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還暦過ぎても現役アイドル!松田聖子がデビューから45年経っても第一線でいられる理由

Re:minder

2024年06月08日 松田聖子のコンサート「Seiko Matsuda Concert Tour 2024 "lolli♡pop"」公演日(さいたまスーパーアリーナ)

松田聖子は、還暦を過ぎた今も “現役アイドル”


私、聖子さんがいなかったら、この世に生まれてないんです


そう語るのは、島倉りかさん。ハロープロジェクト所属のアイドルグループ、BEYOOOOONDS(ビヨーンズ)のメンバーである。FM番組『Flip The Records 〜 B面でも恋をして!〜』(JFN系)で私と共演している、昭和のポップスが大好きな2000年生まれの24歳だ。

島倉さんのご両親はともに熱心な松田聖子ファンで、それが縁で出逢い結婚した。娘の島倉さんも自然と聖子ファンになり、憧れ、ハロプロのオーディションに応募してアイドルになったのである。島倉家では今も親子で一緒にコンサートを観に行くそうで、こういう話を聞くと、あらためて松田聖子の偉大さとキャリアの長さを感じずにはいられない。

実際、コンサート会場では親子2代で観に来るファンも多いし、今年(2025年)でデビュー45周年ということは “おばあちゃんもママも娘も、3代にわたって聖子ファン” というファミリーだっているはずだ。そして松田聖子は、還暦を過ぎた今も “現役アイドル” なのである。コンサートで1980年代の楽曲を歌うときはアイドル然として歌うし、そこに違和感がないのがすごい。

そういえば先日、初めて松田聖子の武道館コンサートに足を運んだ50代の知人(聖子ファンではない音楽業界人)が “いっぺん観とくか、と軽い気持ちで観に行ったら、真剣に感動した。すごいものを観た!” と興奮気味に語っていた。そう、松田聖子は “懐かしのアイドル” ではなく、野球のピッチャーにたとえると “60代でも150キロ投げられるモンスター” なのである。だからこの “45周年” は重みが違う。ずっと第一線で現役を張っての45周年なのだから。

1980年代後半以降自身が楽曲づくりにも積極的に関わっていく


今回、その45周年の歩みをふまえてコラムを… という依頼を受けたのだが、正直、その活動の全貌を振り返るには何万字あっても足りない。なので、今回は松田聖子の “ある側面” に焦点を当ててみたい。

これは私の個人的な印象だが、松田聖子のヒストリーを語るとき、決まって80年代のアイドル時代、特に松本隆が作詞を担当していた時期にばかりスポットが当たりすぎていないだろうか? もちろん、その時代があってこその松田聖子だし、松本氏の貢献度は言うまでもなく大きい。

だが、デビューから45年経っても聖子が “現役” でいられるのは、1980年代後半以降、国内外の優秀なプロデューサーとタッグを組み、自身が楽曲づくりにも積極的に関わって、作詞・作曲はもちろん、アルバムのセルフプロデュースも手掛けるようになったからだ。アイドルとしての評価に比べると “アーティスト&シンガーソングライター&プロデューサー・松田聖子” の評価は不当に低いような気がしてならない。そこがファンに支持されているからこそ、今も衰えない聖子人気があるのに、だ。

松田聖子の類い稀なセルフプロデュース能力


ということで、今回のコラムでは、松田聖子はなぜ楽曲制作にも深くコミットするようになったのか? そして、類い稀なセルフプロデュース能力はどのように培われていったのかも考察してみたい。

聖子が初めて自分で楽曲づくりを手掛けたのは、アルバム『ユートピア』(1983年)収録曲「小さなラブソング」である。聖子は「SEIKO」名義で作詞を担当(作曲:財津和夫)。また作曲も手掛け、アルバム『Canary』(1983年)ではタイトル曲「Canary」、『SUPREME』(1986年)では「時間旅行」を書いている(2曲とも作詞:松本隆)。この時期から作詞・作曲に関わった経験が、その後大いに役立つことになる。

