【倉敷市】倉紡記念館 ~ 日本遺産にも認定。日本の紡績産業と倉敷の歴史を伝える、クラボウの企業ミュージアム
江戸時代は天領として栄え、現在は観光地の賑わいを見せる倉敷。
「元気な町」という印象が強いですが、一時期これといった産業もなく衰退しかけた時代がありました。
どのようにして町が息を吹き返したのか、明治から現在までの135年以上にわたる記録が倉紡記念館に残されていました。
日本経済を支えた紡績産業とクラボウの歩みを伝えるお宝が多く収蔵されている、倉紡記念館を紹介します。
「倉紡記念館」とは
倉紡記念館は、1888年(明治21年)に紡績会社として設立した倉敷紡績株式会社(以下、「クラボウ」と記載)の歴史を伝えるために、創立80周年を記念して1969年(昭和44年)3月に開館した施設です。
当時使われていた機械や模型、文書、映像資料などで時代ごとのクラボウの変遷(へんせん)が紹介されているほか、展示資料からは時代背景や労働環境、町のようすなどもうかがえます。
建物は創業当時の原綿倉庫をリノベーションしたもので歴史的価値が認められ、以下の認定を受けています。
・登録有形文化財(1998年・文化庁)
・近代化産業遺産(2007年・経済産業省)
・日本遺産(2017年・文化庁)
・日本労働遺産(2023年・日本労働ペンクラブ)
※展示物の一部
五つの展示室
館内は、以下の五つのブロックに分けて展示されています。
・第1室・明治時代【1888年~1912年】
・第2室・大正時代【1912年~1926年】
・第3室・昭和時代(戦前・戦中)【1926年~1945年】
・第4室・昭和(戦後)~現代【1945年~】
・第5室・年表
第1室・明治時代【1888年~1912年】
創業の経緯や創業期のようすが、明治期の紡績機械や当時の文書などで紹介されています。
明治維新で代官所が廃止されたあと、めぼしい産業もなく衰退しかけていた倉敷の町で、「紡績産業を興したい」と3人の若者が立ち上がったことがクラボウ設立のきっかけでした。
倉敷は江戸時代から綿花の栽培地であったこと、そして明治政府が殖産興業政策のもと近代紡績産業を推奨していたことから3人は地元の有力者に説いて回りました。
最終的に初代社長となった大原孝四郎氏の賛同・出資。新しい事業の設立を知った多くの県民が共鳴して多数の株式引受の申込みが相次ぎ、不足分を大原孝四郎氏が引き受けることで事業化の目処が立ちます。こうして、代官所跡地にクラボウが誕生しました。
1888年(明治21年)3月9日「有限責任倉敷紡績所」として産声を上げたクラボウ。工場の設計だけでなく、生産機械も紡績の最先端をいくイギリス製で、消防ポンプまでイギリスから持ち込まれました。
第2室・大正時代【1912年~1926年】
26歳で二代目社長となった大原孫三郎氏の功績を中心に、飛躍的に発展した大正時代の資料が展示されています。
大原孫三郎氏は「従業員の幸福なくして事業の繁栄はなし」と語り、事業の多角化と同時に従業員のための環境改善施策に取り組みました。
従業員のために学校も作りましたが、最大の特徴は従業員寮です。
当時の寮はどこも40人~50人が大部屋で生活していたそうです。これを少しでも家庭に近いものにしようと、6畳と2畳の1軒に4人ほどが住む「分散寄宿舎」を作り生活環境を整えました。
また、倉敷労働科学研究所を設立し労働環境の改善に取り組むなど、労働理想主義を掲げて、従業員や地域社会のための施策を次々と進めました。
第3室・昭和時代(戦前・戦中)【1926年~1945年】
さらに事業を拡大した昭和期は、芸術・文化の振興にも取り組んだようすが紹介されています。
大原孫三郎氏の遺志を継いだ第四代社長の大原總一郎氏は芸術家とも交流を深めていきます。
「玉みがかざれば器とならず 人学ばざれば道を知らず」学問の大切さを説いた棟方志功氏の作品です。
1944年(昭和19年)に大原總一郎氏が「クラボウ社員のためになるものを描いてほしいと」依頼し、誰もが目にできるよう工場の礼法室に設置されていたそうです。
第4室・昭和(戦後)~現代【1945年~】
第4室は、戦後日本の紡績産業とクラボウが事業の多角化に取り組んでいったことが紹介されています。
倉紡記念館の設立当初は、従業員教育のために使用されていたそうです。
その後、1970年の日本万国博覧会に他社とともに出展し、そのときの展示品を持ち帰ったことをきっかけに一般公開されるようになりました。
