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村上春樹と「孤独のグルメ」の流行から見えてくる、韓国社会の新しい「幸せ」像――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」

NHK出版デジタルマガジン

村上春樹と「孤独のグルメ」の流行から見えてくる、韓国社会の新しい「幸せ」像――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」

人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、韓国のいまを伝えます

 流行語、新語、造語、スラング、ネットミーム……人々の間で生き生きと交わされる言葉の数々は、その社会の姿をありのままに映す鏡です。本連載では、人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、辞書には載っていない、けれども韓国では当たり前のように使われている言葉を毎回ひとつ取り上げ、その背景にある文化や慣習を紹介します。第1回から読む方はこちら。

#6 아보하(アボハ)

 3月19日、映画『劇映画 孤独のグルメ』が韓国で公開された。ドラマ版を長年愛してきたファンにとっては念願のスクリーン進出だ。韓国では大ヒットとはいかないものの、SNSやコミュニティサイトで静かな話題を呼んでいる。

 私自身、まだ映画館に足を運べていないが、「井之頭五郎がついに劇場に!」という知らせには妙にそわそわしてしまった。というのも、韓国でも10年ほど前からケーブルテレビなどでドラマ版が放映されていて、私もよく夜中に見ていたからだ。

 ドラマ版『孤独のグルメ』は1話60分にも満たない作品で、五郎さんがひとり外食を楽しむだけの内容。誰にも気を遣わず、自分のリズムで食の欲求に向き合うその姿が、韓国でもじわじわと共感を集めてきた。そんな五郎さんは、韓国では「프로혼ホ밥러(プロホンパプラー)(ひとりごはんのプロ)」と呼ばれている。

「혼밥(ホンパプ)(ひとりごはん)」は、かつての韓国社会を知る人ならば考えられないものだった。ところが、いまやすっかり定着しているのは、韓国の若い世代に「自分のペースで、誰にも気を遣わず過ごしたい」と願う空気があるからだろう。

 では、その空気はどこから来たのだろうか。今回は「아보하(アボハ)」というキーワードを通して、いまの韓国の「静かな幸福」を読み解いてみたい。

人に見せるための幸せって必要?

 ほんの数年前、韓国で「소확행(ソファッケン)(小確幸)」という言葉が流行した。村上春樹のエッセイ『うずまき猫のみつけかた』に登場する造語で、「小さくても確かな幸せ」を意味する。新しい靴下を手に取ったときの温かさ、好きな作家の新刊ニュース、朝飲むかぐわしいコーヒー……。日常の中でふと見つける、個人的でささやかな喜びのことだ。

 소확행(ソファッケン)は「高望みをせず、身近な幸せを大切にする」価値観として、韓国で受け入れられた。ところが次第に、ちょっとした「贅沢」や「自己投資」といった意味合いが加わるようになる。おしゃれなカフェでスイーツを食べたり、自分へのごほうびに高級リップを1本だけ買ったりといった具合だ。

 若者たちの多くは、それらをSNSにアップして、誰かと共有する。こうして소확행(ソファッケン)は「誰かに見せる幸せ」へと変化してしまった。

 けれどいま、そうした「見せる幸せ」に疲れを感じる声が少しずつ増えている。誰かと比べたり、誇ったりしなくてもいい。自分のペースで、無理なく過ごせる一日にしたい。そんな空気と呼応するかのように最近注目されているのが「아보하(アボハ)」という言葉だ。

 韓国の消費トレンドを予測した書籍『トレンドコリア2025』で紹介されたこの言葉は、「아주보통의하루(アジュボトンエハル)(ごく普通の1日)」の略語。「特別なことがなくても、無事に一日を終えられることが最大の幸せだ」という意味が込められている。

「静かな幸福」を味わう若者たち

 この言葉が台頭してきた背景には、韓国が抱える社会的疲労感がある。

 経済の先行き不安、SNSによる情報過多、終わりの見えない競争、社会的な衝突、梨泰院(イテウォン)の雑踏事故(2022年)、自然災害……。ここ数年、韓国では、心をざわつかせる出来事が相次いで発生した。そんななかで、「何も起こらない平凡な一日」こそが価値あるものとして見直されているのだ。

 この考え方は、「日常を大切にする」という点では소ソ확ファッ행ケンと通じている。けれど、소확행(ソファッケン)が「ちょっとした幸せを誰かと共有するもの」だったのに対し、아보하(アボハ)は「誰かに見せることなく、自分の心の中でそっと味わう幸せ」を大切にする。外に向かって発信するよりも、自分の内側でじっくりかみしめるような、より静かで深い幸福感なのだ。

「目立たなくてもいい」

「特別じゃなくていい」

 そんな感覚が、いまの韓国社会の空気を支えているように思う。

 実際、「家でゴロゴロするだけの週末が幸せ」「誰にも会わない休日が一番癒される」と話す若者も少なくない。아보하(アボハ)という言葉は、そんな「静かな幸福」への共感とともに広がりつつある。

