新宿中井の「茶屋」は台湾のタイヤル族の女将の店だった【後編】
※前編より続く
https://deep-china.tokyo/restaurant-info/32032/
民俗学研究者の吉村風さんと訪ねた「茶屋」の台湾家庭料理の宴の次なる料理はこれ。
【4品目】カジキマグロの台湾炒め煮<三杯旗魚(サンベイチーユー)>
これは普段は出してない料理で、今回宴会の特別メニューで出してもらいました。カジキマグロのカマをぶつ切りにし、「三杯」という合わせ調味料とバジルで炒め煮にしたもの。
「三杯」は米酒(ミーチュー。台湾の米焼酎の一種)・醤油・胡麻油を同量混ぜた調味料です。(中華料理では碗献(ワンチェン)といってあらかじめ調味料を混ぜて料理に使うことが多いです。)この調味料にニンニクや唐辛子などを合わせて、鶏肉や皮蛋(ピータン)を炒める「三杯鶏(サンベイジー)」という料理が有名ですが、今回は特別にカジキマグロ(中国名:旗魚)のカマを使った「三杯旗魚(サンベイチーユー)」を作ってくれました。
女将さんの話では、「他の魚だと炒め煮にしたときに、肉が固くなってしまうけど、カジキマグロの脂ののったカマだと柔らかくプリプリとして脂が三杯にあうの。」とのことでした。「ただ、カマを切るの、力がいって大変だから、吉村さん手伝って」とのこと。おいしいものをいただけるなら喜んでお手伝いしましょう。
カジキマグロのカマを切ろうと腕まくりする筆者。ちょっと緊張しています
骨のついたカジキマグロのカマ。切るのは大変だけど、やはり骨がついている魚はおいしい
女将さんと並んで厨房に入る筆者
そしてこの料理で忘れていけないのは台湾バジル。普通のスイートバジルなどと較べると尖った葉っぱが特徴で台湾では九層塔(チウセンタ)と呼ばれています。
台湾バジル(左)と一般的なバジル(右)。葉の形が全く違うのがわかる
一般的なバジルと較べると香りが強いのが特徴で、今回の三杯旗魚でも、カマの脂とバジルの風味そして、三杯のピリ辛なタレが合わさった、エスニックな煮物といった風情の料理となっています。
カジキマグロの台湾式炒め煮。カジキマグロと甘辛な三杯の風味がとてもよい
【5品目】台湾唐揚げ<炸鶏排(ザージバイ)>
さて、シジミもたべたし、カジキマグロも食べたしと、うきうきしていたら、どうもいっしょに来た陽君、いまいち箸が進んでいません。
「どうしたの?」と聞くと「いやー実は、僕、魚介類だめなんです…」とのこと。
「真的嗎?(まじかよ!)。早く言ってよー」と思わず突っ込んでしまいましたが、彼は南京出身。内陸だから、あまり魚や貝に慣れてないのかもしれません。彼とはこの<茶屋>の近くの、刺身なんかもある焼鳥屋で知り合ったのですが、そういえば彼はいつも、焼鳥と厚焼き玉子ばかり食ってるのでした。
「お刺身嫌いなのかなー」くらいに思っていたのですが、まさか火を通した魚介も苦手とは思わず、幹事として、一生の不覚…。
どうしようかと困っていたら、女将さんが「それなら炸鶏排つくろうか」と助け船を出してくれました。
炸鶏排。サクサクした衣が身上。素揚げした台湾バジルもおいしい
炸鶏排。夜市で出すのは、食べ歩きで食べやすいように、また目立つように鶏肉をたたいて大きくしたものを出す店が多いですが、<茶屋>のは、鶏肉を一口大に切って、五香粉などで下味をつけ、タピオカ粉(地瓜粉)で衣をつけて揚げています。
女将さんの話では、台湾で普通に家庭料理として唐揚げを出すなら一枚にはせず、こうした形でだすとのこと。たしかにご家庭だったら、わけやすいように普通サイズで出しますよね。
炸鶏排はスパイシーさもですが、衣のサクサクとした歯切れの良さも大事。陽君のお相伴で私筆者も一ついただきましたが、衣の風味がとても良いものでした。
<茶屋>とは関係ないですが、以前陽君からもらった、陽君のご実家の安徽省のお土産。采石磯茶干というものとのこと。采石磯は揚子江沿岸の有名な古戦場。豆の練り物で独特の風味があって美味しかったです。安徽省料理も一度食べてみたい。
3. タイヤル族と<茶屋>
さて、この茶屋の重要な要素は、台湾の家庭料理だけではありません。実は女将さんは台湾の原住民族、タイヤル族(泰雅族、別名アタヤル族)の出身なのです。(注2)
原住民族というのは、17世紀以降中国大陸から漢族が来る前から住んでいた人々です。
台湾の原住民族にはアミ族、パイワン族、ブヌン族など16民族があり、総人口53万人と現在の台湾の人口の2%を占めています。
タイヤル族はその一つで、台湾北部の中央山脈の花蓮と宜蘭の山岳地帯に主に分布し、総人口7万5千人と原住民族のなかでは、アミ族、パイワン族についで、3番目に人口の多い原住民族です。(注3)
彼らは、山岳民族として焼畑農業と狩猟を主な生業とし、日本統治以前は首狩り(出草)の習俗や刺青など独特な文化をもつことで有名でした。日本統治時代の理蕃政策や、その後の中華民国政府による同化政策などにより、原住民族の人口は減少し、文化の維持が困難になった時代もありましたが、現在はタイヤル族など原住民の文化は台湾独自のアイデンティティをもたらす重要な要素として見直されつつあります。
<茶屋>の小上がりに貼られたタイヤル族の写真。紋面とよばれる。刺青の風習を有していたが、日本統治時代に禁止される
タイヤル族の杯。親交を深めるため二人でそろってこの杯をもって粟酒などを飲むという。右の写真はタイヤル族の女の子
タイヤル族の料理は塩漬けの豚肉など非常に仕込みの手間がかかる料理が多く、<茶屋>でも出していませんが、年に一度くらい、同じ台湾の原住民族で日本に来ている人たちに頼まれて、仕込むそうです。