第5室・年表
明治から現在に至るまでの総まとめの展示室。ビデオと写真、書籍などが展示されています。
100年以上の歴史を持つ社内報も閲覧できます。
戦時中も途切れることなく発行されていたそうで、それぞれの時代のようすも感じ取ることができます。
ボタンを押すと、100年以上前の倉敷の町のようすや工場で働く人々のようすを動画で視聴できます。
昭和の時代にクラボウに入社し社内報の作成にも携わり、現在は倉敷アイビースクエア総務部部長の髙橋亮輔(たかはし りょうすけ)さんに話を聞きました。
倉敷アイビースクエア 総務部長の髙橋亮輔さんにインタビュー
倉敷アイビースクエア総務部部長の髙橋亮輔(たかはし りょうすけ)さんに話を聞きました。
──倉紡記念館は歴史的価値が認められ、さまざまな認定を受けられていますね。
髙橋(敬称略)──
はい、倉敷美観地区一帯は江戸時代の姿も、明治・大正・昭和の姿も残しながら今に至っています。
倉紡記念館はそのなかにあって、明治の殖産興業の政策下で作られた近代化のための紡績工場の姿が当時のまま残っていることから「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」の日本遺産の構成文化財に認定されました。
また、戦争や老朽化で明治期の紡績工場が姿を消してきたなかで、繊維産業の歴史を現代に伝える貴重な建物として、登録有形文化財、近代化産業遺産にも認定されています。
二代目社長の大原孫三郎が100年以上も前に取り組んだ労働施策が、今の時代にも引き継がれていることなども伝えているという点でも非常に価値があり、展示物の一部が日本労働遺産にも認定されています。
──クラボウの創業は倉敷の町にどのような影響を与えたのでしょうか。
髙橋──
創業以来、規模を拡大し雇用を生んでいくなかで、クラボウは人材育成、従業員の幸せを常に考えていました。工場内に学校を作った取り組みは当時(明治〜大正時代)としては先進的であったと思います。
特に二代目社長の大原孫三郎は労働理想主義に基づき、ただ会社が一方的に利益を得ればよいというのではなく、従業員も幸せになるWin-Winの関係でないと、会社は持続的には発展しないという考えのもとに経営しました。
従業員寮の整備や健康診断を実施したり、従業員のために倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を作ったりしました。病院は後に地域住民にも開放されています。
このほかにも「大原社会問題研究所」「倉敷労働科学研究所」「大原奨農会農業研究所」などを設立し、さまざまな施策を通じて地域や社会への貢献に力を注ぎ、社会に大きな影響を与えました。
こうした取り組みは少なからず、倉敷の町の発展につながっていると思います。
──記念館の見どころを教えてください。
髙橋──
やはりクラボウという会社の歴史とともに産業の近代化を牽引(けんいん)し、明治・大正・昭和の途中までは日本の経済を支えていた紡績産業の歴史も伝えているところにあると思います。
珍しい点としては、100年以上前から続く社内報をすべてご覧いただけることです。
紙媒体だったものも修復しデータ化しており、1913年(大正2年)分から閲覧できるようになっています。第二次世界大戦中も発行が続けられていたため、軍需工場時代のようすなど、時代の移り変わりも感じていただけると思います。
面白いのは昔の貴重な動画が見られるということ、時代を感じてもらえるのではないでしょうか。
──倉敷市民にメッセージをお願いします
髙橋──
意外と地元のかたでも、「アイビースクエア」という名前は知っていても、倉紡記念館には訪れたことがないかたが多いと思います。
倉敷の町を支えてきた企業であり、貴重な歴史資料もあります。ぜひお越しください。
おわりに
倉敷美観地区を創業の地とした、クラボウの歴史を伝える倉紡記念館。
分厚い床板に高い天井、結露を防ぐために壁から張り出した桟や赤レンガの壁。初めて足を踏み入れた館内はまるでタイムスリップしたかのような空間でした。
日本の一時代を支えた紡績産業、その一翼を担ったクラボウの変遷の記録からは、それぞれの時代の倉敷の姿を垣間見ることができました。
倉敷アイビースクエア西門から入ってすぐの、少し奥まった場所にある倉紡記念館には、紹介しきれなかったお宝がまだまだあります。
ぜひ実際に足を運んで探してみてください。