「私も1人で見に行きました…」大竹まことが1991年の雲仙・普賢岳災害を語る
お笑い芸人の大竹まことが同世代や全世代の男女に向けてお送りしているラジオ番組『大竹まことゴールデンラジオ』(文化放送・毎週月〜金曜13:00~15:30) 2月3日の放送は、このたび尾崎行雄記念財団の『咢堂ブックオザイヤー2024』メディア部門大賞を受賞した、『シン・防災論―「政治の人災」を繰り返さないための完全マニュアル』の著者であるジャーナリストの鈴木哲夫氏を招き、防災について伺った。
大竹「いろいろ伺って参りたいと思います。鈴木さんのライフワークは自然災害と防災ですが、どうしてこれをライフワークになさろうと思ったわけですか?」
鈴木「もともと僕、社会部記者なんですね。政治部じゃないんですよ」
大竹「おお!?」
鈴木「政治部と思ってたでしょ(笑) 違うんですよ」
大竹「政治のこともいろいろね」
鈴木「私は福岡のテレビ西日本っていうところがスタートで、もう43~4年前かな。社会部記者になれなくて、この世界に入ったんですよ。たまたま10年ぐらいして、系列のフジテレビの政治部に出向する人事があったんです。少し政治を勉強してこいみたいな。それで永田町に足を踏み入れて、政治も取材するようになった。だから、本来僕は社会部記者なんです。
その福岡時代に強烈な経験だったのが雲仙普賢岳の火砕流。交代要員なんかで、みんな仲間も行ってて、僕ももしかしたらっていう状況でした。火砕流の後、いち早くヘリコプターで現場に取材で、行ったんです。惨状というか、遺体を見つけたりして、あのショックというのは…」
大竹「たしか記者の方も犠牲になられましたね」
鈴木「はい。知ってるカメラマンの方とか、消防団の方とか。山の向こうの方でワーッと大きな煙が上がる映像の記憶が皆さんあると思うけど、あの熱風は新幹線のスピードなんですよ」
大竹「あれが、そんなスピードなの?」
鈴木「遠くから見てるから。だから、みんな「なんだ」「すごいな」ってカメラを回してたら、新幹線のスピードで熱風が来るから」
大竹「巻き込まれちゃう」
鈴木「そう。僕が見つけた遺体はカメラマンの方だったんだけど、カメラを肩に担いで撮るじゃないですか。そのまま亡くなっていました。つまり「あっ」と思った瞬間。その時に、僕はショック受けて、もうこの仕事を辞めようと思ったんですよ。だけど、色々考えて、これを取材することが、社会部記者の使命なんだろうなと思って、それがきっかけなんです」
大竹「確か1991年の話だったと思います」
鈴木「そうです」
大竹「その暫く後に、私も1人であそこ、ちょっと見に行きました」
鈴木「ああ、そうですか」
大竹「新しい新築の家が、傾いたまま、土石流に埋まってたんですよね。まだ道路も繋がってない時に行って、すごい状況を見てまいりました。その後に1995年には阪神淡路大震災が起こりました。鈴木さんは、後藤田正晴さんの言葉が忘れられないそうですね」
鈴木「このとき僕は4日目から応援に入って、2週間、神戸にいたんです。皆さんご記憶にあると思うけど、村山富市さんが総理大臣の自社さ連立政権でした。村山さんが後に話してくれたんだけど、災害をどうするのか自分は無知だから、どうしていいかわからんって言って。それで、右往左往してたから、最初の方は、結構被害出たんですよね。ただ、何日かして、『危機管理の鬼』と言われた後藤田正晴さんが来て、村山さんに檄を飛ばした。何て言ったかというと…」