古代インドに発生した原始教団、その熱気と、素朴で力強い教えの実態を知る。中村元『原始仏教 その思想と生活』
創刊以来多くの読者の皆様に支えられ、今年60周年を迎えた『NHKブックス』。これまでに刊行してきた1300近いタイトルの中から、歴代のベストセラー&ロングセラーの一部を特別公開します。
本記事では、最初期の仏教の姿を活写した超ロングセラー『原始仏教 その思想と生活』(中村元 著)の冒頭を公開します。近年も話題になっている「仏教以前の世界」を知らずして、「なぜ仏教が生まれたか」は理解できないはず。大家による簡潔で明快な記述から、紀元前インド社会の実像が見えてきます。
※一部編集して再構成。注釈は省略します。
『原始仏教 その思想と生活』「まえがき」より
釈尊(ゴータマ・ブッダ)は、歴史的人格として実際にはいかなる生涯を送り、どのような教えを説いたのであろうか。
釈迦族の聖者、釈尊の生涯は、表面的には比較的平穏であって、特に受難の事件として取り立てて言うほどのこともないが、釈尊本来の姿は、インド人一般の思惟(しい)方法によってかなり影響を受けているようである。インド人は、一般に個別的な事象よりも普遍的な法(ダルマ)の意義を強調してきたために、歴史的人物としての釈尊の事績は、神話的な象徴と空想との背後に、奥深く押し隠されてしまった。
しかし近代にいたって、学問的研究が進むにしたがい、釈尊はもはや大乗経典に現われるような神話的な存在ではなくなり、その人間性が見直されて、歴史的・社会的視点から、その教えや思想が検討されるようになった。さらにまた、諸学者による仏跡の発掘調査が行なわれ、その根拠が一層確実なものとなった。釈尊はいまや神話の世界にとどまることなく、その人格と思想とが客観的に評価されるようになり、単に仏教内部のみならず、東洋と西洋との区別を超えて、世界思想史の中で改めて見直されるようになったのである。
一般に仏教の最初期における原始仏教とは、普通、パーリ語の聖典や、それに相当する漢訳経典にあらわれている仏教をいうのであり、これに対して、わが国に伝わる仏教は、いわゆる大乗仏教であって、後代の発達した姿を伝えている。
原始仏教については、先年NHKのFM放送で十二回にわたり連続放送したことがある。その際の原稿に筆を加え、原始仏教における複雑な変遷過程を顧慮しながら叙述したものが本書である。その内容は拙著『インド古代史』(上・下)『ゴータマ・ブッダ(釈尊の生涯)』『原始仏教の成立』『原始仏教の思想』(上・下)『原始仏教の生活倫理』(いずれも春秋社刊)にもとづいたものであり、その教義学的な特殊な論議は省略した。なお引用した聖句については、参考までに若干の注を付し、出典を明らかにした。
全仏教史の底に一貫して流れている精神を、その根源にさかのぼり、極めて素朴にして現実的な原始仏教の思想と生活倫理について一般の方々が理解して頂ければ幸せである。
『原始仏教 その思想と生活』目次
まえがき
1 原始仏教の時代的背景
2 釈尊の生涯
3 原始仏教の基本的立場
4 苦しみと無常
5 自己の探求
6 迷いと理想
7 慈悲
8 不安と孤独
9 初期の教団
10 生活倫理の基礎
11 男女間の倫理
12 家庭における倫理
13 社会生活における倫理
14 経済に関する倫理
むすび
原始仏教の時代的背景――社会的基盤
人種
仏教が起る以前のインドにおいては、ガンジス河の上流地域を中心として、アーリヤ人――インド文化形成の主流をなす人種で、西洋人と同じ種族――は牧畜とともに農耕に従事していた。そこでは多数の小村落を建設し、司祭者(バラモン)を中心として階級的区別にもとづいた農村社会を確立していた。インド特有の階級制度では、個々の階級を「カースト」とよぶ。かれらは孤立的、閉鎖的な経済生活を営み、バラモン教の文化を完成した。
社会的には四姓の制度が形成されていた。四姓とは、(1)司祭者(ブラーフマナ)、(2)王族(クシャトリヤ)、(3)庶民(ヴァイシャ)、(4)隷民(シュードラ)の四階級である。それらのうちで司祭者バラモンが最も尊く、王族がこれに次ぎ、隷民は最も卑しいと考えられた。異なった階級の間では結婚が制限された。後代になると多数のカーストが成立し、異なった階級の間では結婚と食事を共にすることが禁ぜられ、若干のカーストは不浄と見なされるようになる――。
宗教面ではヴェーダ聖典を奉じ、その規定する祭祀を行ない、神々に動植物の犠牲をささげていた。
