備中とと道トレイル ~ とと(魚)を運んだ道を歩き、備中の魅力を知る60km
「とと道」という言葉を聞いたことがありますか。
笠岡市の金浦から、当時隆盛を誇った吹屋(高梁市)の銅山まで、約12時間かけて鮮魚(とと)を運んだ60kmにも渡る険しい山坂を越えて続いた道が「とと道」と呼ばれています。
筆者は昨年(2024年)から、やかげ聞き書き人の会に参加し、歴史・文化・生活・習慣などを地域のかたから伺って残す活動をしています。
インタビュー取材に応じてくれた、備中とと道トレイル推進協議会の事務局長金子晴彦(かねこ はるひこ)さんも、やかげ聞き書き人の会で活動するメンバーの一人です。とと道を語る金子さんから、ほとばしるような熱量や情熱が伝わってきました。
金子さんとお話ししていくうちに、「とと道をもっと知りたい」「とと道を多くのかたに知ってもらいたい」と思うようになり、改めてお話を聞きました。
備中とと道トレイル推進協議会とは
「備中とと道トレイル推進協議会」の活動は、とと道を各地区で独自に調べていた郷土史家が集まって、2017年からスタートしました。
その後、2020年にとと道の維持・活用のため、「備中とと道トレイル推進協議会」を設立します。
備中とと道トレイル協議会の、おもな活動は以下のとおりです。
・とと道ウォーク大会(12月~翌年5月頃)
・道標の作成・設置
・シンポジウムなどでとと道を紹介(広報活動)
・小中学校の児童・生徒にとと道を伝える出前授業
・夏のあいだに草が生えてしまうため、とと道の草刈り(11月頃)
協議会結成後4年で活動の成果が認められ、「備中とと道」は2024年2月に国土交通省中国地方整備局が認定する「夢街道ルネサンス」、2024年3月に「日本ユネスコ協会連盟 プロジェクト未来遺産2023」に登録されました。
「備中とと道トレイル」とは
この記事で紹介する「備中とと道トレイル」について説明します。
明治~昭和初期、吹屋(現在の高梁市)は銅とベンガラの生産で活気づいていました。とと道は、吹屋の夜の宴会で提供される瀬戸内海の鮮魚を届けるために使われた道です。魚を意味する「とと」を運んだことから、とと道と呼ばれていました。
とと道のルートは金浦(現在の笠岡市)から吹屋まで約60kmをほぼ一直線に北上します。道中にはあちこちに急坂や崖のそばを通る場所があったそうです。
午後9時、魚仲世(うおなかせ)と呼ばれる魚を運ぶ集団が、夕方までに金浦魚市場で競り落とされた鮮魚を竹籠に入れ天秤棒(てんびんぼう)の両端に吊して出発します。重量は約40kgもあったそうです。
そして、鮮魚が吹屋に到着するのは、金浦を出発して約12時間後の午前9時。5〜6人の魚仲世が駅伝のようにリレーして運んでいました。
時が流れ、輸送方法は人力から車や鉄道へ変わります。
人が歩く土の道であるとと道の多くは狭くて車が通れなかったため、時間の経過と共に森のなかへ消えてしまいました。
備中とと道トレイル推進協議会は、消えてしまったこの「とと道」を発掘・整備し、「備中とと道トレイル」として再開発し、広く周知する活動をおこなっているのです。
とと道ウォーク大会
「とと道ウォーク大会」は、とと道を知ってもらう広報活動としてはじまりました。12月~翌年5月頃までの間に4回ほど実施しています。
とと道ウォーク大会で一回に歩く距離は約20kmで、代表的なルートは次のとおりです。
・笠岡~井原市美星町三山(みやま)
・井原市美星町三山~高梁市成羽
・高梁市成羽~高梁市吹屋
とと道ウォーク大会の大きな特徴は、10kmにも渡る舗装道路やとても入り込めない草木の密生した場所は、バスに乗ってパスすることです。短い時間ですがバスに乗れば、休憩できて疲れがとれ、元気に歩き続けられます。
備中とと道トレイル推進協議会では、バスに並走してもらいながら歩く方法を「ハイブリッドウォーク」と呼んでいるそうです。シニアにはピッタリの歩きかたです。
参加者から「途中から足が勝手に動きだして、自分もまだまだ歩けるかもしれないと思った」など、前向きな感想を言われることが多いのだとか。
「備中とと道トレイル推進協議会」事務局長の金子晴彦さんに、とと道についてお話を聞きました。
備中とと道トレイル推進協議会の金子晴彦さんにインタビュー
「とと道」の調査
──とと道を知ったのはいつですか?
