80年代エモいアイドル再評価【田中久美】キャッチフレーズは “きらめきeye-teen”
連載【80年代エモいアイドル再評価】vol.4〜 田中久美
1984年デビュー組、田中久美
ダウン・トゥ・アースとは? その字ズラからも想像できるとおり、日本語で言うところの “地に足の着いた” という意味の言葉である。いわゆる、フワフワと宙ぶらりんではなく、足がしっかりと地に着いた状態のことを指し示す。英語が使われる、海の向こうのお国で “ワタシはそのようなしっかりとした人間だ” とアピールしたい場合は “I’m down-to-earth” と言えば一発で通じるはずである。
この言葉にピッタリと当てはまるとおぼしき80年代アイドルが存在する。“えっ?フワっとしたアイドルがダウン・トゥ・アース? ” などと疑わず、ひとまずは本コラムを読み進めてほしい。そのアイドルとは... 1984年にデビューした田中久美(以降、久美ちゃん)に他ならない。それでは、本シリーズの習わしに従ってプロフィールからザっと振り返ってみることにしよう。
▶ 本名:田中久美
▶ 生年月日:昭和42年11月19日 さそり座
▶ 出生地:福岡県
▶ 身長:157センチ
▶ B W H:78センチ、61センチ、86センチ
▶ 趣味:ピアノ、ドライフラワー
▶ スポーツ:バレーボール
▶ 特技:珠算4級、書道1級
▶ 好きな色:赤、白
▶ 尊敬する人:両親、山口百恵さん
▶ 好きなもの:肉、うめぼし、チョコレート
▶ 初恋:小学校2年生くらい
真夏の大決戦!「ホリプロタレントスカウトキャラバン」で優勝した少女
九州地方にある福岡県の築上郡にある町で “アイドルになりたい” という夢をぼんやり描いていたという少女は、愛読していたアイドル雑誌をパラパラめくっていた際、とある広告に目が留まった。それは、ホリプロが毎年夏に開催していた自社オーディション『ホリプロタレントスカウトキャラバン』の開催告知だった。ダメ元… ほんの軽い気持ちで応募してみたという久美ちゃんだったが、書類審査を経て予選までスルっと抜け出し、東京で開催された全国大会にて優勝の座に輝いたのである。述べ10万5千通以上もの応募があった本大会で頂点に立った意味… これは第1回の榊原郁恵が優勝した際のザっと10倍の応募者数と考えれば、その競争率の高さが窺える。アイドルになりたい症候群に罹っていた少女たちが、いかにこの時代にあふれかえっていたのかを物語る数値と言える。
決戦大会で久美ちゃんが歌った楽曲は、岩崎宏美のヒットナンバー「素敵な気持ち」。16ビートのメロディに乗せたオトナびた楽曲であり、いわゆるよくあるアイドル歌謡曲という風味ではない。久美ちゃんの声質は当時の年齢から考えてもやや大人びたアルト系であり、他候補者との差別化という意味でもこの楽曲を選んだ久美ちゃんのセンスには拍手を送りたいところである。
スカウトキャラバン優勝から僅か半年で歌手デビュー
その後、1984年3月3日に「スリリング」という楽曲で日本フォノグラムから颯爽とデビューすることになった久美ちゃんだったが、これは当該オーディション合格から僅か半年後の出来事である。歌手デビューまでの準備期間としては短いようにも思えるが、同オーディション出身の諸先輩方に関しても同様だったことから考えるに、ホリプロのしきたりとして行われていたことが窺えるのである。3月3日という、女の子DAYのひな祭りに合わせたデビュー日設定についても “お主、やるな” といったところだ。その雰囲気に合わせてか、宣材の類はピンク色で統一されていたのである。
売り出しキャンペーンとしては――
▶︎ 2月初旬から「久美招福御守護」なるものを受験生向けに配布
▶︎ 春休み・ふれeyeキャンペーンとして全国行脚
▶︎ 切手60円分を封入、指定の送り先へ申し込むと「久美メンバーズカード」進呈
▶︎久美ちゃん特製「ポケットティッシュ」配布
など、大手ならではの充実した内容で攻めこんだ。目を見張るべきものは、毎週末の金土日にかけて精力的にスケジュールが組まれていたことである。伊勢丹、そごう、ユニーなどのデパートの催しもの会場を使う他、福島においては平安閣という結婚式場を貸し切りにしてのキャンペーンも行っており、なりふり構わぬ売り出しが遂行されていたことも垣間見えるのだ。
キャッチフレーズは “きらめきeye-teen”
資料提供:チェリー
久美ちゃんの特徴である大きなお目目… それらにズズっとズームインして作られたのが “きらめきeye-teen” というキャッチフレーズだ。eye-teenと記してアイティーンと読ませる、半ばコジつけ臭さが漂うザ・昭和な手法ではあるのだが、会議室で久美陣営のオジサンたちが頭を抱えながら懸命に捻りだしたとおぼしき出来栄えには拍手を送りたいところ。これを補足するフレーズとして “めざせ!ふれeye・久美nity” も添えられたが、こちらも同じくeye使い攻めである。
久美nityの部分は “コミュニティ” 転じてのソレなのは言うまでもなさそうだが、こちらもどこか昭和のオヤジギャグ臭をプンプン漂わせる点がニクめない。ちなみに、このキャッチコピーは当時全国各地で開催された久美ちゃんの前述デビューキャンペーン(ふれeyeキャンペーン)でも併用されていたので、これを知らないとノタまう久美ファンがいるのだとしたらモグリと認定せねばならない。つい最近、ご本人と直接お話する機会に恵まれたが、その際に再確認の意味でのチェリーチェックをカマしてみたところ…「よ〜く覚えている」とのお言葉を頂戴したことは付け加えておこう。
松田聖子初期3部作と同じ布陣で挑んだデビュー曲!