ところがアーリヤ人はその後次第に東方に進出し、西暦前六世紀から五世紀のころになると、ガンジス河中流の諸地域に定住し、その勢力は下流にまでも及ぶに至った。そしてそれとともに社会的、文化的にめざましい変動が起ったのである。
まずアーリヤ人が東方に進出して、末知の新しい土地に定住した結果、必然的にかれらと先住民族との混血が盛んに行なわれた。新たに侵入して来たアーリヤ人の男子が、先住民族の婦女を娶るということが非常に多かったであろうことは想像に難くない。数多の氏族が全体として移住して来た場合でも、幾多の世代を経過するうちには、本来の血の純潔を保持し難くなったことであろう。現代インドの種族分布状態の調査報告を見ても、純粋のアーリヤ人が居住しているのは、主として西北インドであり、ガンジス河流域の住民は、アーリヨ・ドラヴィダ族という類型におさめられている。すなわちアーリヤ人とドラヴィダ人との混血なのである。
さてこのような混血が盛んに行なわれたとすると、そこには当然別種の民族が成立する。新たに形成された民族は、もはや必ずしもアーリヤ人の父祖以来の伝統的な風習、儀礼、信仰をそのまま遵守しようとはしなかった。古来の民族的伝承に対しては、むしろすこぶる自由な恣意的な態度をとった。かれらがヴェーダ文化、すなわちバラモン教の文化をさほど重要視しなかったのは当然である。かれらはアーリヤ人系の言語のうちでも崩れたもの、すなわち俗語(プラークリット)を使用していた。
また必ずしも混血が行なわれなくても、当時の商業都市においては、皮膚の色を異にする多くの異民族が共に住むこともあったらしい。商業都市ヴェーサーリー市の住民のうち、或る人々は黒色、或る人々は黄色、或る人々は赤色、或る人々は白色であったと伝えられている。こういう超人種的な基盤が、やがて仏教やジャイナ教のような普逼的、論理的宗教を伝播させるもととなったのである。
国家と都市
この地域では最初は多くの小都市を中心にして群小国家が多数併存し、そのうちの或るものは貴族政治あるいは共和政治を行なっていたが、それらは次第に国王の統治する大国に併合されてゆく情勢にあった。大国の首都は繁栄し、そこには壮大な都市が建設された。当時はコーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサという四つの国が最も有力であった――やがて百年後にはマガダが他の諸国を征服し、ついにアショーカ王が出現するのである――。
これらの大国においては王権がいちじるしく伸張し、王族は人間のうちでの最上位者と見なされていたが、バラモンは以前ほどの威信をもっていなかった。
この地方に移住してきたアーリヤ人たちは、積極的に開墾を行なった。田をつくるために、森を切り開いたのである。国王が積極的に開墾にのり出すこともあった。灌漑(かんがい)用水の設備も積極的につくり出された。耕地整理も行なわれた。今日でもガンジス河中流地方を旅行すると、水田の畦道が縦横十文字につくられ、満々と水をたたえているが、この光景は仏教興起時代にまでさかのぼるものである。このような事情にもとづいて多最の農産物を産出したために、かれらの物質的生活は極めて豊かで余裕があり、また安易となった。
物資が豊富になるとともに、次第に商工業が発達し、多数の小都市を成立させるに至った。それまでのように社会が氏族的構成をもっていた時代には、都市というものは末だ成立していなかった。広義のヴェーダ文献は都市に言及していない。インド文化史上において都市がすがたを現わすのは、この時代以後のことである。釈尊入滅当時の大都市としては、チャンパー、ラージャガハ(王舎城)、サーヴァッティー(舎衛城) 、サーケータ、コーサンビー、バーラーナシー(ベナレス)という六大都市のあったことが伝えられている。道路は一定の計画にもとづいてつくられ、道路の交差点はロータリーになっていて、そこには公園があった。これは今日のインドでも見られるすがたである。その公園には色とりどりの美しい花が咲き乱れていた。生活物資が豊富となり、商工業が発達したのにともなって、貨幣経済の進展がいちじるしい。遺品についてみても、文献についてみても、貨幣はこの時代から使用されるようになった。
階級の崩壊
総じて、流通経済が盛んになり、生産品が商品として等価交換されるようになれば、一切のものが貨幣価値によって評価されるようになる。貨幣で評価される財産を多く所有する人が、社会的勢力をもつようになるのは当然であろう。都市には莫大な富が蓄積され、商工業者たちは多数の組合(セーニ、またはプーガ)を形成し、都市の内部の経済的実権を掌握していた。組合の統領を「長者」( セーティ)という。わが国で「億万長者」などというその呼び名はここに由来するのである。