ところで私は、聖子を発掘し、担当ディレクター、プロデューサーとして黄金期を支えた元CBS・ソニーの若松宗雄氏にインタビューしたことがある。その際、若松氏が強調していたことは “聖子は楽曲のキモになる部分を初見でパッと把握して、自分のものにしてしまう天才” ということだった。

聖子が独特の表情をつけて歌った「赤いスイートピー」


アイドルとして人気絶頂だった80年代、聖子のスケジュールは超多忙で、新曲を念入りにレッスンしている余裕などなかった。なので曲ができたら即レコーディング、という状況だったが、いつも数テイクでOKが出ていたというから驚く。重要なのは、作詞家・作曲家が作品に込めた意図を瞬時に理解する勘の良さだけでなく、聖子がそこに “自分の解釈” を加えていたことである。

たとえば代表曲「赤いスイートピー」(1982年、作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂=松任谷由実)は歌詞だけ見ると “松本隆ワールド” だし、曲だけ聴くと “ユーミンワールド” なのだが、聖子が独特の表情をつけて歌った時点で、この曲は “ザ・聖子ワールド” になっている。つまり、80年代アイドルシーンの先頭を走っていた頃から、どうしたら自分がより映えるのかを考える “セルフプロデュース能力” が聖子には備わっていたわけだ。

アルバム「Seiko」で念願の全米デビュー


その才能は、海外の大物プロデューサーとの出逢いでさらに磨かれる。1985年リリースのアルバム『SOUND OF MY HEART』では、グラミー賞を14度も受賞したフィル・ラモーンと組み、1988年発売のアルバム『Citron』では、マドンナやホイットニー・ヒューストンを手掛けたデイヴィッド・フォスターにプロデュースを依頼。先行シングル「Marrakech〜マラケッシュ〜」が収録されているアルバムで、聖子はこのとき、わざわざレッスンを受けて発声法を変えている。そう、世界を見据えていたからだ。

1990年、聖子はアルバム『Seiko』で念願の全米デビューを果たす。日本ではトップアイドルでも、アメリカでは実績ゼロからのスタート。“自分らしさを主張しないと、世界では戦えない” ことを身に沁みて知った聖子は、ここでまたひと皮むけた。

初めてのセルフプロデュース・アルバム「1992 Nouvelle Vague」


1990年代に入ると同時に、自身が書いた楽曲が増えていったのもそのためで、聖子はシンガーソングライターとしての才能も発揮していくことになる。1992年リリースの『1992 Nouvelle Vague』で、聖子は全曲の作詞を担当しただけでなく、小倉良との共作という形ですべての作曲も手掛けた。聖子が口ずさんだり、ピアノで弾いたメロディをベースに小倉が整える、というスタイルで、本作は聖子にとって初めてのセルフプロデュース・アルバムになった。

聖子が書く詞は、非常に情熱的で、自分の感情をさらけ出したものが多い。ダンスナンバーが大幅に増えていったのも、海外マーケットを意識していたからではあるが、自分の心情にもフィットしていたからだろう。作詞は自身、作曲は小倉と共作というスタイルはその後も続き、シングル「きっと、また逢える…」(1992年)はオリコン最高4位、「大切なあなた」(1993年)は最高7位と自作でトップ10入りを記録。他人が書いた作品で連続1位を続けていた頃とはまた違った喜びがあったに違いない。

1994年リリースの「輝いた季節へ旅立とう」はチャートこそ最高12位にとどまったが、この曲で聖子は6年ぶりに『NHK紅白歌合戦』に出場。『2001年宇宙の旅』のテーマにのって巨大なミラーボールがステージに下降。中から聖子が現れたときのインパクトは大きかった。かと思ったら、翌1995年の『紅白』では、ピンクのドレスにクマのぬいぐるみを背負って現れ「SEIKO Chan to La La La」と銘打ち「青い珊瑚礁」などのヒット曲をメドレーで披露。これまたインパクトは絶大で “アイドル性とアーティスト性の両立” という聖子の魅力は、30年前のこの『紅白』ではっきり確立されたように思う。

