写真が変えた日本の広告の歴史~天野幾雄さん
天野幾雄さん(Part 1)
1940年大阪府生まれのグラフィックデザイナー。1965年に東京藝術大学美術学部を卒業後、資生堂宣伝部に入社して、「ベネフィーク」「インウイ」「エリクシール」など主力ブランドのアートディレクション・デザインを手掛けました。2004年より独立し、これまでにADC(東京アートディレクターズクラブ)賞を3回、カンヌ広告映画祭金賞、ニューヨークADC銀賞など数々の賞を受賞しています。
JK:天野さん、今日は私の顔がいっぱいのネクタイしてくださってる!
天野:これ大好きでね! 200本ぐらいネクタイ持ってるんですけど、本当にこれはしょっちゅうしてて。学校の生徒が「カワイイ」っていうから(笑)本当にかわいいです!
出水:そもそも天野さんとジュンコさんの出会いは?
JK:長い長い長い長い!
天野:長いですね。72~73年、ジュンコ先生に資生堂のPR誌「花椿」の表紙の衣装デザインをしていただいたんですね。僕自身は直接関わっていないんですけど、宣伝部に「花椿」の編集部があったんです。同期が編集部にいたので、毎月表紙を見ることができた。
JK:「花椿」のように、きちっとしたものを残したのは資生堂だけですよね。今その展覧会をしてるんだけど、山口小夜子さんというすっごいチャーミングで日本の典型的な美しさを表現するモデルがいて、私のファッションショウにも出たんですよ。そこに横須賀功光さんと言うカメラマンが見て、この人たちと一緒に資生堂やろうよって。そこから始まったんですよ。
天野:ちょうど当時資生堂のベネフィークっていうブランドのモデルを探してて、ショウを見た横須賀さんからすぐ電話がかかってきた。それだけで合流して、ジュンコ先生も小夜子さんも横須賀さんもすぐに息が合った。第1回の撮影が六本木スタジオで・・・これが小夜子さんにモデルが変わった1回目のベネフィーク。
出水:今見てもカッコいいですね! コンセプトは何か決まったものがあったんですか?
天野:ベネフィークというブランドを商品の特徴だけでなく、やっぱり資生堂には歴史もあるので、資生堂にしかできないことを最初にやった。それまで化粧品の広告はほとんどバストアップだったんですよ。顔だけとか。でもこれが化粧品ファッションの始まりだったんです。
JK:小夜子の始まりでもあった。すっごくコンテンポラリーで、他のお化粧品も真似できないというか。すごくチームが良かったですよね。
天野:それでこのころは毎月広告売ってたんですよ。今でも2か月にいっぺんぐらいですけど、毎月。1年12回でしょ。それをずーっとやってたので、このシリーズだけで大きなストーリーができたんです。
JK:私は「花椿」の中もやったでしょう。資生堂入りびたりだったわ、あの頃。楽しくて! 天野さんも皆さんも藝大ですもんね。ベテランのセンスの人に囲まれて、いい仕事させてもらいました。今もこうやって仲良く展覧会に行ったり・・・赤坂で一世を風靡したMUGENでたまたま偶然カメラを持った天野さんと会って、その時の写真が私一番好き!
天野:たまたま階段を降りたところでスナップで撮って、そしたらジュンコさんがパッと壁に寄りかかって。僕も大好きな写真だし、今でも大事にしてる。
JK:モデルでも何でもないのにね(笑) ANAだったかJALだったか、機内誌にも載って。
天野:ANAの機内誌。それからパリのホテルのロビーにも飾ってある。
JK:プラザホテルね。フォンテーヌ通りから入っていくと、左側にだーっと有名人の写真があって、私も1つ飾ってあるの。ぜひパリに行ったら見てください!
出水:私はてっきりプロの方が撮った写真だと思ってました。
JK:そうじゃないのよ! 水割りかなんかもらいに行った帰りで、いつ撮ったのかも覚えてなくて。一種の歴史ですね!
天野:スマホだと、ポケットから出してる間に逃しちゃうもんね。僕にとっても渾身の1枚!
出水:今年3月、長年の若手育成と広告界の発展に寄与されたことから、第12回全広連日本戦伝承の吉田賞を受賞されました。おめでとうございます!
天野:ありがとうございます。本当にマサカと思いました!
JK:篠山さんもですよね。
天野:篠山さんは受賞が決まってから1月にお亡くなりになられて。「授賞式に出させていただきます」って言ってたんですけど、本当に残念ですね。篠山さんも僕は年齢が同じなんですよ。デビューも早くて、横須賀さんが日大芸術部の3年ぐらい先輩です。
JK:あの当時ってカメラブームじゃないですか? 立木さんとか荒木さんとか。有名カメラマンがドンドコ出て。カメラマンって一番カッコよかった! 一番のスターがカメラマンだった。
天野:ましてやTV CMが主流の時代になったので、カメラマンが活躍できる時代だったと思いますね。
出水:天野さんが広告で働き出したのは1960年代ですよね。
天野:66年に資生堂に入りました。まさに一番いい時代に入ったなあと思う。1960年代に社会デザイン会議があって、64年に東京オリンピック、70年に大阪万博があった。大阪万博の時はデザイン業界の中でも、グラフィックとかインダストリアルデザインとかパッケージデザインとかいろんな協会があるんですけど、そういう人たちが協働で組んで仕事する時代になっていた。高度経済成長、大量生産、大量消費の中で広告が花開いた。
JK:ポスターだとあの時代はグラフィックでは宇野さんとか横尾さん、あとは亀倉さん?
天野:あと田中一光さんね。
JK:50年前はグラフィックデザインってなかったんですか?
天野:ありました。でもまだ広告の時代じゃないし、写真の時代にも入っていなかった。資生堂でいうと、唐草とかアールヌーヴォーの華麗な線で女性の美を表現していた時代。今のような商品広告というよりは、企業イメージが打ち出されていた時代。
JK:写真を使って広告を変えたのは何だったんですか?
天野:決定的なのは東京オリンピックです。アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれて、初めて写真が使われた。それまでオリンピックの歴史では全部イラストレーションだったんです。そこからそれぞれのジャンルで日本の生活や産業に影響を与えてきた。でもどうしてもかけているのがファッションと建築なんですよ。それをこれからどうしても取り入れていかなければならない。9月~10月にかけて六本木のデザインHUBで展覧会があるんですが、その中では建築を取り入れていきます。ファッションも必要なので、ジュンコ先生にも是非お力を借りたい!
JK:私も広告の仕事してたから、ファッションデザイナーでグラフィックと関係してるのは私だけですよ。そういった意味では特殊かもしれない。
出水:60年代が写真勃興の時代だとすると、70年代は?
天野:60年代のマーケティングが花開いたところに乗っかって、1億総中流化の時代に入って、国際化が進展していく。大阪万博を通じて、デザインの各領域がコラボレーションしていく。もちろんTV界にも出ていきます。