いまや経済的実権を把握した人が社会的覇者として登場した。『たとえシュードラ(奴隷)であろうとも、財宝、米穀、金銀に富んでいるならば、クシャトリヤ(王族)でも、バラモンでも、庶民でも、かれより先に起き、後に寝て、進んでかれの用事を務め、かれの気に入ることを行ない、かれに対して好ましいことばをかけるであろう。』という社会的事情が、原始仏教聖典の中に認められている。
このような社会情勢に対応して、旧来の階級制度は崩壊しつつあった。人々はもはやバラモンに対してそれまでのような尊敬を払わなくなった。他方、物質的生活が豊かに安楽になるにつれて、人々はややもすれば物質的享楽に耽(ふけ)り、道徳の頽廃(たいはい)もようやく著しくなってきた。こういう空気のうちに生活する人々の眼には、旧来のヴェーダの宗教は単なる迷信としか映らなかった。そこで異端的な思想を抱懐する思想家が続出した。かれらを「つとめる人」(シュラマナ、沙門)と称する。かれらに好都合なことには、当時は思想の自由および発表の自由が極度に容認されていた。「およそ人類の歴史を通じてこの時代のインドほどに思想の自由が完全に容認されていたところは、最近代のヨーロッパを除いてはほかに存在しなかった。」とマックス・ウェーバーは主張している。当時の諸国王や諸都市はしばしば哲人たちの討論会を開いてかれらに自由討論させたが、いかなる意見を述べても処罰されることはなかった。当時の主要な異端的思想家としてプーラナ、パクダ、ゴーサーラ、アジタ、サンジャヤ、ニガンタ・ナータプッタの六人が挙げられるが、かれらを仏典では「六師」とよんでいる。
原始仏教の時代的背景――異端の思想家たち
1道徳否定論(プーラナ)
当時の社会には道徳を否認するのみならず、その否認を公然と表明する思想家がいた。その代表者はプーラナ・カッサパである。プーラナは奴隷の子であり、その主人の牛舎で生まれ、主人のもとから逃れ、そのとき衣を取られて以来裸形(らぎょう)でいたといわれる。当時のインドには裸形の行者が大勢いたから、かれもその一人であったのであろう。プーラナが個人名で、カッサパはその出身の族姓であろう。サーヴァッティー市で釈尊と神通力を競って敗れ、釈尊が悟りを開いてのち十六年目にこの都市で水死したという伝説もある。ともかくかれが奴隷の出身であったことは相当重要視すべきことである。
かれは次のように主張したという。
『いかなることをしても、またなさしめようとも、生きものおよび人間を切断しても、また切断せしめようとも、苦しめようとも、また苦しめさせようとも、悲しませようとも、また悩ませようとも、おののかせようとも、またおののくようにさせようとも、生命を害しようとも、盗みをなそうとも、他人の家に侵入しようとも、掠奪をなそうとも、強盗をなそうとも、追いはぎになろうとも、他人の妻と通じようとも、虚言を語ろうとも、このようなことをしても悪を行なったことにはならない。たとえ剃刀のような刃のある武器をもってこの地上の生きものすべてを一つの肉塊となそうとも、これによって悪の生ずることもなく、また悪の報いの来ることもない。
たとえガンジス河の南岸に行って、生きものおよび人間を殺したり、害したり、切断せしめたり、苦しめたり、苦しめさせようとも、これによって悪の生ずることもなくまた悪の報いの来ることもない。
またたとえガンジス河の北岸に行って施しをしたり、施しをさせたり、祭祀をしたり、祭祀をさせたりしても、これによって善(福徳)の生ずることもなく、また善の報いのくることもない。
施しをしても、自己を制しても、感官を制しても、真実を語っても、これによって善の生ずることもなく、また善の報いの来ることもない。』
ガンジス河の北岸では有徳な生活が行なわれ、南岸では悪が行なわれていると考えていたわけであるが、一般にガンジス河上流の北方地帯がバラモン教の根拠地であり、宗教都市ベナレスやプラヤーガも北岸にあるが、南方は末開化の住民が住んでいると考えられたので、このようにいったのであろう。
ここでは世間一般に美徳として賞賛されていることを否認しているのである。かれは、善悪の区別は人間がかりに定めたものであり、真実においては実在しないものであり、業に対する応報もあり得ないと考えて、道徳観念を否定したのであった。
