第29回【私を映画に連れてって!】初めて合作映画に参加した三上博史、ユン・ピョウ主演『孔雀王』で体験した香港映画スタイル
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
10月27日に第38回東京国際映画祭が開幕する。今回、25年前に製作した『ヤンヤン 夏の想い出』(エドワード・ヤン監督/日本・台湾合作)、『スワロウテイル』(岩井俊二監督)の4K上映や、マーケット部門であるTIFFCOMで、合作などのシンポジウムに参加予定である。
初めて合作と呼べる映画に参加したのは『孔雀王』(1988/日本・香港合作)だ。
『私をスキーに連れてって』(1987年11月)を公開し、シネスイッチ銀座を設立しスタート(1987月12月)した時に、同時並行でこの香港との合作をやっていた。
残念ながらフジテレビにも合作映画の経験はなく、手探りというより、場当たり?で進めて行ったように思う。
ただ、近年、この30年以上前に作られた映画のリバイバル上映のリクエストが多く、DVDにもなっていないのは残念である。
この映画の成立には、フジテレビのゴールデン洋画劇場枠で、何度もジャッキー・チェンを中心とした香港カンフー映画が高い視聴率を取っていたことも大きな要因だ。
『酔拳』(1978)、『蛇拳』(1978)などは何度やっても(リピート放送)20%を獲得していた。『プロジェクトA』(1983)や『香港国際警察/ポリス・ストーリー』(1985)などの傑作映画ももちろん視聴率を取っていた。
▲1985年から89年にかけて「週刊ジャンプ」に連載された荻野真原作漫画『孔雀王』。第1巻の単行本初版は予約を含め、発売からわずか数時間で5万部が売り切れ、単行本全17巻、文庫本全11巻の大ヒット作となった。88年に、日本・香港の合作映画としてラン・ナイチョイ監督で映画化された。三上博史とユン・ピョウが呪われた悪魔の子(双子)として生まれた孔雀とコンチェで共演。日本からは、安田成美、緒形拳、左とん平らも出演している。ユン・ピョウは『孔雀王』の前日譚的作品である90年日本公開の日本・香港共同制作映画『孔雀王 アシュラ伝説』にもコンチェ役で出演し、孔雀は阿部寛が演じている。名取裕子、勝新太郎も出演している。
その流れだったのか、『皇帝密使』(1985/ツイ・ハーク監督/サミュエル・ホイ主演)の応援隊として香港へ行き、日本公開でのプロモーション番組を作ったりもした。
香港映画のヒット作の多くは<ゴールデンハーベスト>グループが製作していた時代。ジャッキー・チェンらもそのグループのメンバーだったと言える。
しかも、彼らは『キャノンボール』(1981/香港・20世紀FOX合作)でアメリカ進出。その後『レッド・ブロンクス』(1995/ゴールデンハーベスト製作/ジャッキー・チェン主演)では、全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げる。日本映画がアメリカで大ヒットすることなど無い時代だ。
香港とのアクション映画の合作の原作として選んだのが「週刊ヤングジャンプ」で連載中だった『孔雀王』(荻野真:原作)だ。日本の密教ミステリーと香港得意のアクションを合体させた面白い映画を目指したのだろう。
ところが、プロデューサーのぼくの経験値の無さもあり、合作映画としての相互の意見の落としどころが読めない日が続く。
キャスト、スタッフは双方から参加することでスタートした。
製作費は半々。8億円弱をそれぞれが3~4億円の出資で。その後の『力道山』(2004/韓日合作)もそうだったが、スタッフ配分をどうするか、撮影地は、言語の問題など、出資、投資だけではない「共同製作」の難しさが伴う。
お互いに、まずキャストを決めよう、となり、ちょうど『私をスキーに連れてって』(1987)のあとで三上博史さんが人気急上昇していたので、日本側の主演に彼と、ヒロインに安田成美さん、そして緒形拳さんの出演予定を伝えた。香港側からは「こっちは誰がいい?」と聞くので、「そりゃ、ジャッキー・チェンが最高ですね」と言った。「そうか、じゃあ、1億2千万円くらいは必要だけど、日本側のキャスト費は3人で幾ら?」のような会話になった。日本の俳優費は香港に比べると桁が1つ違うくらいといってもよく、3人足しても全く釣り合いが取れなかった。
そこで「香港で人気NO2は?」と聞くと「ユン・ピョウね」となり、「ギャラはジャッキーの半分くらいね」と。ユン・ピョウも大好きな俳優だったので「日本の俳優3人足しても足りないな……」と思いつつ、ここはユン・ピョウで手を打った感じになった。香港はスター主義だ。まず俳優、それから企画・シナリオ、それから監督を決めたりする。『孔雀王』の時も監督を決めたのは最後だった気がする。
それも香港らしいのだが「原作、脚本は日本だから、監督は香港ネ」くらいのノリで進んで行き、後に言葉の問題でも苦労するのだが。製作費の折半が、どこまでも付き纏う。