また、<茶屋>では話好きの女将さんから、昔のタイヤル族の話を聞くことができます。
たとえば、タイヤル族の結婚式の結納では、必ず猪を妻の家に贈ることが必要なのだけど、その猪がなかなか用意できずに困った話。日本統治時代に建てられた小学校で、集落対抗で運動会をした話。子供時分、集落の倉庫に忍び込んで、まちがって酒を飲んでしまい、寝てしまい集落総出で探されてしまった話。などなど…。
筆者もいずれ、塩漬けの豚肉を仕込むお手伝いでもしながら、タイヤル族の話を聞いてみたいと思っています。
おわりに―ガチ中華と台湾料理
ガチ中華というと、2010年代以降、日本で増えた、中華圏の人たちが提供している料理や飲食店の、現地の味の料理を指すことが多いです。
一方、台湾料理は、戦前の交流などから早く日本に移入し、ジャパナイズされた中国料理として、ガチ中華の対極にある料理としてとらえられることが多いです。
でも、今回紹介した<茶屋>のように、台湾での現地の味や料理を伝えるとともに、現地の文化をうまく翻訳し、私たちに教えてくれる店はまだまだあると思っています。
皆さんもぜひ、そういう店を探して楽しんでください。そして良い店が見つかったら東京ディープチャイナにおしえてくださいませ。
そうそう、冒頭に話した麵線の話をするのを忘れていました。
実は麺線は台湾から良い麺が入らなくなかったため、現在やっていないそうです。筆者もまだ、<茶屋>の麺線は食べられていません。筆者はいずれ台湾に行って、いい麺を探して買ってきて。女将さんに作ってもらおうかなと思っています。
品切れ中の札が貼られた麺線の写真。これを食べられる日は来るのか
実は、<茶屋>は台湾の茶もおいしいのです。女将さんが淹れてくれる埔里の功夫茶を〆に飲むのは最高です
注2 日本では「原住民」という言い方について差別的なニュアンスがあり「先住民」の語を使うことが多いですが、台湾の場合、「先住民」というと中国語で「既にいなくなってしまった住民」という意味が含まれるため、「原住民」または「原住民族」と呼ばれます。
注3 台湾の原住民族文化(台北駐日経済文化代表処HP https://web.roc-taiwan.org:3000/jp_ja/post/202.html)
なお、台湾の総人口は2024年1月現在。約2342万人。(外務省 台湾一般事情 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taiwan/data.html)
注4 泰雅族(原住民族委員会 https://www.cip.gov.tw/zh-tw/tribe/grid-list/8C87B4AF56B788EED0636733C6861689/info.html?cumid=8F19BF08AE220D65)
(吉村風)
店舗情報
茶屋
新宿区中落合1-20-16
03-3361-5830
月火休み
代表からのひとこと
ある宴で知り合った民俗学研究者の吉村風さんから「中井にある台湾料理店は、タイヤル族の女将が切り盛りしている」という話を聞いて、思わずゾクゾクしてしまいました。
こんなことはめったにあるものではありません。
すぐに彼と一緒に店に行くことになりました。その様子やタイヤル族についての解説は、吉村さんが書いてくださったとおりです。
ではなぜぼくがゾクゾクしたかというと、若い頃(1980年代後半くらい)、台湾の南東岸に浮かぶ蘭嶼という離島を訪ねたことがあり、そこでおそらく最後の生存世代と思われる、日本語話者の島の老人たちとお話したことがあったからです。
彼らは台湾のいわゆる原住民のタオ族(あるいはヤミ族)でした。
訪ねたのは5月上旬で、その島ではトビウオ漁の季節でした。月夜の晩、伝統的な、しかしモダンアートのようなポップな絵柄が描かれた木彫りのボートに乗って、島の男たちは漁に出かけます。
ぼくが泊まった民宿のオーナーのおじいさんおばあさんが日本語話者だったので、その夜、日本統治時代の話を聞いたのでした(それほど流ちょうなものではなく、カタコトという感じでしたけれど)。
また1990年代前半に、太平洋にある南洋群島のトラック諸島(チューク諸島)を訪ねたことがあり、そこでも日本語話者の老人がいて、そのひとりは「酋長」と呼ばれる人でした。
ちょうどぼくが滞在していたとき、島の運動会がありました。小学校のグランドを舞台に島内各地の集落ごとに島民が1組、2組、3組、4組とチームに分かれ、徒競走やリレーをやっていたのです。大人も子供もみんな必死の形相で走っているので、ぼくも大興奮してしまいました。
その光景があまりに印象的で、聞くと、島の運動会は日本統治時代に始まったものでした。
そんなこともあったので、「茶屋」の女将に「タイヤル族の村でも運動会があったのではないですか」と訊ねると、彼女は「ありましたよ」とうなずき、自分は勉強はできたけど、足が速くなかったので、運動会は苦手だったと当時の思い出を語り出したのでした。
女将は、若い頃に来日し、日本の方とご結婚されたのですが、いま自分が子供だった頃のタイヤル族の暮らしや文化について、日本語でエッセイを書きためているそうです。
彼女の世代は、自分の親ではなく、祖父母の世代が最後の日本語話者だったわけですが、その思い出を記録に残したいと考えているというのです。それはどのような思いなのか……。
近いうちに、またお店をうかがい、お話を聞いてみたいと思っています。