道徳否定論は、かれにつづく幾多の思想家によっても公然と唱えられたが、この事実は当時の都市文化の爛熟と、それにともなう道徳碩廃の現象に対応するものであった。
2七要素説(パクダ)
唯物論者は霊魂と身体を一体と見なしたのであるが、一部の思想家は霊魂という独立の原理を認めるとともにそれを物質的なものとみなして、身体を構成している物質的諸要素と同じ資格のものと解した。物質的な五元素(地・水・火・風・空)のほかに、アートマンを第六の要素と見なす説が当時行なわれていたということを、ジャイナ教の聖典は伝えている。こういう思想傾向の―つの発展形態としてパクダの七要素説が現われたのである。
パクダ・カッチャーヤナはパクダが個人名で、カッチャーヤナは族姓の名である。かれによると、人間の各個体は七つの集合要素すなわち地・水・火・風の四元素と苦・楽と生命(霊魂)とから構成されているという。ここでは苦と楽というものを、個人的主観の属性あるいは様態のようなものとは考えないで、むしろ独立な実在する実体と解しているのである。これらの七つの要素は作られたものではなく、創造されたものでもなく、他のものを産み出すこともない。これらは山頂のように不変であり、石柱が堅固であるように安定している。これらは動揺せず、変化せず、互いに他を害(そこな)うこともない。互いに他のものに苦しみまたは楽しみを与えることもない。人間各個人はこのような多くの要素から構成されているのであるから、一人の個人が他の個人を苦しめ、あるいは楽しませることもないのである。このような要素集合観においては霊魂の独立性・主動性は認められないことになる。
そこで実践の問題に関しては異様な結論がみちびき出される。――故に世の中には、殺す者も殺さしめる者もなく、聞く者も聞かしめる者もなく、識別する者も識別せしめる者も存在しない。利剣を以て頭を断つとも、これによって何人も何人の生命を奪うこともない。ただ剣刃が七つの要素の間隙を通過するのみである――と。
かれは霊魂というものを認めているから、その思想は純粋の唯物論または感覚論ではないけれども、著しく唯物論的である。そしてこういう立場の哲学説は実践的には道徳を否定するものであり、その点はプーラナやのちにのべるアジタの場合と同様である。
3宿命論(ゴーサーラ)とアージーヴィカ教
宿命論または決定論はインド一般に異端説の一つとみなされているが、特にゴーサーラを開祖とするアージーヴィカ教によって唱導されたものである。
ゴーサーラの伝記の詳細は不明であるが、伝説によるとその父をマンカリ、母をバッダーと称し、父は宗教上の巡礼者であったが、サーヴァッティー市の近くで両親が牛舎(gosara) に入って雨季を過している間に子が生れたので、かれをゴーサーラと名づけたという。かれはジャイナ教祖マハーヴィーラと六年間共同修行をしたが、意見が合わないで別れ、その後二年で悟りを開き「勝者」とよばれる者となり、それから十六年間生存して西紀前三八八年頃サーヴァッティー市で没したと考えられる。
かれの属していた宗教はアージーヴィカと称する。元来は単に「生活法」を意味する語であったと考えられるが、宗教の名としては「生活法に関する規定を厳密に遵奉する者」の意味となり、他の宗教からは貶称として「生活を得る手段として修行する者」の意味に用いられ、漢訳仏典ではこれを「邪命外道(じゃみょうげどう)」と訳している(命とは「生活」という意味である)。すなわちアージーヴィカとは語源的には単に「生活派」というだけの意味しかないので、この名称に対して世人はそれぞれの立場からほしいままの解釈を下していたのである。
この宗教は托鉢(たくはつ)遍歴者の団体であり、ブッダ時代ならびにそれ以後においては相当有力なものとなった。アショーカ王の詔勅にも仏教やジャイナ教と並ぶ大宗教として列挙されている。またかれの孫ダシャラタ王は、この宗教の修行者たちに洞窟寺院を寄進していたので、マウリヤ王朝時代までは相当有力であったが、その後ジャイナ教の中に吸収された。
このように、昔は大宗教であったけれども極めて古い時代に消滅したために、その典籍はすべて散逸し、わずかに他宗教の書(十二世紀に至るまで)のうちに断片的に引用されているにとどまる。しかし南インドでは後世に至るまで相当栄えていたらしく、少なくとも十四世紀に至るまで、主としてマドラスからバンガロールに至る中間の地域に栄え、またカシュミールにも十一世紀にアージーヴィカ教に似た説を唱えた修行者の一団が存在していた。