金子(敬称略)──
2016年6月頃ですかね。
僕は当時、備中県民局の支援を受けて、日本を訪れる外国人向けのツアーづくりなどをしていたんです。
備中県民局に行ったときに、高梁川流域学校のかたから「笠岡から吹屋まで魚を運んでいた、とと道という道があることがわかりました。だけど、成羽から南のほうのルートがわかっていません。成羽から南のルートがわかりますか?」と声をかけられたのがきっかけです。
──とと道を調べようと思った理由はなぜですか。
金子──
とと道の話を聞いた瞬間に、調べたいと感じました。
とと道についてなにも知らなかった僕は、知人に「とと道を知っているか?」と聞いてみました。
彼は「とと道があったことは知っているけど、どこに道があるのかは知らない。ただ、とと道に詳しい人を知っている」と教えてくれました。
彼から紹介されたのは、森山上志(もりやま たかし)先生と塩田宏之(しおた ひろゆき)先生。二人から「僕らはとと道を2006年から調べているんですよ」と言われてびっくりしました。
しかも、二人は2007年発行の高梁川流域連盟機関誌「高梁川」にとと道の調査報告を発表していたんです。それでとと道の内容を知り、さらに興味をもちました。
高梁川流域連盟機関誌「高梁川」の刊行は年に1回
とと道のルート特定
──ルートの特定はどのような方法でおこないましたか。
金子──
最初は、森山先生に各地の郷土史家を紹介していただきました。
紹介していただいた郷土史家にお話を聞きに行ったら、さらにそのかたが知っている郷土史家を紹介してもらう。こうした出会いをくりかえしました。
2016年12月、さまざまな情報をつなぎあわせると、とと道がどこを通っていたのかが、おぼろげながらわかってきました。
ただ、わからない場所が三か所あったんです。
──その三か所はどこでしょうか?
金子──
高梁市成羽~高梁市宇治(うじ)と、矢掛町宇内(うない)~井原市美星町毛野(けの)と、笠岡市長迫(ながさこ)周辺の三か所です。
──わからなかった三か所は特定できたのでしょうか?
金子──
宇内~毛野にあがる道は特定できました。
残りの二か所は今でもハッキリとはわかりません。どこから登っても似たようなものなので、いろいろな意見があり、今はそのなかから納得できそうなコースを暫定ルートとしています。
宇内~毛野間のルート探索は大変でしたが思いがけない偶然に恵まれました。
2017年1月、「2007年頃には毛野に道標があった」という塩田さんの記憶を頼りに、毛野周辺をあちこち探し回りました。
成果があまりにもなく、疲れきって探索を終えようとしていたところ、毛野の畑でたまたま作業をされていた農家のかたに、「とと道を探しているんですが、ここら辺に道標、ありませんでしたか?」と僕は思わず声をかけていたんです。
すると、斜面に広がる畑の上に100mほどにも渡って続く笹薮(ささやぶ)を農家のかたが指をさして、「あそこらへんにあったよ」と答えました。
僕は道標なんか見つからないだろうと思いながら、笹を刈り進めていくうちに、2間(約4m)幅の土の道が姿を現し始め、笹薮の底に埋もれていた「運命の道標」が姿を現したのです。
運命の道標は、長方形の石柱。あとから生えてきた細い木に押されて傾き、下の斜面に転がり落ちそうになっていました。
道標の東北側の面に「右 小田矢掛 為 亡牛 左 舊道」と刻字されていました。
道標の場所から南を見れば、左右に道があって二股になっていました。
道標に左の道は舊道(とと道)と刻字されています。左側を見るとその先は、とても入り込めない急斜面の森へ向かっていたのです。右下に進めば車の通れる舗装道路につながります。
右の舗装道路は、大正15年に完成・開通した新道でした。それまで使っていた道が旧道であり、とと道だったのです。
道標は「動かぬ証拠」なので、とても感動したことを覚えています。夕暮れの畑の脇で、全員で思わぬ大発見に万歳三唱をしました。
その後、森のなかを矢掛へ下る斜面を整備し、毛野地区のとと道が特定されました。
「とと道」を歩いて体感する、とと道ウォーク大会
──とと道ウォーク大会を始めた理由を教えてください。
金子──
とと道を整備したら「この道を歩いてもらいたい」という思いになりました。
最初のウォーク大会は、2018年1月14日です。募集をしたら多くの申し込みがあり、手ごたえを感じました。
とと道は、道がわかりにくかったり、道標を立てても抜かれてなくなったりすることもあるので、僕らがガイドとして一緒に歩くことで安全は保障できますよね。
2024年12月までを集計してみると、23回開催して648名が歩いてくれました。
──とと道ウォーク大会の開催で、苦労したことはありますか?
金子──
僕たちには旅行業者の資格がありません。
そのため、まず参加者に会員になってもらいます。協議会としてバスを予約するという形ですね。
ただ、協議会は会員だと思っていても、参加者は自分はお客さんだと思っている。互いに食い違いがあるんですよね。当日、お客さん感覚でいる参加者が無断欠席してバス代を協議会が補填したこともありました。
ただ、とと道ウォーク大会は広報活動の位置づけです。「しばらくは協議会からの持ち出しになっても続けよう」と考えています。
本来は誰もが道標と地図で道を探しながら歩いていただけるようになれば理想です。
これからのとと道
──IT道標を作っていると聞きました。どのようなものでしょうか?
