとう日が多くなってきていた。気づかないようにしていたのだが…。
そしてふと湧き上がる漠然とした嫌な予感。
――あの子、本当に受験がしたいのかな…。
「受験、したくなければしなくていいのよ」
SAPIXで毎月頂く広報誌には、2月の勝者となった生徒の家族のインタビューが掲載されている。
そこで見る親御さんたちは揃って「子どもが自分から中学受験をしたいと言って来た」「子どもの意志を尊重して中学受験をした」となどと口を揃える。
強要したわけではない、というアピールなのかもしれないが、愛子にとってその言葉はとても重かった。
美愛は、愛子から積極的に誘導されて、中学受験をしている。それとは逆の、ほとんどの子が“じぶんの意志で”中学受験をしているという表向きのデータに戸惑う。
「美愛ちゃん、受験、したくなければしなくていいのよ」
ワークが一段落し、キッチンで夜食をとり始めた美愛に、愛子は思い切って聞いてみた。
賢くなっていく娘に脅威を覚える
彼女にとって寝耳に水のことだったようだ。口の中に入れたばかりのお茶漬けを喉に詰まらせて、ケホケホとせき込んだ。
愛子が渡した水を飲んで、ゆっくりと咀嚼したあと、美愛は目をそらして口を開いた。
「受験はしたいよ。いまさらなぜそんなこと言うの」
「ならいいんだけど。よかった」
ホッと胸をなでおろす。半ば否定を誘導したような質問だったが、不安を解消するためにどうしても必要な回答だった。
「クラスだって、α1に入ることができたんだよ。もうすぐ志望校別特訓も始まるし、せっかくやる気になって、モチベを上げている最中なのに」
「そ、そうね」
小学生にもかかわらず、立て板に水のようにすらすらと言葉が出てくる美愛に脅威をおぼえた。彼女は夕食を終えると、風呂へと向かった。その後は少しだけ参考書を読んで、10時にはベッドに入ると言う。
理想通りではあるものの、やりすぎではないか。志望校に合格さえ、してくれればいいのだ。既に彼女は余裕で80%合格ラインは超えている。
そんな矛盾で混沌とした気持ちから逃げ出すように、愛子は鳩サブレの缶に入った刺繍枠を手に取った。
品のある女の子になって欲しい
刺繍をはじめたのは、つい最近だ。
美愛が頑張ればがんばるほど、置いてけぼりになる。手持無沙汰を解消しようと、カルチャーセンターの講座を探したところ、時間的に都合がいい刺繍教室を見つけたのだ。
純白のハンカチに、チクチクと針を入れ、愛する子の名前を刺繍する。横浜雙葉の学園祭で出会った、あの彼女のような、品のある優しい女の子になって欲しいという願いを込めて…。
「ママ」
気が付くと、風呂から上がってきた美愛が後ろに立っていた。
だいぶ長い時間湯船に浸かっていたようだ。頬は紅潮し、瞳もどこか血走っている。
「なあに?」
何が起きたのか――ただ事ではない気配を感じた。その予感は次の言葉によってすぐ答え合わせがなされた。
「私、やっぱり受験したくない」
【#3へつづく:共学なんてバカじゃないの! 暴走するお受験妻が「娘の反抗」でようやく気付けたこと】
(ミドリマチ/作家・ライター)