ゴーサーラの説によると、生けるものを構成している要素として、霊魂・地・水・火・風・虚空・得・失・苦・楽・生・死の十二種がある。それらのうちで「虚空」は他の十一の要素を成立せしめている場所である。得・失・苦・楽・生・死という最後の六種は、これらの名で呼ばれる現象作用を可能にさせる原理を考えてこれを実体視したものである。(インド人の間ではもともと抽象観念を実体視する傾向がある。)また霊魂と五元素とを認めているのであるから、二元論の立場に立っているわけであるが、その霊魂は物体のように考えられ、したがって唯物論的である。その霊魂の観念は古来インドの原住民の間で漠然と考えられていた物活論の観念にもとづいているのであるが、霊魂を原子のようなものとみなした点では一歩を進めている。
さらにかれは、人間のみならず一切の生けるものの運命に関しては宿命論(決定論)の立場に立っていた。かれによると、一切の生きとし生けるものが輪廻の生活をつづけているのは無因無縁である。またかれらが清らかになり解脱するのも無因無縁である。かれらの生存状態は、自分がつくり出すのでもなければ、また他の者がつくり出すのでもない。かれらには支配力もなく、意志の力もなく、ただ運命と出会いと本性とに支配されて、いずれかの状態において苦楽を享受するのである。したがって人間の意志にもとづく行為は成立し得ない。八百四十万の大劫(※)の間に、愚者も賢者も流転し輪廻して苦しみの終りに至る。その期間においては修行によって解脱に達することは不可能である。輪廻の期間は予定されている。
その期間は増減もできず、長短も不可能である。あたかも糸毬を投げると、解きほぐされて糸の終るまで転がりつづけるように、愚者も賢者も定められた期間の間は流転しつづけるのである、と主張した。このように、かれは自由意志にもとづく行為を否定し、したがって個人の業による因果応報を否定し、徹底的な決定論あるいは宿命論を説いたのである。意志の自由を否定した最初の思想家であったと言えるであろう。
なお必然論と偶然論とは仏教によってもジャイナ教によっても否認されたが、世界を支配する主宰神がすべてを支配するという見解も道徳を破壊するものであるとして排斥された。これは注目すべきことである。西洋の思想では神は道徳の成立する根拠であった。ところがここでは万能の神は自由意志にもとづく道徳を破壊するものと考えられているのである。
※「劫」とはサンスクリットのkalpa の音写で、数え切れぬほど非常に長い年数の時期をいう。
4唯物論(アジタ)
プーラナなどに見られるような道徳否定論は、哲学的には唯物論によって基礎づけられる。おそらく道徳否定論を基礎づけるために、唯物論がやや遅れて現われたらしい。その代表的理論家はアジタである。
アジタは当時の一部の苦行者の風習に従って、毛髪でつくられた衣をまとっていたと考えられる。かれによると地・水・火・風の四元素(四大)のみが真の実在であり、独立常住である。さらに、これらの元素が存在し活動する場所として虚空の存在をも認めていた。人間はこれらの四元素から構成されているという。
アジタよりも以前にすでに、ウパニシャッドに現われる哲人ウッダーラカの哲学において、自然界を構成している元素と人間の身体を構成している元素との一致ということが考えられていた。かれは火・水・食物という三つの元素を認め、それらが自然界をも、また人間をも構成していると考えたのである。アジタはこういう思想をも継承し、合理化して、唯物論の立場でこれを徹底せしめた。
アジタによると、人間が死ぬと、人間を構成していた地は外界の地の集合に帰り、水は水の集合に、火は火の集合に、風は風の集合に帰り、もろもろの機官の能力は虚空に帰入する。人間そのものは死とともに無となるのであって、身体のほかに死後にも独立に存在する霊魂なるものはあり得ない。愚者も賢者も身体が破壊されると消滅し、死後には何ものも残らない。したがって現世も来世も存せず、善業あるいは悪業をなしたからとて、その果報(因果応報)を受けることもない。(仏教ではこのような見解を「断見(だんけん)」すなわち断滅論とよんでいる。)施しも祭祀も供犠も無意義なものである。世の中には父母もなく、また人々を教え導く「道の人」(沙門)・バラモンも存在しないと主張した。ここにプーラナの主張した道徳否定論が哲学的に基礎づけられたことになるのである。したがって、かれは哲学的には唯物論者であり、認識論の上では感覚論、実践生活の上では快楽論の立場に立っていたと考えられる。