金子──
僕らがIT道標と呼んでいるのは、道標につけた二次元バーコードを読み取るとGoogle Map上に自分の現在位置が表示され、これから進むべき道もわかるというものです。
僕たちがこれまで歩いてきた情報などを使って、電機メーカーを退職したメンバーが作ってくれました。
IT道標のおかげで、二次元バーコードを読み込めば、道が表示されるので自分がいる位置や進む方向がわかりますよね。個人で歩くときも、道に迷う心配が少なくなりました。
とと道ガイドブック
──とと道と言えば、作り込まれたガイドブックという印象があります。ガイドブックを作るときにこだわったところがありますか?また、資料集めなどで印象に残っていることはありますか?
金子──
2018年に最初のガイドブックを作ったときは、製本テープでとめたまさに手造りの冊子でした。
2024年1月には、とと道沿道の歴史、文化、自然をやや深掘りした「とと道見聞録」を発行、6月にはガイドブックの増補改訂版を出しました。
これさえ読めばガイドなしでもとと道が歩けることを目指したのですが、なかなか難しいですね。ともあれこうした冊子の販売が、今では会の唯一の運営財源になっています。
「とと道見聞録」を作るときに、「これを載せたい」と多くの郷土史家から原稿が送られてきました。僕は編集長だったので、とても大変でしたね。
一日中パソコンの画面を見ているので目がしょぼしょになって肉体的にはしんどい作業でしたけど、精神的にはとてもおもしろかった。
僕は、若い頃はとにかく山登りが好きでした。ヒマラヤの6,000m峰も登りました。登山にあたっては、計画、登山、記録の3点がかかせません。
その経験から、とと道の記録をしっかりとまとめておかないと完結しないぞという気持ちが強くあったと思います。
「とと道ガイドブック」と「とと道見聞録」は6年間の長い登山活動の活動報告なんですね。
夢街道ルネサンス
──「夢街道ルネサンス」の申請に期待したことはあるのでしょうか?
金子──
「自分たちで道を見つけたい」と思っていたのが、調査を続けていくうちに「とと道を残したい」という気持ちに変わっていきました。
でも、僕たちは老人ばかりで今後長く活動することはできないだろうから、何らかの形で世の中に認知してもらわないと、とと道の維持は難しい。
そんな折に、国土交通省中国地方整備局のかたが夢街道ルネサンス制度を教えてくれました。教えてもらったときは、とてもうれしかったです。
2024年冬に正式認定されたことで、今後とと道を残せるような気になりました。
夢街道ルネサンスは、歴史や文化を今に伝える中国地方の街道を「夢街道ルネサンス認定地区」として認定します。中国地方の豊かな歴史・文化・自然を生かし、地域が主体となって個性ある地域づくりや連携・交流を進め、地域の活性化を図ります。地域づくりとともに、目的地に向かって移動するだけでない”楽しみながら巡る”新しい「街道文化」の創出を目指します。
夢街道ルネサンスホームページより
日本ユネスコ協会連盟 プロジェクト未来遺産「100年後の子どもたちに残そう」
──日本ユネスコ協会連盟 プロジェクト未来遺産2023に登録されたことを聞いたときはどう思いましたか?
金子──
国土交通省の夢街道ルネサンスと日本ユネスコ協会連盟 プロジェクト未来遺産2023に認定されたことで、「とと道」と言ってもまあ世の中に少しは通用するようになったのかなと思っています。
夢街道ルネサンスや日本ユネスコ協会連盟 プロジェクト未来遺産の名前もお借りしながら、「とと道」の広報活動を続けていきたいですね。
日本ユネスコ協会連盟はそれぞれの未来遺産にキャッチフレーズをつけてくれますが、とと道の場合は「100年後の子どもたちに残そう」です。
調査を始めた2016年に、メンバー間ではこの活動を「10年間は続けよう」と約束しましたが、日本ユネスコ協会連盟から100年と言われて衝撃でした。
でも、壮大なスケジュールのなかで考えるほうがやりがいがあると大いと刺激を受けました。
未来遺産運動は、地域の“たからもの”を未来の子どもたちに伝えたい、という想いの下、
未来へと継承していくための地道な努力を続ける “人”と“活動”に光をあて、応援するものです。
日本ユネスコ協会連盟 プロジェクト未来遺産ホームページより
おわりに
図書館の勤務をとおして、地域の歴史への造詣を深めたいと思うようになった筆者。備中とと道トレイル協議会に関わる郷土史家たちは、地域史を調べるときに参考にする書籍を書いたり、編集したりしている郷土史家であることを知りました。
地元では著名な郷土史家が関わっていることを知った筆者は「備中の南に位置する笠岡市から備中の北に位置する高梁市の郷土史家たちが斬新なことをやっている。郷土史家たちを鷲づかみにしたものはなんだろう」と疑問をもったのです。
インタビュー取材をとおして、少しだけ答えが見えたような気がしています。
今度は、筆者自身がとと道を何度も歩いて、自分の目で確かめ、さらなる発見をしていきたいです。