すっかり定着した「おひとりさま」文化

 そして、この「アボハ的幸福」を支えているのが、혼밥(ホンパプ)(ひとりごはん)をはじめとする「혼(ホン)文化」だ。

 혼밥(ホンパプ)、혼술(ホンスル)(ひとり酒)、혼영(ホンヨン)(ひとり映画)、혼캠(ホンケム)(ソロキャンプ)……。韓国ではここ10年ほどで「혼(ホン)」のつく言葉が次々に登場した。「誰かと一緒じゃないと寂しい」と思われていた時代は終わり、ひとりの時間を前向きに楽しむライフスタイルが定着しつつある。

 その背景には、「ひとりで過ごすこと」に対する社会のまなざしそのものが変わってきたこともある。

 かつての韓国では、飲食店や映画館にひとりで入ることに気後れを感じる人が多かった。「食事は誰かと一緒にするもの」「ひとりでいるのは寂しいこと」という価値観が根強く、ひとりで行動することに対して、どこかネガティブなイメージがつきまとっていたのだ。

 しかし近年、そうした考えは少しずつ古いものになりつつある。ソウル市内にはひとり専用の焼肉店やラーメン店、誰とも会話を交わさずに食事ができるタブレット注文の店が登場し、ひとりでも居心地のよい空間が整ってきた。

 注文を済ませたら静かにスマホを眺めながら自分のペースで食事を楽しむ。そんな姿が日常の風景として当たり前になっている。東京ほどではないかもしれないが、いまやソウルも立派な「おひとりさまフレンドリー」都市だ。

心の中でそっと味わう幸せ

 혼(ホン)文化は、単なるトレンドではない。「誰にも気を遣わず、自分のリズムで過ごすことが一番の贅沢だ」と考える人々による実践なのだ。「心の中でそっと味わう幸せ」を求めるアボハ的幸福は、そんな「ひとり時間」と切っても切り離せない

 私はふだん締め切りに追われていて、まとまった時間を取るのが難しい。昼食を食べながら、あるいはちょっとした休憩の合間に、タブレットでYouTubeやOTT(動画配信サービス)を見るくらいが関の山だ。

 だからこそ、時間ができたときは、リビングで大画面のテレビをゆっくり見るようにしている。ソファは映画館のようにカップホルダーがついていて、背もたれも倒せるリクライニングを選んだ。照明灯をムードランプに切り替えれば、誰にも邪魔されず静かに過ごせる自分だけの時間だ。

 アボハ的幸福は、消費トレンドにも表れている。

 近ごろ、韓国ではパジャマにこだわる人が増えている。SNSにアップするわけでもなく、外に着ていくわけでもないのに、肌触りのいいコットンやシルク素材のパジャマを何着もそろえるのだ。昼はTシャツで済ませても、夜は「ちゃんとしたパジャマ」を着て眠る。それだけで、自分が少し大切に扱われているような気がする、という声もある。

 誰に評価されるわけでもないからこそ満たされる。この感覚が、まさに아보하(アボハ)だ。

こうした流れの中で、趣味のあり方にも変化が起きている。

 編み物やぬいぐるみ作り、読書、絵日記……他人の評価とは無関係な、時間を忘れて手を動かすことの喜びが見直され、「自分だけの時間」を楽しめる趣味を始める人が増えている。かつては「見せるため」だった趣味が、「没頭するため」のものに変わってきたと言えそうだ。

 先日、私が講師を務める韓国文学翻訳院の生徒さんが春らしいセーターを着てきた。優しいパステルトーンのかわいらしい服で、思わず「ステキ」と口から出てしまった。なんでも、自分で編んだのだと言う。

「最近は編み物がはやっていて、YouTubeでも編み方も教えてくれるから先生もすぐできますよ!」

 そう言って笑う彼女の姿に「誰かに見せるためじゃなく、楽しむためにやっている」という空気がにじんでいた。

 思えば、井之頭五郎もまた、その姿勢を貫いている。今日食べるものに理由なんていらない。街をぶらつき、ふと目についた店にふらりと入り、黙って席につく。注文のたびに心の中でひとり言をつぶやきながら、五郎さんは誰に見せるでもなく、ただ食事と向き合う。

 スマホで撮影することも、レビューを投稿することもない。人に評価されることのない時間。その静けさに、私たちはどこか安心する。過剰な編集も演出もない番組が長年愛されてきたのは、そんな「見せない幸福」を大切にする空気が、時代とともに少しずつ育ってきたからかもしれない。

 아보하(アボハ)。「ごく普通の一日」。特別なことをしなくても、誰かに見せなくても、静かに流れていくその一日こそが、いまの私たちには一番ありがたい。

 井之頭五郎は今日も変わらず「腹が減った」とつぶやき、静かにごはんを食べている。その姿にこそ、私たちがいま求めている「静かな幸福」が映し出されている。

プロフィール

金光英実(かねみつ・ひでみ)
1971年生まれ。清泉女子大学卒業後、広告代理店勤務を経て韓国に渡る。以来、30年近くソウル在住。大手配信サイトで提供される人気話題作をはじめ、数多くのドラマ・映画の字幕翻訳を手掛ける。著書に『ためぐち韓国語』(四方田犬彦との共著、平凡社新書)、『いますぐ使える! 韓国語ネイティブ単語集』(「ヨンシル」名義、扶桑社)、『ドラマで読む韓国』(NHK出版新書)、訳書に『グッドライフ』(小学館)など。

タイトルデザイン:ウラシマ・リー

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