5懐疑論(サンジャヤ)
真理をあるがままに認識し、叙述することは不可能であるという主張、すなわち不可知論(無知論)は、インドにおいても古くからあらわれた。その代表的な思想家はサンジャヤである。かれは、当時インド最大の強国であり学問や技術に関して最も進歩していたマガダ国の首都である王舎城という都市に住んでいた。つまり時代の最尖端にあって活動していたのである。ゴータマ・ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)と大モッガッラーナ(大目犍連)は初めこの人の弟子であったが、ゴータマ・ブッダがさとりを開いた翌年に王舎城に来たときに、同門のもの二百五十人とともにゴータマの弟子になったので、サンジャヤは「血を吐いた」と伝えられている。これは、歴史的にみて、仏教はサンジャヤの懐疑論をのりこえたところに現われ出た新しい思想運動であったということを示している。
ともかくサンジャヤはインド思想史上に初めて懐疑論者として登場した人である。かれは、「来世が存在するか?」とかその他「生まれかわった生きものは存在するかどうか?」「善・悪業の果報は存在するかどうか?」「人格完成者(如来)は死後に存在するかどうか?」などというような形而上学的問題に関して質問を受けたときに、ことさらに意味の把捉され得ない曖昧な答弁をして、確定的な返答を与えなかったという。かれの立場は「鰻のようにぬらぬらして捕え難い議論」と呼ばれ、また形而上学的問題に関して確定的な知識を与えないという点で「不可知論」とも称せられる。ここにインド思想史上初めて形而上学的問題に関する判断中止の思想が明らかにされた。
6原始ジャイナ教
ジャイナ教の祖師は、六師の一人であるニガンタ・ナータプッタである。ニガンタとは、サンスクリット語のnirgranthaに相当し、「繫縛(けばく)を離れた者」という意味である。ナータプッタとはナータ族の出身者という意味である。かれの本名はヴァルダマーナ(「栄える者」の意)であるが、大悟してから後にはマハーヴィーラ(偉大な英雄)と尊称される。「偉大な英雄」という呼称は、仏典ではブッダに関しても用いられ、漢訳仏典では「大雄」と訳されているように、ジャイナ教のみならず当時の諸宗教において、一般に偉大な宗教家に対して付せられていた尊称であるが、後世にマハーヴィーラというと、もっぱらジャイナ教の開祖を指していうと解せられるようになった。ニガンタとはかれよりも以前に古くから存した宗教上の一派の名であるが、かれがこの派に入ってのち、その説を改良したのでジャイナ教が成立した。しかしジャイナ教が成立したあとでも、なおジャイナ教のことを、その教徒自身も、仏教徒もともに、「ニガンタ」と呼んでいた。
ジャイナとは「ジナ(勝者)の教」という意味である。宗教上の修行を完成した人をジナ(勝者)と呼ぶわけは、かれが一切の煩悩という敵に打ち勝った人であると称えられていたからである。このような人をジナと呼ぶことは仏教とも共通であり、仏典では大乗仏教においてさえもしばしばブッダをジナと呼んでいる。しかし後世インドでは、ジナという語はジャイナ教の修行完成者を特に意味するようになった。また他方修行完成者のことをジャイナ教でも「ブッダ」と呼ぶことがあるから、この点でも仏教と共通であったが、後代インドではブッダというと、仏教での理想的人格を意味するようになった。ゆえに理想的人格の呼び名は、もとは仏教でもジャイナ教でも区別がなかったけれども、後世になってから、どれか一方を別々に偏好するようになったのである。
ヴァルダマーナは西紀前四四四年頃に当時の商業活動の中心であったヴァイシャーリー市の北部のクンダ村で王族の子として生まれた。かれが商業都市を背景とした貴族の出身であったということは、かれの思想の成長発展を考察するためにも特に注目さるべきことである。
かれは成長して一婦人と結婚し一女を儲けたが、父母の死後、兄のゆるしをえて三十歳のとき出家して修行者(沙門)となり、ニガンタ派に入って、専心苦行をした。そののち二年目にゴーサーラに会い、六年間共住修行し、のち別れて四年後に完全な知慧をえてジナ(修行を完成した人) となり、三十年間教化を行ない、七十二歳でネパール国境に近いパーヴァーにおいて寂(じゃく)した(西紀前三七二年頃)。かれが釈尊と同時代の人であったということは、原始仏教聖典およびジャイナ教聖典がともに伝えるところである。