ミリオンセラーを記録した「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」


1996年、聖子はデビュー以来所属していたレコード会社(CBS・ソニー〜ソニー・ミュージックレコーズ)から、マーキュリーに移籍。第1弾シングル「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」(「明日へと駆け出してゆこう」と両A面)がオリコン調べで自身初のミリオンセラーとなり、「旅立ちはフリージア」(1988年)以来遠ざかっていたオリコン1位に8年ぶりに返り咲いた。この瞬間、聖子は80年代の自分をセールス面でも超えたのである。

またこの1996年は、全米向けアルバムを再びリリース。ロビー・ネヴィルをプロデューサーに迎えた『WAS IT THE FUTURE』はR&B路線で、ここからシングルカットされた「Let's Talk About It」は米国ビルボードのクラブチャートで上位にランクインしている。

90年代後半、聖子は私生活でも話題をふりまいた。1997年、正月早々神田正輝と離婚すると、翌1998年に6歳年下の歯科医と再婚… と思ったら2000年暮れに再び離婚。当時、某ワイドショーの作家をやっていた私は、何度聖子に感謝したことか(笑)。2度目の結婚の際、20代の女性ADが “聖子ちゃん、カッコいい!” と言っていたのが今も印象に残っている。音楽面でも私生活でも自分が選んだ道を突き進んでいた聖子は、自立した女性の象徴でもあった。

「夏物語」では原田真二とデュエットを披露


2000年、聖子はデビュー20周年を迎えた。作曲面で小倉良との共作は続いていたが、20周年記念アルバム『20th Party』では新たなパートナーが加わった。原田真二である。聖子はデビュー前、原田の大ファンだった。このアルバムで聖子が作詞したのは2曲だけ。原田が手掛けた楽曲が10曲中実に5曲を占めており、ラスト曲「夏物語」ではなんとデュエットまで披露している。

次作アルバム『LOVE & EMOTION』は『VOL.1』(2001年6月)『VOL.2』(同年11月)と “連作ミニアルバム” の形でリリースされた。両アルバムとも、作詞は聖子と原田がそれぞれ手掛け(共作もあり)、作曲と編曲は原田が担当。原田とのコラボはアルバム『Sunshine』(2004年)まで続き、音楽的才能の塊でもある彼から吸収したものも大きかっただろう。

デビュー25周年を迎えた2005年には、編曲面で聖子を支えてきた鳥山雄司のプロデュースでアルバム『Fairy』を発表。聖子作詞・鳥山作曲の「永遠さえ感じた夜」は秀曲! また、暮れにリリースしたクリスマスアルバム『Under the beautiful stars』から再び小倉良とのパートナーシップが復活。2006年には、1989年の事務所独立以来ずっと疎遠になっていたサンミュージック会長の相澤秀禎氏と17年ぶりに再会し和解。業務提携を始めるなどの動きもあった。

クインシー・ジョーンズの勧めでジャズアルバムをリリース


これまで支えてくれた人との縁を大切にする一方で、新たな挑戦を忘れないのも聖子流。2011年には竹内まりやが作詞・作曲を手掛けたシングル「特別な恋人」をリリース。この曲はオリコン14位にランクインした。デビュー35周年の2015年には、31年ぶりに松本隆・呉田軽穂コンビによるシングル「永遠のもっと果てまで / 惑星になりたい」(両A面)を発表。旧交を温める一方で、翌2016年にはYOSHIKI作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って」がオリコン最高6位にランクイン。こういったコラボ相手の人選も絶妙だなと思う。

2017年には、本格的にジャズに挑戦した意欲的アルバム『SEIKO JAZZ』をリリース。“キミはジャズをやるといいよ” と聖子に勧めたのはなんとクインシー・ジョーンズで、2019年に『SEIKO JAZZ 2』、2024年に『SEIKO JAZZ 3』をリリース。クインシーの見立て通り、酸いも甘いもかみ分けた聖子が歌う英語詞はけっこう味わい深く、ジャズは彼女の新たなライフワークになった。

そんなふうに聖子は、デビュー45周年を迎えた今年も、自分の原点に立ち返りながら、同時にファンをアッと言わせる挑戦を続けていくに違いない。半世紀近くにわたって、歌手・松田聖子を輝かせ続けてきた名プロデューサーは、他ならぬ聖子自身なのだ。

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