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戦争の記憶をつなぐ 飛行機事故犠牲者の供養続ける 金沢区在住 酒井宣子さん

タウンニュース

墜落した飛行機のスケッチを手に持つ酒井さん

1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲、6月10日の富岡空襲から今年で80年。太平洋戦争を語り継ぐ世代が貴重な存在となっている。金沢区で生まれ育った郷土史研究家の酒井宣子さん(91・富岡西)は43年5月1日に称名寺付近に墜落した飛行機事故で亡くなった人の供養を今も続ける。

轟音と激震

金沢小学校4年の時、「終わりの会」をしている時に、校舎2階の屋根すれすれに飛行機が飛ぶのが見え、ドーンという音がしたために教室の窓をよじ登って外をのぞくと、称名寺方面に黒い煙が上がっているのが見えた。帰宅後、飛行機が墜落した同寺の仁王門付近に行くと、尾翼は残っているものの、機体はぐちゃぐちゃ、土に埋まった主翼の一部が見えた。地面は油が流れて真っ黒で、遺体は警防団に片付けられていた。

後年、墜落現場の近くに住む人から話を聞き、事故について調べたり、酒井さんが当時を思い出して描いたスケッチを見た人により、墜落したのは「九九式艦上爆撃機」で、亡くなった操縦士と通信士の2人の名前も判明した。遺族や共に航空隊で訓練をした人らが毎年のように現場にきて、供養を続けてきた。

一緒に事故を目撃した同級生も含め、当時を知る人は亡くなり「この事故のことを知っているのは私しかいない」と酒井さん。2012年、地元の仲間と発行した「横浜金沢の戦跡」にも書き記したが「事故から82年が経ち改めて伝えたい」と話す。今も仁王門の近くにひっそりと卒塔婆が立つ。「生きている間は供養を続けたい」

戦争の記憶

44年、秦野市の光明院に集団疎開。食べるものがなく、両親が持ってきてくれるのもふかしたじゃがいもや梅干しだった。終戦の日は一時的に実家に帰宅していたが、「母が泣いていた」ことを覚えている。戦争について問うと「口では言い表せられない」。「空襲警報が怖かったし、防空壕に避難してばかりいた」と振り返る。「戦争はしないでください。いっぺんにみんななくなってしまう。戦いはいや」。郷土史研究家として横浜海軍航空隊、野島掩体壕の話などを各地で語り継ぐ活動を続ける。

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本紙では、次代に語り継ぐ「戦争の記憶」を不定期で紹介します。「戦争」にまつわる体験談などの情報をお待ちしています。

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