久美ちゃんのデビュー曲「スリリング」は作詞を三浦徳子、作曲は小田裕一郎が手がけたもので、この作家陣は松田聖子の初期3部作を担ったコンビである。このように書くと “さぞかし、ポスト聖子風味満載の楽曲だったのか?” という邪推を始める貴兄もいるかと思われるが、それが全くの異質な作りになっているのだからおったまげる。イントロから中盤辺りまではタイトルどおりのスリリングな展開だが、サビ部分で僅かにメジャー調へ切り替えるという構成。落ち着いた声質の久美ちゃんがゆえ、全編に渡ってスリリングしまくるのもひとつの手だったとは思うが、メジャー展開を差し込んで “アイドルのデビュー曲ですよ” アピールも忘れなかった点は小田氏のテクニックがキラリと光った部分と言える。タレントの藤井隆も大のお気に入り楽曲とのことで、とあるテレビ番組にて「スリリング」を振りつきで披露してくれたことも記憶に新しい。
久美ちゃんはこの後も――
▶︎シングル2枚目「カリッと夏」(1984年6月3日)
▶︎アルバム1枚目『Kumi~地中海DOLL』(1984年7月1日)
▶︎シングル3枚目「少女の中の悪魔(デビル)」(1984年8月8日)
▶︎シングル4枚目「火の接吻」(1985年1月9日)
と立て続けにリリース。3枚目「少女の中の悪魔(デビル)」発売の際にはデビュー以来守ってきた3か月クールを打破、2枚目のシングル発売からわずか2か月という短さで勝負に打って出たのである。この曲では作家陣も変更(作詞:篠塚満由美 作曲:馬場孝幸)され、楽曲を紹介する業界向けパンフレットには “大ヒット宣言” と記されていることから、陣営の自信がピクピクとみなぎる作品だったことが窺える。当時、全国に2台しか存在しかなく、久美ちゃん専用のお部屋までしつらえたという8000万円の特注バスで全国を回るキャンペーン “KUMI DREAM CARAVAN” も敢行、各新人賞でも歌いまくったがチャート上においては伸びきらずという結果に。が、チェリー界隈、ひいてはアイドル歌謡ファンの間でも未だに大絶賛の声がやまない傑作であることは声高らかに叫んでおこう。
そして歌手活動と並行して――
▶︎ 森永製菓「ハテナッツ」
▶︎ 森永製菓「うわさのパンチョ」(共に共演は麻見和也 / 単独出演バージョンもあり)
▶︎ 農協の共済
などのテレビコマーシャルにも出演して愛嬌を振りまいた。この辺りはさすが大手のホリプロならではのお仕事ぶりであり、同事務所所属の先輩アイドルたちに追従する方針を採ったといったところ。が、山口百恵、榊原郁恵や堀ちえみ等のようにドラマ出演がからっきしなかったのがナゾでもある。デビューしたばかりの新人歌手をドラマにネジこんでくるのは、それこそ当時のホリプロにおけるお家芸だったはずなのだが...?
ダウン・トゥ・アース… 地に足の着いたその後とは?
4枚目のシングル「火の接吻」の発売以降、ガールズバンドをやりたい意向の久美ちゃんとバラエティ路線に転向させたいという事務所とで折り合いがつかなくなり活動が頓挫。5枚目のシングルはオクラ入り、仕事も先細ったこの期間は勉学に勤しんだことで堀越学園をきちんと卒業するに至った。同級生で仲の良かった岡田有希子との友情も育んでいたが、命を絶つ1週間前に電話で話したのが最後の会話になってしまったという。
迷走するアイドルにありがちな、いわゆる ”艶めいた仕事” に手を染めることもなく芸能界を引退。福岡に帰郷してからは地元のデパートに就職して一般社会人としての生活も送った。そして19歳で結婚、1男2女に恵まれたものの、32歳の時に離婚を経験。が、お孫さんにも恵まれて47歳にしておばあちゃん(←失礼)になっちゃったニュースが界隈に流れたことも懐かしい。現在は別のパートナーと生活を共にしており “歌はやめられない” という想いから地元のステージに立つ等の活動も続けているのである。一時、地元築上のコミュニティFMでDJをしていた時期もあり、その際はユッコ(岡田有希子)の曲を毎回流すという、神の御業(みわざ)のようなこともしてくれていたのである。
アイドル時代、誰もが認める売れっ子だったワケではないけれど、発売したシングル4枚の全てがヒットチャートの100位入りを果たしたという… これは声を大にして叫ばねばならない抜群の安定感である。アイドル時代、芸能界引退までの道のり、そしてその後の「スリリング」に反比例する地道な人生の歩みにおいてもダウン・トゥ・アース(地に足の着いた)… まさしくそのものであると筆者は思ってやまないのであ~る。