「危ないくらい、ひょうきんでした」。俳優・光石研の根っこにある演劇ソースは、ふるさと北九州・黒崎
北九州市黒崎のひょうきん者、研ちゃん。俳優人生の始まりは、17歳で博多が舞台の映画で主演を務めたこと。カオスな黒崎の記憶から、北九州でロケが行われた映画『逃げきれた夢』での意外な“共演者”まで、九州ラブ全開トーク!
光石 研
みついしけん/1961年、福岡県北九州市出身。高校在学中のオーディションで主役に抜擢され、1978年に映画『博多っ子純情』で俳優デビュー。以降、映画やドラマなど映像作品を中心に活躍。2023年公開の単独主演映画『逃げきれた夢』は、第76回カンヌ国際映画祭ACID部門へ正式出品、第33回日本映画プロフェッショナル大賞主演男優賞を受賞。
Instagram:https://www.instagram.com/kenmitsuishi_official/?hl=ja
あらゆる職種の人やものがごった煮になった町
—— 光石さんが高校まで過ごした北九州市は“鉄の町”。黒崎はどんなところでしたか?
光石 黒崎は、どこにも徒歩10分で行けるような狭い町なんです。駅から放射状に商店街が延びていて、レコード屋さんから文房具屋さん、うどん屋さんに薬屋さん、デパートもあったし、映画館も8軒くらいありました。
ホワイトカラーもブルーカラーも、アウトローのプロの方まで、あらゆる職種の人やものがごった煮になった歓楽街。学校の近くにいかがわしい店があったり、八百屋さんの隣がキャバレーだったり。
僕、見ましたからね! 学校の先生がキャバレーから酔っ払って出てきて、お姉さんに「ばいば~い」って見送られているの。わっ、先生あんなところ入ってる!って。
—— まさか、そんなシーンを生徒に目撃されるとは(笑)。
光石 僕らの時代、子どもはわんさといて、黒崎小学校の児童は1000人。クラスの半分くらいが商店街で商売をしている家で、残りはだいたいサラリーマンの家。
僕の両親は八幡(やはた)製鉄所(新日鐵)で働いていて。ひとりっ子で臆病だったから、自分のなかで、あの道から向こうは行っちゃいけないとか、商店街に行くときは、ランニングじゃなくシャツを着ていかなきゃとか決めていました。
1960年代、1970年代当時、新日鐵は三交代制で24 時間、鉄を作っていました。朝、仕事が終わったおじさんでにぎわう角打ちの横を通って、子どもたちは登校するんです。四六時中、誰かが飲んでますから、放課後おつかいで料理酒を買いに行くと、「おう、研ちゃん」なんて声をかけられる。
子どもの頃からある『いのくち(酒店)』さんは、いまもにぎわっていますよ。
明るさもいかがわしさも、いまの演劇ソース
光石 僕はあの町で、明るい世界もアンダーグラウンドも、たくさん見ましたから。俳優さんって、明るくてポジティブなだけがいいわけじゃない。ネガティブな世界も知らないと屈折できない。だから僕の根っこにある演劇ソースは、黒崎です。
—— 聞くほどに黒崎にそそられます。地元名物などはあります?
光石 やっぱり北九州発祥の『シロヤ』のパン。本店の黒崎店は実家のすぐ近くで。うちは、日曜の朝食はいつも『シロヤ』の食パンだったので、よくおつかいに行きました。いまの社長は二つ下で、小・中学校が同じなんです。ぜひ食べてください。
—— 主演映画『逃げきれた夢』には、光石さんの思い出の公園なども登場。故郷でのロケはいかがでしたか?
光石 照れくさかったですね~。生まれ育った町でお芝居をするのは。全部見透かされているようで、どんなにカッコつけた芝居をしても、町が笑ってるんですよ。
撮影中に電柱の影から友だちが見てたりして、「いいから帰れっ」って追っ払ったりして。小学校の同級生とは、いまもつながっていて、50歳、55歳の同窓会には100人近く集まりました。
—— 映画には、とてもダンディなお父さまもご出演を。
光石 そうなんですよ~。事務所の社長の提案で、まさか父親と共演することになるとは(笑)。
父は型破りな人で、僕が小学3年生の時に会社を突然辞めて、黒崎の商店街で喫茶店を始めたんですよ。名前は「シーハイル」。繁盛していたのに、5年経った頃、突然やめるって言いだして。
理由を聞いたら「人(客)の話を毎日聞かなくちゃいけない。俺がしゃべりたいのに」って。
母は55歳まで働き続け、その後、ピアノを習ったり、絵を習ったり。ずっと支えてくれてたんですよ、家計を。
血が騒ぐ黒崎祇園山笠。思い出作りに出た夏
—— お父さまはおいくつ?
光石 92歳です。いま、なぜかコミュニティFMでしゃべってるんですよ。知り合いの方の番組にゲストで呼ばれたら「光石さんのお父さん、おもしろい」と言われ、いつしか“光石パパ”の番組ができたそうです。僕に「ラジオ聴いたか」って言うんです。腹が立って、絶対に聴いてやるもんかって(笑)。
でも「ネタはノートに書いていったほうがいいよ」とアドバイスはしました。「おう」なんて言ってましたけど。ネタだけはいっぱいもってるんですよね。
—— 見事「しゃべりたい」を叶えている光石パパ、すごいです!