原作は「孔雀」と呼ばれた1人の男が主人公だが、映画では既に2人の主演俳優がいる。そこで突然、二人は生き別れていた兄弟の設定になる。これは原作には無い。 脚本は日本人なので日本語で書く。それを香港側は中国語に訳す。日本語のシナリオでは兄弟は日本語を話す。さて、ユン・ピョウは何語で撮影に臨むのか……。
▲『孔雀王 アシュラ伝説』香港公開版では、ユン・ピョウが孔雀を、阿部寛がコンチェを演じたバージョンが公開されている。『孔雀王』の製作中に、筆者は悪性肉腫で左足を一部切除し松葉杖に。ユン・ピョウは撮影の最初の段階のアクション・シーンで、骨折。日本での撮影時の変なツーショットとなった。
こんな初歩的なギャップの中で、香港メインの撮影はスタートする。
アクションシーンの撮影は凄まじいほどの迫力。リハーサルで、目の前でスタントの失神者を見たときは、ちょっと不安にも。
ほぼ24時間体制での撮影にも驚きが。3交代と言うスタイルなので8時間×3チームのはずが、例えば、俳優はそうはいかない。クランプアップで帰国した安田成美さんから一番に言われたのはこのことだ。「私たちは交代出来ないので出ずっぱり……」。郷に入れば郷に従え、との諺もあるが、この点は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それでも一瀬隆重SFXプロデューサーはじめ、特撮ユニットは、撮影:中堀正夫(『帝都物語』)、ストーリーボード:樋口真嗣(当時はまだ22歳)、アニメーター:真賀里文子、メイキャップ:若狭新一など今、振り返れば、錚々たるメンバーに参加してもらっていた。当時は皆、若かったが。ミッキー吉野さんの音楽も素晴らしかった。
せっかく、ユン・ピョウさんに出演してもらったのに、日本公開版は日本語吹替になってしまった。今では珍しくないが、当時の外国映画は日本語字幕が当たり前だった。その違和感は今でも覚えている。脚本で「兄弟」にしたため、どちらかの言語に合わせざるを得なかったことも理由の一つだ。それでも日本では20億円弱の興行収入をあげヒットした。
ただ、香港公開では日本人俳優のシーンが一部カットされ、より「香港映画」になった。香港の撮影スタイルは独特で、日本との違いはある程度分かっていたつもりだったが、予想以上のギャップがあった。日本人俳優のリアクションの仕方など、香港との大きな違いを実感した。
その後、『異邦人』(2000/スタンリー・クワン監督)など香港との合作や、香港スタッフとの仕事は5~6回はあっただろうか。ジャッジの早さ、明解さや、映画製作を進めるスピード、効率は香港の特徴でもあり学ぶべき点は多い。
▲1985年の日本公開のツイ・ハーク監督のアクション・コメディ香港映画『皇帝密使』。マイケル、スタンリー、リッキー、シンディのホイ兄妹の四男で、『Mr.Boo! ミスター・ブー』シリーズで知られるサミュエル・ホイ扮する香港一の大泥棒サムが活躍する『悪漢探偵』シリーズの第3作。『007』やテレビシリーズ「スパイ大作戦」のパロディを折り込み、「スパイ大作戦」主演のピーター・グレイブスや、『007 ムーンレイカー』で殺し屋ジョーズを演じたリチャード・キール(写真の大男)も出演している。リチャードの両隣にはエリザベス女王とロナルド・レーガンのそっくりさんの顔も。左端がサミュエル・ホイ。
今年『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』(2024/香港)が日本で公開されて、観てとても面白かった。『孔雀王』制作時、まだ残っていた九龍城近辺で危ない? 撮影を行ったことを思い出した。当時、無法地帯と呼ばれていた。この映画の音楽は『リング』(1998)も手掛けてもらった川井憲次さん、アクション指導に谷垣健治さんが参加していて、合作ではないが、香港と日本が上手くコラボレーション出来ていると思った。
香港映画は中国との関係もあり、全盛期時の活況にはなっていないが、『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』を観る限り、才能は健在である。
香港で製作発表や記者会見を行った時、一番驚いたのは、会見の仕切りがほとんどなく無く? 自由気ままな感じで始まる。まだ、記者会見前なのに、壇上に並んだ俳優たちの写真を前から後ろからバシャバシャ撮りだす。会見中も記者席で携帯電話し放題。立ち上がって大きな声で喋っている人も。日本の俳優はドギマギしているが、香港では当たり前。こんな会見で明日の記事とかちゃんと出るのだろうか……。と僕も最初は不安だったが、日本の会見よりもはるかに大きな記事と写真が出た時には「これが香港スタイル」とニンマリしたものだった。
▲写真右手前に筆者、その後ろにサミュエル・ホイ、左から3番目にツイ・ハーク監督のほか、製作のカール・マッカ、脚本のレイモンド・ウォンの顔も見える。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。