ジャイナ教はその後仏教と相並んで発達し、正統バラモン系統以外の二大宗教の一っとしてインド文化の諸方面に著しい影孵を及ぼした。すなわちジャイナ教は、仏教と同じ時代にほぼ同じ地方(東北インド)で同じ階級(王族)の出身者によって創められ、同様な社会的地盤において成育し、相似た発展過程をたどり、時代ごとに同様な変化を示している。教理も似ているし、同じような術語を用い、神話伝説にも共通なものが少なくない。開祖の生涯・伝記も類似している。初めのうちはともに俗語(プラークリット)を用いていた。すなわち原始仏教聖典はパーリ語でまとめられ、ジャイナ教聖典はアルダ・マーガディー語で書かれているが、両言語ともに俗語の部類におさめられ、サンスクリットとは異なっている。教団の構成も非常によく類似していて、どちらも出家修行僧が中心となり、在俗信者がそれに帰依し、それを支持するということになっている。また修行を完成した人の呼び名が共通で、仏教でもジャイナ教でも、ブッダ(目ざめた人)、マハーヴィーラ(偉大な英雄)、タターガタ(如来)、アルハット(阿羅漢)、バガヴァット(世尊)などという。
このように、あらゆる面で共通性が著しいために、西洋でインド学が成立した初期には、ジャイナ教は仏教の一分派であると誤り解せられた。両者の区別を一言でいうならば、ジャイナのほうが仏教よりも、原始的であり、実在論的である。しかしその類似性のゆえに、ジャイナ教を研究することは、仏教研究のためにも是非必要である。
ジャイナ教は近代に至って次第に衰微したが、今日でもなお約二六〇万人の信徒をもっている。かつては王侯貴族の間にも信者を獲得していたが、いまではその信徒は多くは商工業者である。それは、のちに説明するように、ジャイナ教の徹底した不殺生主義に由来するといわれている。ジャイナ教の教団は、このような在俗信者の帰依支持を受けながら、出家修行者を中心として結成されている。この点も仏教の場合と似ている。
ジャイナ教は独自の哲学体系を発展させたが、それはやや年月を経過してからのことであるらしい。ジャイナ教の特徴は、そのきびしい修行である。
ジャイナ教によると、霊魂は業に束縛されて、このような悲惨な状態に陥っているが、それから脱し、永遠のやすらぎである至福の状態に達するためには、一方では苦行によって過去の業を滅するとともに、他方では新しい業の流入を防止して、霊魂を浄化し、霊魂の本性を発揮せしめるようにしなければならない。この修行を徹底的に実行することは、世俗的な在家の生活においては不可能である。そこで、出家して修行者(沙門)となり、妻子と離れ一切の欲望を捨て、独身の遊行生活を行なうことを勧めている。このような修行者はビク(「乞う者」の意) とも称せられ、托鉢乞食の生活を行なっていた。仏教でも修行僧のことをビク(比丘) というが、それはジャイナ教などからとり入れたものである。またその修行はバラモン法典に説く「遍歴」に対応する。
『死ぬ時を待ちながら遍歴せよ。』
『修行に向かってゆく彼を見て、かれら(両親)は悲しんで、「われらを捨てるな」といって語る。欲に導かれ、愛情にほだされている両親は号泣して叫ぶ。両親を捨てた人は(輪廻の)流れを渡った人なのだ。かれはそこ(家庭)によりどころを求めない。どうしてそこに楽しむことがあろうか。この智慧を常に保持すべし』 と。
かれらは出家の生活に誇りをもっていた。
『真直な行為を為し、正しい実践を為し、偽りなきことを為しつつある者は「出家者」と呼ばれる。』
かれらのためには多数の戒律が制定されているが、まず第一に遵守すべきものは、不殺生・真実語・不盗・不婬・無所有の五つの大戒である。すなわち、
1 生きものを殺すなかれ。
2 真実のことばを語れ。
3 盗むなかれ。
4 婬事を行なうなかれ。
5 何ものも所有するなかれ。(=執着するなかれ。)
というのである。
ジャイナ教の修行者は戒律を厳格に遵守し、実行している。戒律を破るよりはむしろ死を選んだほどである。不殺生戒は特に重要視され、一切の生きものに対して慈悲を及ぼさねばならぬと考えた。一切の生きものは生命を愛しているのであるから、生命を傷つけることは最大の罪悪であるという。
