口伝えは難しいから葉っぱに書いて残していた?経典が編纂された経緯とは?【眠れなくなるほど面白い 図解 仏教】
なぜ、経典が編纂されたの?
例外はありますが、いわゆる「お経」は釈迦の語録です。釈迦の説法を記録したものとされています。しかし、釈迦の在世中に書かれたものは1冊もありません。どういうことでしょうか。実は釈迦の教えは文字に記されることはなく、口から口へ伝承されていたのです。このため、教えは覚えやすいように詩の形式になっていました。修行者はレベルによって覚えるべき詩(教え)が決まっており、それをすべて暗記し理解できると、さらに上のレベルの詩が教えられました。
『法華経』や『無量寿経』といったお経が散文で書かれた部分と詩(偈文〈*〉)で書かれた部分からなるのは、この名残なのです。まず詩の部分が先に成立し、そこに説明的な散文が付加されて、今見るようなお経が成立したと考えられています。話をお経成立以前に戻しますと、詩文の形の教えを暗記するという修行法は、釈迦の没後も続けられていました。
ところが、釈迦の死から時間が経ち、仏教教団がインド全土に広まってくると問題も出てきました。地域によって詩文に違いが出てきたのです。人から人へ伝わる過程で誤りが生じたこともあるでしょうし、個人的な解釈が加えられることもあったでしょう。つまり、修行僧の記憶が曖昧だったために同じであるべき教えの詩文に、いくつものバージョンができてしまったのです。釈迦の在世中であれば、どれが正しいのか聞くことができますが、没後はそれがかないませんので、この問題は由々しきことでした。下手をすれば教えの違いで教団が分裂しかねません。
やがて、各地におけるお経(詩文)の違いが見過ごせなくなり、仏教教団を統率していた長老たちは、各地の指導者などを集めて正しいテキストを定める会議を開くことにしました。これを結集といいます。
伝承によると、結集は4回あったとされます。第1回は釈迦の入滅後間もない頃で、ラージャグリハ(王舎城)に500人の僧〈*〉が集まって行なわれました。次は仏滅後100年ほど経った頃で、ヴァイシャリー(毘舎離)に700人の僧が集まって、主に戒律の問題が話し合われました。3回目は仏滅後200年ほど経ったアショーカ王の時代で、パータリプトラ(華氏城)に1000人の僧が集まりました。4回目は2世紀頃、カニシカ王の時に500人の僧が集まりました。 一方でターラ樹の葉(貝葉)などを用いて教えを文字にして残すようになってきました。
とくに大乗仏教(次項参照)が登場してからは、お経を書き写すこと、すなわち写経が修行者・信者の重要な徳目とされ、写本が熱心に作られて布教に使われました。また、お経の数も増えていきましたので、その分類法も議論されました。中国や日本では、数あるお経を釈迦の生涯のどの場面で説かれたものか判断する「教相判釈」も盛んで、ここから宗派が成立しました。
また、お経の数も増えていきましたので、その分類法も議論されました。中国や日本では、数あるお経を釈迦の生涯のどの場面で説かれたものか判断する「教相判釈」も盛んで、ここから宗派が成立しました。日本のお経は漢字で書かれていますが、これはサンスクリット語で書かれた原典を中国や西域で当時の中国語に訳したものです。ですから、同じお経でも時代や翻訳者によって訳語が違っていたりします。これに対し、東南アジアではパーリ語のお経が使われています。パーリ語は釈迦が使っていた言葉に近い言語だとされます。チベットではチベット語の経典が読まれています。
出典:『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』 監修:渋谷申博