光石 父の血を、僕は7割くらい継いでいるような気がしますね。もってる熱が似ているような……。
ちょうどおととい、今年の「黒崎祇園(ぎおん)山笠」の様子を地元の友だちが動画で送ってくれたんですよ。子どもの時から、ずっと出てたんで、あのお囃子(はやし)の音を聞くと、やっぱり血が騒ぐんですよね。
小学生は、鉦(かね)と大太鼓と小太鼓を叩く3人が花形なんです。オーディションがあって、僕も鉦にチャレンジしたけど全然ダメ。
中学生になると「ヤマなんて」とカッコつけて出ませんでしたが、高校3年生の時は、黒崎での思い出を作るために友だちと出ました。
映画に出てもぜんぜモテない
—— 思い出を作るため?
光石 「来年は東京に行く!」と決めていましたから。俳優さんになろうと思って。高校2年生の時、友だちから「博多が舞台の映画のオーディション(『博多っ子純情』)があるから、みんなで受け行かんや!」って誘われ、映画のオーディションって何? カッコいい~!と受けに行ったんです。
前日、友だちにおちょくられてケンカになり、おでこを2針縫って。オーディションに絆創膏(ばんそうこう)を貼って行ったら、「どうしたの?」って審査員の方に聞かれ、「ケンカしました」「勝ったの、負けたの?」「負けました」と。
そうしたら、みんな笑って「じゃ、ケンカのマネをやってみて」とやってみたら、また大爆笑。結局、全員がケンカの芝居をやったんですが、僕がやるとウケる。それで主演の一人に選ばれたんです。
—— 負けも運に変える熱と力!
光石 子どもの頃からひょうきん者で、学校の先生のマネをしたり。いつもふざけるのが好きで、「ちゃんとしなさい!」と怒られてばかりだったけど、映画界の人たちは「おもしろい」と褒めてくれる。
味方になってくれる人がいる。撮影もすごく楽しくて、俳優さんになろうと決めたのはそこからです。
同級生に対して「僕は君らとは違うんだよ。映画の世界や、東京を経験してるんだよ」なんて、ちょっと勘違いしてたところがあります。わははは。
—— 女の子から人気も?
光石 いいえ。まったくモテません! ちょっと話がおもしろい系、とかじゃないですから。あいつは本物だ……って言われる、危ないくらい、ひょうきんでしたから。
ツアーTもあります。北九州ラブの仲間たち
—— 同じひょうきんオーラを感じさせる「リバーサイドボーイズ」、川沿いの仲間について教えてください。
光石 北九州市、中間市、遠賀(おんが)郡を流れる遠賀川という川があるんです。北九州市の俳優仲間である、でんでん先輩は中間生まれで遠賀育ち。鈴木浩介くんは折尾出身。野間口徹くんは永犬丸(えいのまる)出身。
僕ら4人の故郷に、遠賀川が流れていることがわかり「俺たち、リバーサイドボーイズですね!」って、僕が言いだしたんですよ。そんな話をしていたら、ユナイテッドアローズさんが、Tシャツを作ってくれて。
架空のバンドのツアーTシャツという設定を僕が考えて、1995年のツアーのもの。着古したら年代ものの古着っぽくなるねという遊びです。
—— ちなみに、お仕事やプライベートではどんな旅を?
光石 奥さんと九州に行く時は、黒崎を起点に小倉や門司(もじ)へ出かけたり、ベースキャンプを博多にして、佐賀の有田に器を見にいったり。
やっぱり九州が好きなんですよね。九州ってだけで、あの地に着くだけでうれしい。仕事で行く時は、必ず1日多めにとります。
熊本の人吉は、撮影で1カ月滞在したんですけど、のんびりしていて、とてもよかったですね。熊本は城下町だからどこか上品だし、ちょっと都会でしゃれてる。お店屋さんもタクシーの運転手さんも、話すリズムがみんなゆったり。
—— 黒崎よりもゆったり?
光石 黒崎はまた違う次元の話です。黒崎に都会はない。しゃれた雰囲気もない(笑)。どこで誰と話しても、角打ちのおじさんとしゃべっている気分になります。
「ギラヴァンツ北九州」っていうサッカーチームがあるんですけど、角打ちに、そこのタオルマフラーを巻いてる常連さんがいて、「おじちゃん、仕事はなんしようと?」って聞いたら「タクシー運転手たい」って言うんです。昼の3時から飲んでるんですよ? やってないでしょう!
それで、僕の肩をつかみながら「芸能人ちゃ、いくらもろとうと?」とか聞いてくる。それが黒崎という町です!
『リバーサイドボーイズ』——光石さんの青春時代から仕事の裏話まで
同郷の俳優仲間との会の名を冠したエッセイ。黒崎での幼少時代の思い出から、映画やドラマの舞台裏、かわいすぎる愛犬の話まで、世界を常にひょうきんに見つめる、光石研ワールドに浸れる一冊。
三栄/1760円/四六判
聞き手=さくらいよしえ 撮影=千倉志野
『旅の手帖』2024年10月号より
ヘアメイク=大島千穂
スタイリング=上野健太郎
衣装協力:ジャケット¥79,200、シャツ¥30,800、パンツ¥35,200、ネクタイ¥14,300/ts(s)(ts(s) Daikanyama Store☎03・5939・8090)、シューズ¥29,480/Timberland(VFジャパン/Timberland☎0120・558・647)