ジャイナ教の出家修行者は極端な不殺生主義を守っている。道を歩くときには、小虫を踏むのを恐れて掃きながら歩む。掃くための審は、仏教僧のもつ払子(ほっす)のようなものであるが、かれら自身がつくったもので、触れるとまことに柔かい。掃いても小虫を殺さないようにできている。また修行僧も尼僧も口のあたりに白いマスクをしている。風邪をひかぬためではなくて、空中の小虫を吸い込まぬためである。水を飲むにも、濾過器でこして飲まなければならないが、それも小虫を飲み込んで殺生の罪を犯すことを恐れたのである。林の中を歩いてもならない。林の中の小虫を踏み殺す恐れがあるからである。こういう規定を現在でも守って実行しているのである。
不殺生、生きものをあわれむ、ということは、生命を愛する思想にもとづいている。それは自然科学的な意味における生命を愛するのではない。動物や植物の生命にまでも人間の生命との本質的な親近感を感じたのである。したがってそれは具体的・直観的な感情にもとづいているものである。今日インド人は一般に屠畜を嫌い、肉や魚を食べないが、それは不傷害の思想にもとづく。この不傷害、非暴力の思想はガンジーによって現代の世界に生かされることになった。ガンジーの根本思想は非暴力と奉仕であり、それは神につながる人間の法則であるという。ガンジーは全財産をなげうって簡易生活を行なったが、それは奉仕の精神にもとづくものであり、同胞への奉仕を非暴力の不服従運動によって実現しようとしたのである。
また、ジャイナの修行者は無所有ということでも徹底していた。かれらは衣服を身につけず、一糸も身にまとわないで、蚊や蠅などに身を曝して裸形で修行していた。しかしやがて白衣をまとうことを許す一派が現われたが、これを白衣派という。これに対して全然衣をまとうことを許さない保守的な人々を裸形派と称する。裸形派は「虚空を衣とする人」と自ら称している。なぜ裸形でいるのか。ジャイナの典籍は説明する。――すでにわれわれの肉体でさえも霊魂にまといつく覆い・束縛となっている。まして衣服を着けるのは、なおさら霊魂の清浄な本性をくらますことになる、と。だから尼僧は白衣派のほうにのみいるが、それはまた当然であろう。
インドでは裸形の修行者は非常に古くから存在し、ギリシア人たちには「裸の哲人」という名で知られていた。ジナの立像は全裸である。こういう人々が存在したのは、インド人が徹底した苦行を好むためもあろうが、またインドの暑熱の風土においてのみ可能であったのである。全裸形の修行は、回教徒がインドに侵入して以後一般的には禁止されたが、しかし現在でもなお、稀ではあるけれども全裸の修行僧がいる。かれらはジャイナ教徒の間では非常に尊敬されている。現在のジャイナ教徒に言わせると、これらの行者は煩悩や汚れをすっかり去っているから、隠すべき何ものもないというのである。
ジャイナ修行者はさらに断食・禅定など種々の苦行を修めなければならない。ものすごい苦行の実状が叙せられている。
『見よ! 智慧を得た人々の腕は痩せ、血肉は細った。輪廻の生存の連続を破って、真理を完全に知って、この人は、(輪廻を)渡った人、解脱した人、活動を休止した人と言われる――』
夏にも身を暑熱にさらし、時には幾月も水を飲まぬような苦行を行なう。かれらは飲食を制限し、しばしば断食を実行する。在俗信者といえども断食を実行しなければならない。長く断食を行なったために死に至るものも少なくない。そうして断食による死が極度に称讃されている。修行に当たっては自己の力にたよるべきことを強調し、何ら救済者の恩寵などを期待してはならぬという。
『友よ! 汝は汝の友である。どうして汝は(汝の)外に友を求めるのか。』
『悪歳の力を避けねばならないのみならず、神の欺瞞の力を信じてはならない。』
ところでジャイナ教は不殺生の戒律の実行を世俗の人々に対しても要求する。それを徹底的に実行すると、生産に従事し得ないことになる。木こりにはなれない。木を伐ると、樹上の鳥の巣をそこなうからである。干拓してはならない。水中の虫が死ぬからである。田を耕すのも好ましくない。みみずなどを傷つけるからである。そこで残る職業は、小売業と金貸業だけである。その代りジャイナ教徒はこの方面で精励するので、かれらの間には金持ちが多い。前世紀までのインドの民族資本の過半は、人口の僅か0.5パーセントにすぎないジャイナ教徒の手中にあった。意外なところで宗教と資本主義とが結びついていたのである。
著者
中村元(なかむら・はじめ)
1912年、島根県生まれ。東京大学文学部卒業・専攻はインド哲学。東京大学教授、東方学院院長、日本学士院会員を歴任。東京大学名誉教授。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章。1999年、没。